06. 水沫に消えた
何もかも壊したくなったのは一度や二度じゃない。
だけど、私は生きていたい、ただそれだけを願っていた。
「カンナ、こっちお願い」
ユズリハは母の名前を名乗り、娼館の下働きとして雇い入れられていた。
その容姿から妓として働かないか、ともちかけられたものの、固辞して今に至っている。
そこそこの格をもつと言われる店ではあるが、理由があって働いている女たちばかりである。
ユズリハにはその覚悟はないし、今はできるだけ人との接触を抑えようと考えていたせいでもある。
もっとも、娼婦となってからの必要経費から絡められるものが多い、という事実もユズリハの決断を後押ししたのだが。
今のユズリハの仕事は、商品である女性たちの身支度や、食事の管理など意外にやることは多い。
一つ一つを手早くこなしながら、息を潜めたような形で日々を暮らしていた。
「やれやれ、休憩するかい?」
同じ下働きの中年女性から声がかかる。
二人は姉さん方を仕事場へと送りだした後、粗末な支度部屋で休憩しているところだ。
女たちは、夜の世界が支配する今からが仕事の時間であるが、彼女たちの仕事はすでに終了している。
各々の部屋の後片付けなどは、部屋を分け与えてもらった女たちの担当となっており、翌日に新しい布類などを届ければよいことになっている。
もらい物の菓子を二人で食べながら、他愛もない会話をする。
治安が悪くなっただの、隣国との小競り合いが始まっただの、最近の話題は辛気臭いものが多い。
確実に、国全体が悪い方向へと向かっているのに、それを止める術が誰にもない。
その焦燥感はまた、治安を悪化させ、こういった暗闇に存在する場所は打撃を受けやすい。案の定、娼婦として働きたい女性は増え、客の質は低下している。
就寝の挨拶をして、ユズリハは与えられた部屋へと引きこもる。
何もない部屋は、彼女がもっていた少ない数の衣類と小物しかない。
質素な薄い寝具の上に身を沈める。
目を瞑っても、ユズリハはもう自分がいた場所を思い出すことすらできないでいた。
どれだけ時間がたったのかすらわからない。
長かったとも短かったとも言える生活は、全ての記憶から遠ざけてしまった。
自分を嬲った男と、解放した女。
繰り返される夢。
歯を食いしばりながら起きる朝も少なくはない。
それでも、死にたいと思ったことはない。
「あなたは?」
見知らぬ男に声をかけられ、ユズリハは振り返った。
男は、焦点をあわせずぼんやりと中空をみていた。
その様子から、目が見えないのだろうと判断した彼女は、掃除道具を置き彼へと近づく。
「おはようございます」
「おはよう」
鷹揚に挨拶を返した男は、整った顔立ちをしていた。
綺麗でまっすぐな栗色の髪を腰までたらし、ユズリハを見ようとする瞳は深い琥珀色をしている。
清浄な雰囲気を纏った男に、少しだけ怯む。
どちらかといえば彼女が相対してきた男たちは、粗野な性質のものが多いかったせいだ。
騎士、とはまた違った種類に上品な男は、ひどくこの館に不似合いだ。
「今日はお祈りをしにきたのです」
「ご足労さまです、主さま」
この国の習慣の一つをようやく思い出し、ユズリハは丁寧に返答する。
比較的信仰心が厚いこの国の人々は、定期的にその教会へと赴く。
子の誕生から死にいたるまで、まさしく寄り添うように宗教とは存在している。
どちらかというと信仰心はあるが宗教心は薄い、と言われた国に育ったユズリハにとっては、本質の部分では理解できていない。
ただ、育った場所とは違う自然環境の厳しさを理解できないわけではない。医療や治安の格差から、ずっと死というものに近いこの国では、そういったものに縋る気持ちが強くなるのだろう、と。
基本的に信者を分け隔てなく受け入れる施設ではあるが、まれに来る事を拒む職業につくものたちがいる。
その一つが、性を売って生活するものたちであり、まさしく今この館に存在する娼婦たちである。
だが、彼女たちの多くが、熱心な信者であるという事実は皮肉なものだ。
そして、そういったものたちを救う、という名目で関係者の方が祈りを捧げにくることは多い。
教会にさえ立ち入らなければ、また、彼女たちは熱心な布施者でもあるからだ。
神様がそんなに狭量なものか、と思ってはいるものの、それをおくびにも出さずに笑顔を貼り付ける。
ただ、彼にその笑顔は見えないのだけど。
「あなたは、とても不思議な方ですね」
「私はただの雑用係ですよ、主様」
静かに一歩下がって、ユズリハは男と距離をとる。
この国の神様のことなどよく知りはしないが、摩訶不思議な出来事がないとは言い切れない。
彼女は、不可思議な力でこの場に落ちることとなってしまったのだから。
「あなたの故郷はとても遠い」
「はい、遠いです。とても」
うっすらとした光景が浮かぶ。
もはやそれすらも、幻のような風景となってしまっているが。
「そして、このままでは二度と帰れない」
突きつけられた言葉に息が詰まる。
帰りたいと願わなかったといえば嘘になる。
寝て起きたら元の場所にいる、という希望を抱かなかったとは言わない。
それすら諦めて、夢でも家族に会えなくなったころ、諦めにも似た心境となった。
だが、改めてそれを第三者に断定されれば、僅かな望みすら潰えてしまう。
ユズリハは、どれだけ自分が砂粒より小さな希望に縋って生きたのかに気がついてしまった。
「ああ、すみません、不躾に」
「いえ、主様」
震える声を抑えながら答える。
「でも、大丈夫ですよ。あなたは幸せになります」
「ありがとうございます、主様」
声を絞りだし、また一歩下がる。そして見えない相手に深々と一礼をして仕事へと戻っていった。
ユズリハは、その晩久しぶりに涙を流した。




