少女に隠れる蜘蛛女
人は意思によって魔法を使う。
つまり己の魂で魔力を扱う。
その魂があまりにも強い、絶望、怒りなどの負の感情にとらわれると魔力が魂を変質させ、魂は肉体を変質させて人を魔人と化することがある。
ロンバルト帝国伯爵家の朝は早い。
主のクリスが夜明とほぼ同時に起き出して朝の鍛錬をするからだ。
この屋敷で序列が最下位の侍女は鍛錬が終わるまでに冷たい水を張った水盤と清潔なタオルを用意しなければならない。
そのために、マリーという名の侍女にされてしまったマリウスは屋敷で一番早くベッドから出る。
12歩四方で衣装箱と姿見、小さなテーブルと椅子それだけしかない部屋は使用人のものとしてはかなり広いが以前暮らしていた部屋とは雲泥の差がある。
マリウスは大公家の次男で帝国伯爵に叙せられていたのだ。
しかし今ではそれらのことをまったく思い出すことができずこの侍女としての暮らしが当たり前の日常で昔から変わらないものと思い込んでいた。
自分では気付くことも無く記憶が融合しているマリーに侵食されて付け替えられていたのだ。
ついでにいつも感じていた屈辱感も感じなくなって、それが変だとも思わなくなっていた。
マリウスがかろうじて違和感を感じ、自分の中に別の人格が有ることを認識するのは、毎朝着替えるときのことである。
服を着ようとベッドから降りるとその小ぶりな胸がいやでも目に入り、マリウスの意思に関係なく両腕が年齢に比してかなりささやかなふくらみを隠す。
そして頬が羞恥心で真っ赤に染まるのである。
このときだけ異性の目で自分の胸を見てしまったことに違和感を感じ、胸の持ち主であるだれかの存在をを、マリウスは感じたような気になった。
ため息を一つついたマリウスはそのいやがる手を無理やり動かして服を身につけていく。
侍女らしいメイクが終わったときには先ほど感じた違和感のことなどすっかり忘れたかわいい侍女が鏡の中で微笑んでいた。
マリシアにマリーと名づけられた彼女はマリウスがベッドから起き出して初めて目が覚める。
そしてすでに起き出している自分を見つけるのである。
鏡に映る自分の胸を他人の視線で見てしまい、反射的に隠してしまってから思い出す。
自分はマリーの主人格になったんだと。
そしてマリウスの記憶を微調整する。
自分達主従がクリス様の奴隷になったあの時、主であるマリウスは無謀にもクリス様に決闘を挑み、あっけなく負けた。
その瞬間、専属の護衛である自分だけはマリウスの肩に隷属の印である奴隷紋が焼き付けられたことに気付いた。
決闘の直後に割り込むのは卑怯なことだが、体が無意識に動いてクリス様に襲い掛かっていた。
叩き伏せられ主人を奴隷化された絶望の中で自分は人にあらざる魔族に変わりつつあったのだが、とにかくマリウスを連れて逃げることしか考えられなかった。
同時に自分にも奴隷紋を押し付けられたのにも気付かず、全く抵抗できなかった。
全力を振り絞ってマリウスの体を担いでその場から自分達の屋敷まで逃げたが、マリウスを寝台に横たえた時には彼女の変身は完了し、巣にえさを持ち帰った蜘蛛のような心体になっていた。
そして本能のままに餌と見なしたマリウスに噛み付く。
少しでも美味しさを保つため、死なせないように足から。
獲物は牙から滴る神経毒で麻痺して動けず出血も少ない。
もう一口と口を開けたとたん後ろから巨大な存在に首を掴まれ意識が無くなり、そして目覚めたときには醜い姿は美形のマリウスに元の自分を少し加えたボーイッシュな美少女になっていた。
融合した魂のありようにはいろいろな形が有るが、マリーの場合には魔族と人の魂は融合せずに2重構造になった。
外側は人のままのマリウスがベースになり、内側に魔族化したマリーが隠れる。
外側の魂を内側のマリーが自由にアレンジすることによって、マリーは普通の少女に擬態している。
クリス以外の誰もがマリーを普通の娘だと思っているが、マリーは魔将軍クラスの魔族である。
そんなマリーから見て主のクリスは化け物じみた力を持っており、奴隷紋など無くとも逆らえる相手ではなく、仕えることに喜びを覚える相手だった。
主のクリスに命じられたマリーの役割は、主の正妻であるマリシアを護衛し補助すること。
マリーはマリシアの聖女の心の後ろに隠された強大な魔王、オスの鬼の存在を感じ取ることができ、彼女に仕えることにも喜びを感じていた。
そんなマリーに新しい任務。
新しく主の妻となる帝国の第七皇女ティアフィーリアの専属になること。
絶対的な命令をマリーは謹んで受け取った。
ただの人間を警護する、これがなかなか難しい。
同じ役目を受けた仲間、優秀な女官の魂と狂った魔導師の知識を持った魔鳥、カウラスがマリーの肩にとまった。
主は新しい妻をどうしようとしているのか。
カウラスに与えられた任務の詳細をマリーは知らない。




