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第一章、大戦に至るまでの世界の歩み

第一章 大戦に至るまでの世界の歩み


歴史的な出来事というのは、個々に独立して起きるようなものではない。

全て過去の積み重ねの結果である。

8年戦争についても同様で、この戦争の本質を掴もうとするならば過去に遡らざるを得ない。

8年戦争に至るまでの世界の大まかな情勢を、必要なポイントに絞って述べていこうと思う。



~イスペリア暦の始まり~

世界各地に存在していた古代文明が没落と繁栄を繰り返しながらその領土を広げ、互いにその生活圏が近づき、今現在の国家間で行われている様な文化の相互交流が活発に行われるようになったのが紀元前284年ごろであった。

この頃から急速に国家の枠組みが整備され、それに伴い領土問題等に端を発する国家間の武力衝突も発生してくることになる。

紀元前23年、小国イスプートの若き将軍バーヤー・ハウシャットが、その類まれなる戦術家としての才能を発揮して次々と隣国を攻め落とし、23年後のイスペリア暦(伊暦)元年、ポニ大陸の約7割を手中に収めた彼はイスペリア帝国を建国、その初代皇帝に即位する。

ハウシャットは国の統治を行うにあたり、旧来の各民族独自の文化を禁止し、共通の暦として建国した年を元年とするイスペリア暦を強制し、宗教は太陽神を唯一神とする太陽教のみとするなど、新国家イスペリアへの帰属意識を強めようとした。

また、占領した国々の上流及び中流階級に対して税の緩和や、それまで王族にしか許されていなかった奴隷の所有を上流階級にも認めるなど、富裕層を中心とした優遇政策を行い、彼らに便宜を図った。

これによりハウシャットは、特に上流階級である者たちの強力な支持を集め、自身の権力を強めていくが、もちろんこれは貧民層に対する圧政の裏返しであり、抑圧を受けた下流階級の国民は帝国が崩壊するイスペリア暦284年までの間、鬱憤を募らせて行く。

富裕層、貧困層の互いに忌み嫌う感情、蔑む感情がそれ以後の社会全体に色濃く暗い影を落としていく事になる。



~帝国崩壊から第一次世界大戦前まで~

伊暦284年。

下流階級の相次ぐ暴動、反乱により帝国はその国力を徐々に衰退させ、イスペリア帝国は崩壊する運びとなる。

帝国崩壊後は様々な国々が次々と独立し、その数は43にも及んだ。

そのうち35 [後に4つの国家に統合する] は下流階級主導によって建国された市民主導(社会主義)国家、今で言う南部連合の陣営である。

対して残り8 [後に3つの国家に統合する] の国家は上流階級、旧帝国信奉者たちによる専制君主国家、今で言う北部連合陣営である。

イスペリア帝都、そして上流階級が多数住まう都市が北部に、下流階級都市が南部に集中していたことからこのような住み分けが出来たが、これらの国々の内、市民主導国家群ではローネルント共和国、専制君主国家では新たなイスペリアを意味するネルイスペリア王国がそれぞれ周辺国を主導して回った。


この単純明快な二極化はその後、約800年にわたり小競り合いや時には両陣営どうしの争乱に発展する火種となってしまったのは歴史的必然と言えよう。


北部諸国と南部諸国は、ほぼ国交を断絶、技術的格差が広がった。

北部諸国は重工業が、南部諸国は農業が飛躍的な発展を遂げることになる。

南部諸国は温暖な気候で、また地質的にも農業に適しており、食糧問題についてはまったく問題がなかった。

問題は北部諸国であった。

元々寒冷な土地で、食糧生産を南部に依存していたイスペリアは、その分裂後には慢性的な食糧不足に悩まされ、中立国からの輸入でなんとか賄ってきた。

しかし、南部にも問題がなかったわけではない。

前述の通り、北部諸国が重工業で発展できたのは北部山岳地帯で採掘される希少金属や鉄鉱石などのおかげであり、南部諸国はこれが不足していた。

そのため軍備についても、当初は劣悪な装備しか持たず、一部部隊は竹槍を正式装備としていたほどで、旧式な手持ち砲[拳銃のこと]すら満足に配備することが出来なかったのだ。

南部諸国は余剰穀物を中立国に輸出し、それを対価として鉱石類を輸入していた。

皮肉なことだが、その輸入していた鉱石類と言うのは、中立国が北部諸国から輸入したものであり、また、北部諸国に輸出していた穀物類も南部諸国産の物なのである。


国交を断絶していたにもかかわらず、中立国を介しての限定的な通商関係を築いていた事は両陣営とも把握していたが、表だって言う事はなく、皆一様に口をつぐんでいた。

しかし、この現状を良しと思っていないのは確かであり、そして中立国がいわば得をしているのを良しと思っていなかったのもまた確かである。

この奇妙な関係が、過去行われてきた両陣営の戦争、そして8年戦争の勃発に深く関わっている。



~第一次世界大戦~

伊暦1004年5月27日。

北部連合のペシミア公国領内、ローネルント共和国にほど近い村で虐殺事件が起きた。

最新の研究により、ネルイスペリア王国の特務隊によって実行された、痛ましい犠牲を伴なった自作自演であると判明している。

ペシミア公国はこれをローネルント共和国の過激派の犯行であるとの声明を発表し、謝罪と賠償、そして実行犯の受け渡しを要求した。

ローネルント共和国はこれを拒否。

ペシミア公国は動員令を下し、それに呼応する形で両陣営も兵員を動員、両陣営の緊張は一気に高まり、ついに6月22日、北部陣営パルチム王国とローネルント共和国との国境線で銃撃戦が展開された。

第一次世界大戦の勃発である。

第一次世界大戦の詳細については拙著「ベネルクス派遣軍-第一次大戦録-」を参照していただきたい。

ペシミア、パルチム両国の国境線が5キロ後退した状態で停戦協定が結ばれ、第一次世界大戦は終結した。

1009年8月23日の事である。

この北部連合にとって屈辱的な敗北は、大戦中に行った中立国への一部侵攻に対する反発も相まって非常に厳しいものになり、中立国との通商は不法ともいえる対価を求められ、経済の停滞、失業率の上昇などの国内情勢の悪化によって北部諸国は壊滅的な打撃を被ってしまった。

南部連合にとってもまた同じ事で、この大戦中に大勢の若者を失い、戦後復興にかける予算や物資も足りず、結局の所、この戦争の勝者は中立国であるロルマン王国、コーサス公国のみであった。

また、この大戦によってスクルランド王国から分離独立したマルメディ社会主義共和国も、完全な勝者とは言い難いものの、ロルマン、コーサスのそれと同じであると言えるだろう。

この痛み分けの戦いの後、北部南部共に自国の復興を目指して日々邁進することになる。

両陣営のどちらかが先に復興を果たした際、特に北部連合は再び南部に対し行動を起こすことは誰の目にも明らかであった。

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