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ピオニー

 プールの匂いがしていた。

 夏のプールの、きらびやかで無音の匂いだ、固形塩素の匂い。目覚めの際に伸ばした手が、夢の端に触れる。ぼんやりと指先の感覚を確かめていると、突然意識がはっきりした。

 知らない女が隣いる。

 色気の無いグレイのスーツに、白いブラウス、ご丁寧な事に黒いパンプスまで履いたままだ。女は俺を見下ろすようにして睨み付けていた。

「返して、指輪」

 何の話だか分からない。

 昨日のアルコールは体から出て行こうとしなかったらしく、重だるい半身を慎重に起こして、俺は眉を寄せてみせる。「I don‘t know」のゼスチャー。

「覚えてないの!?」

 女はヒステリックな声をあげた。覚えてるも何も。

「本当に!?」

 耳に突き刺さる細く高い声が頭に痛く、俺はつい女を突き飛ばした。

ベッドが壁際にあって、本当に良かったと思う。押された女は、心底軽蔑したような顔で俺を見て、壁にぶつかった肩を撫でた。

「あんた、俺の知り合い?」

 喉の渇きを覚えて、ベッドから足を下ろす。上半身が裸なのは、寝る時のいつもの癖だ。女の服が乱れていないって事は、そういう類の事はしなかったってことだろう。俺が起きるより早くに目覚めて、きっちり着込んだって言うなら話は別だけれども。

「……最低」

「ベッドにパンプスのまんま乗っかってるあんたも、かなり最低だけど?」

 眠くはないのにあくびがでた。

 あふあふと脳に酸素を送っていると、突然おぼろげな夢を思い出す。

「そういや、あんた俺の夢に出てきた気がする。あんた、夢の人? 俺の夢、聞きたい? 話そっか?」

 話せ、とも、話すな、とも言わずにいる女の態度を放っておいて、俺は話をしてやることにする。最低なだけではない、少しは親切なのだ。

「指輪」

 そう、指輪。

 俺が指輪を飲み込む夢だった。

 行き付けの店で、一組の男女が別れ話をしていた。不倫だったようで、男はにやつきながら女に別れを切り出していた。つまらない、ただのおっさん。確かに腹は出てないし、髪も多めにあったようだけれど、

 あのにやけた顔は気に食わなかった。なんていうか、脂ぎってません、と言いつつ、油取り紙を両手一杯隠しているような? 顔で。女は泣きそうな顔をしていた。地味目の女。暗い色のスーツは、オシャレで着ているものではけしてなく、周りの風景から浮き上がりたくないがない為に着込んでいることがばればれな。体のラインを殺しまくりだ、顔も余計ブスに見える、せめてもっと細身のパンツスーツにすれば良いのに。

 別れ話はこじれていた。

 女が首を縦に振らないからだ。

 もしかしたら、女は処女だったのかもしれない。 初めての人に全てを捧げたい、古風な女。初めての男が既婚者で、しかもどうみてもただの遊びだったっぽいのに、女はそれも分からずにすがっている。見苦しいけれど、可哀想だ。良くある話なだけに、なおさら。

 指輪を、と女が言ったのが聞こえた。

 指輪をくれたじゃないの、私が好きだって言ったじゃないの、嘘だったの?

 結婚しよう、妻とは別れるって、嘘だったの?

 嘘だったんだよ。そんなの、嘘に決まってる。男は笑って誤魔化すだけだけれど。

 可哀想な女。あんた、その指輪なんて、一万円しないよ。なんの石もついていない、シルバーの細いリングなんて。

 嘘でしょう、私なにか気に触るようなことをしてしまった? 悪いところなら全部直すわ、私を捨てないで。

 ああ、なんてみっともないんだ、本当に捨てられたくないのなら、一度死んで再び生まれ直すしかないよ。

 女は泣いていた。そんな男がそんなに好きかと、呆れてしまえるくらい純粋に。

「あのさ、」

 他人の別れに口を出すのは恰好悪いと知っていたけれど、あまりにも女が可哀想で、おれはついつい声をかけてしまう。驚いた女のアイシャドウが溶けていた。男が卑屈に笑いながら、何か、と低い声を出す。

