04. 夢繋ぎ
教会の鐘の音がなり、ユズリハは寝台から無理やり体を起す。
日は昇ったところであり、まだ柔らかい光が部屋の中へと注ぎ始めたところだ。
身支度を整え、粗末な木製の部屋の扉をあけ、階下へと歩く。
彼女が住んでいるのは、働いているおかみが経営する下宿である。
共同の風呂と便所はついているが、それについては当番制で下宿人が掃除をやることとなっており、それに組み込まれれば家賃が多少安くなるという利点がある。
もちろんユズリハもその当番を買ってでており、ちょうど今日が彼女の当番の日である。
いつもより早起きをして、裏の井戸で汲んだ水で顔を洗い、己の仕事にとりかかる。
他の住人たちともそこそこ穏当な付き合いをしており、浮くことも沈むこともなく平和に暮らすことができている。
ユズリハがこの街にたどり着いたのに、さしたる理由があるわけではない。
強いて言うのなら、彼女が「生きていく」ことに執着していたせいだ。
大きすぎず小さすぎない街で、ある程度余所者が紛れる隙間があり、閲兵がそれほどうろちょろしていない街。
それを全てかなえているのがこの街であり、以前にも住んでいた街たちである。
過去の戦争により、孤児が多かったことも、彼女が身を隠すことに一役買っていた。
保護者のいない子供など、数え切れないほど存在したからだ。
だが、本当の意味で、彼女はどこでもない場所からたどり着いたということを知るものはいない。
始まりは突然だった。
学校に行く途中で彼女は闇に襲われ、気がつけば知らない場所へと運ばれていた。
何が起こったのかも理解できず、ただ急に現れたかのような目の前の男に脅えることしかできないでいた。
男は、ユズリハが知らない言葉を話し、彼女にとっては常軌を逸した目をしていた。
その男の正体はのちにぼんやりと知ることができたが、それを確かめる術は今も持ち合わせてはいない。
男にまるで道具のように扱われ、彼以外の誰かに会うこともできない生活が続いた。ユズリハは徐々に疲弊していき、豪奢な寝具の上で寝たきりのような生活となるほど、追い詰められていた。状況もわからず、言語さえ理解できない環境が、どれほど人の心を侵食していくのか。体力だけではなく、まず精神が蝕まれていく。なのに、それを防ぐ術すらもたない。
それでも男はユズリハの体を女として求め、そしてなにやら儀式めいたことを進めていた。
ゆるやかに朽ちていくのだろう、とそう考えていたとき、彼女に一筋の光が現れた。
誰も訪れない、と思っていた密室に、美しい人、が現れたからだ。
見たことも無いほど美しい人は、翡翠色の瞳をもち、横たわっていたユズリハを複雑な顔をして見下ろしていた。
気がつけばユズリハは逃がされ、放逐された。
知識も、技術も、言葉さえ知らない彼女が放りだされたところで、それはゆるやかな死とどう違うのかはわからない。
だが、偶然にも旅の一座に拾われ、彼らの様々な世話をする日々において、ユズリハは生きる気力と、言葉を獲得していった。
紆余曲折を経て、彼女は今にいたる。
その間に、どれ程汚い仕事をしたのかもわからない。
だが、生きたい、という気持ちが萎えたことは一度もない。
それをみっともないと蔑まれたとしても。
「おーい。こっちにも一杯」
昼間から酒をひっかける男たちに愛想よく振舞い、言われたとおり酒盃を運ぶ。
ユズリハは、誰にも迫害されることがない今の仕事を好いている。
人を人として扱ってくれることが、どれほどありがたいことかと知ったのは、いくつか前の町で出会った酒場の主のおかげだ。
「あら?騎士さま」
場違いな男の登場に、再び食堂に静寂が広がる。
だが、その男の顔を見て安堵したのか、客たちはすぐに喧騒へと戻っていった。
「暇なんですか?」
一つ空いていた席へと座り、さっそくユズリハが注文をとる。
前回強制的に彼の職場へと連れていたことなどなかったかのように、彼女は振舞う。
