「いってきます」
彼女は何があっても〝いってきます〟という言葉は使わなかった。少なくともぼくは聞いたことがなかった。
前にも何度か聞いたことがある。それでも彼女は一度も答えてくれなかった。
だから答えを期待していたわけではない。ただ聞いてみただけだったのに。
彼女はそっとぼくを見てから少し目を伏せる。そして静かな声で話してくれた。
「わたしが小さい頃、確か小学二年生くらいのときの話なんだけど。
母親が大きな鞄を持って、わたしの頭を撫でながらいつも通りの笑顔を浮かべて言ったの。
いってきますって。
当時のわたしにはその言葉に隠された真意がわからなかった。だからわたしは、いってらっしゃいって答えたわ。
でも、母親はそれ以来帰ってくることはなかったの。
後で知ったんだけど、父親の他に好きな人ができたからその人の所へ行ったんだって。わたしは邪魔だから父親に押し付けたって感じ。
それ以来、その言葉が嫌いになったの。
〝いってきます〟という言葉に行って帰ってくるなんて意味があるとしても、行ったきり帰ってこないこともあるって、子供ながらに実感してね」
彼女に母親がいないことは知っていたけれど、それにしても考えもしない答えにぼくは何を言えば良いかわからず俯いた。
彼女は立ち上がり、窓から外を眺めながら続ける。
「今母親がどうしてるかなんて知らないし、興味もないけどね。父親がわたしのことをありったけの愛情で育ててくれたから、母親が欲しいなんて思わなかったしさ」
そして一拍おいてから、彼女は呟くように言った。
「ごめんね」
突然発せられたその言葉の意味を理解できず、ぼくは顔をあげる。
「なんで・・・・・・」
彼女に尋ねようとして、彼女が荷物を持ってここから出て行こうとしているのがわかった。
彼女は振り返る。ぼくの顔を見る。ぼくにその綺麗な笑顔を見せてくれる。
彼女がドアノブに手をかけた。扉が開いて、彼女はぼくの外へ足を踏み出す。
そして彼女は言う。背を向けたままぼくに言う。
「いってきます」
取り残された静寂の中でぼくは、誰にも届かない声で呟いた。