「その指輪が邪魔だと思うんだけど」

 俺は女の薬指にあった指輪を無理矢理引き抜いた。抵抗する気も起こせぬまま、女は俺に指輪を取り上げられてしまう。俺はにやりと笑って、その指輪を天井に放り投げた。

 女の引き攣れた悲鳴。

 落ちてきたそれを俺はぱくんと口で受け止めて……。

「……あなたが夢だと思っていること、私は昨日の夜、実際に体験したんですけれど」

 女が脱力したように呟いた。

 なんだ、あれは夢じゃなかったのか。

「返して、指輪………」

「いいじゃん、あんな親父のプレゼントだろ? あんた遊ばれただけだぜ?」

 それでも、と女は震える声を上げた。泣き出す寸前だ、面倒臭い。

「それでも、男の人からの初めてのプレゼントなの! 私はまだ愛しているの、あの人なくして、私はどうするの!? 返して、返してよぅっ」

 あんな親父より数千倍は恰好良い俺様が目の前にいるっていうのに、なんて失礼な女。俺、半裸なのに。欲情すれば良いのに、俺が磨いてやるのに、もっともっと、俺ならあんたを綺麗にしてやれるのに。

「分かった」

 降参、のポーズを取って、次の瞬間、俺は女の腕を引く。

 あっという間に女はベッドの上に転がって、声を出す暇も与えないまま唇を塞いだ。

「指輪、吐いてやるよ。そんかし、俺と寝ようぜ。運動したほうが吐きやすそうだろ?」

 女の目が最大までに開いていた。恐怖ではなく、どちらかと言えば阿多真ん中いっぱいの「何故?」で。

 泣き疲れていたのだろう、げっそりとこけた頬が、見様によっちゃセクシー。あんな親父よりイイって、絶対、と自信を持って言ってあげて、まずは丁寧なキスからしてやる。

 観念したのか女の体からは力が抜けてきて、ひどくぐんにゃりとした生き物になってしまった。

 いただきます、きちんと手を合わせてからスーツもブラウスもするりと脱がせてしまう。

 案外白くて柔らかい肌に、冗談抜きでまともに欲情した。

「もっと、綺麗になれるよ、あんた」

 服も化粧も変えればさ、ほら、こんなに脚だって細いのに。

 女が目を閉じる。

 シーツに潜るなら素肌の方が絶対に気持ち良い。俺は自分のズボンに手をかけて、引き降ろす、と。

 カンッ、カチンッ。

 ベッドのパイプにぶつかって、ポケットから落ちたものが床に転がった。

「あっ?」

「あっ!」

 叫んだのはほぼ同時で。

「私の指輪!」

「まだ吐いてないのに!」

 どんな手品を使ったんだ、俺? と考えるまでもなく、ただたんに昨日、飲まないでポケットにしまっただけだったと思い出す。

 なあんだ、はっはっは、と笑いながら、平手打ちくらいはされるかな、と身構えていたけれども、女は多少呆然としながらも俺の下で笑っていた。

「なあんだ……」

 落ちた指輪を、けれども女は拾わない。

「……指輪出てきちゃったから、俺とはもうしない?」

「ちょっとがっかりしちゃった、って言ったら、私ふしだらな女かしら?」

 いや全然、と首を振ってやれば、女は恥ずかしそうに笑う。

「する?」

「ちょっと待って、私達、名前も知らないわ」

 首筋にたくさんキスをしてやると、彼女はくすぐったそうに声を上げた。

 可愛い声。

「あんたはピオニー、それでOK」

「ピオニー?」

「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花、の芍薬の事、ピオニー」

 立つところから始めて、最後に綺麗な百合になれば良いさ、と言ってやったら、彼女は照れて大暴れした。俺の唇に噛み付いたんだぜ?

「気障っ、気障すぎるわ! それにその言葉は、綺麗さの順番じゃないわよ」

「いいじゃん、ピオニー、俺、本気になっちゃったらどうしよう」

 素直に笑う彼女は可愛い。

 本当に可愛い。

 女の人は、基本的にすべて皆綺麗なんだ、きちんと水と肥料と太陽の光をあげた植物が、素敵な花を咲かせるように。

「ピオニー」

 俺は裸の彼女を力いっぱい抱きしめる。

「あの指輪は、あとで川原に埋めちゃおうぜ」

 葬式だ、君のくだらない過去に、と言ったら、彼女は拗ねたように、でも笑った。

 指輪の埋葬。過去を捨てて、未来を見よう。

 ピオニー、今日からここで、俺等は始まる、それはちょっと素敵なことだろう?


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