男の方も、素っ気無い表情で注文を口にする。
ごった返した店内で、不似合いな格好をした男が不釣合いな食事を置いて、勘定を済ませてひきあげていった。
ユズリハに小銭と供に伝言をしたためた紙を滑り込ませながら。
「私、字読めないんだけど」
男が想定していた時間より遅く現れたユズリハは、開口一番そんなことを口にした。
国の識字率は高くはない。
ほとんどの国民が数字や簡単なやりとりしか文字に起せない状態だ。よその国からやってきたというユズリハがそうだったとしても、おかしな話ではない。
だが、男はそんなことなどすっかり失念して、ユズリハに伝言を渡してしまっていた。
それは、彼女の持つ雰囲気が、文字を読めないはずはないと思わせていたからだ。
「悪かった。だがよく来れたな」
「まあ、だいたいこんな感じ?ってことで。あと今更だけど、あんまり難しい言葉もわからないから」
流暢に話しているようにみえて、ユズリハの言葉にはなまりがある。それがどこの国由来かはわからないものの、彼女の異国風の美貌から、それも一種の魅力のように周囲は捉えている。
「他言、他には話さないでもらいたいのだが」
「友達いないから」
勿体ぶった前置きから、男は真面目な顔をする。
「やはり、それらしい黒幕は見当たらない。どれもこれもそんなことをしでかして隠し通すほどの人物はいない」
大量殺戮にしても、誘拐にしても、それを実行し、隠蔽し続けるにはそれなりの知恵と労力が必要だ。
男からみて、現在の中央にはそれほどの力をもった人物は正直存在しない。
強いていうなれば、現国王の姉が降嫁した公爵家がそれにあたるのだろう。しかしながら、彼の人柄は高潔であり、またそのような兆候があるという噂の欠片すら存在しない。
また、公爵が中央の地位を退いていることも、疑惑からはずしてもよいという判断をする重要な要素である。
王の周囲を囲む連中は、どこまでも小物である。多少下半身の事情がゆるいものが混ざっていたとしても、矮小な存在であることには違いない。今のこの惨状は、もっと上の権力の存在を感じさせるのだ。一様に沈黙する役人たち。理由を知らないことは明白ではあるが、彼らがそれほどに脅えること自体が、普通ではない。
「あのさ、前から聞いてみたかったんだけど」
苦りきった顔をする男に、ユズリハが口を開く。
「王様って、どんな人?」
「それは、とても素晴らしい方だと聞いている。戦争が終結したのも王のおかげだ」
「そういうんじゃなくて」
「自分などが側近くにいける機会などはないから、一般的なことしか存じ上げない」
「騎士さまでも?」
「貴族じゃないんでね」
騎士は表向き試験に合格すれば登用される仕組みだ。
だが、どんな制度にも裏は存在し、見目がよく派手な地位には貴族階級の子息が宛がわれるのが常だ。
彼は、平民あがりにしては出世した方ではあるが、正直今以上の出世は見込めない。それすら、とある階級の人間たちから、いわれなき中傷を受けているのが実情だ。
実績も人望もある彼が、このような街の団長となっているのがその証左となっている。
「顔は?どんなかんじ?」
「姿絵か、遠くからのお姿しか拝見していないが」
「それでもいいから、教えてくれる?それと王妃さまについても」
男が、わかる限りで教えた彼らの姿は、ユズリハが今でも夢にみる男と女の姿にあっさりと結びついた。
前者は、恐怖の感情として、後者は救いの現れとして。
「やっぱり、そうか」
ユズリハがこぼした言葉に、男が片眉をあげる。
「例の話にはやっぱり深入りしないほうがいいよ」
「それは、口にすることもできない案件だと思ってもいいのか?」
「さあ?夢ならよかったのにね」
そう呟き、勢いよく立ち上がる。
男は、引き止めることもせず、ただその背中を見送った。
ユズリハが吐き出した言葉の、本当の意味すらつかめないまま。




