03. 目隠し闇/挿話
私は、覚悟をもって嫁いでまいりました。
幼い頃より敵国であり、蛮族が住むと侍女たちから教わったこの国へ。
役割をもって、父のため国のために。
私の役目は架け橋になること。
そのためにはどのような仕打ちにも耐えるつもりでありました。
夫の気持ちが例えどこへ向いていようとも、私には私のありようがある。
もとより愛情溢れる夫婦になろうなどと、甘い考えを持っていたつもりもありませんでした。
ただ、私は、あなたが溺れていくさまを見ていたくはなかったのです。
英邁な王には、両親を同じくした姉がいる。
長子ではあるが、国を継ぐわけではない王女として大切に育てられた彼女は、周囲の希望通り成長していった。賢く控えめであり、程なくして誕生した跡継ぎである弟を立て、公人としての彼女は申し分ないものだ。
だが、漏れ伝わる噂話には彼女の人となりの一端を表すようなものが含まれていた。
あからさまなものから、仄めかすものまで様々ではあるが、それらの全てが実弟への執着、という言葉に集約されるものであった。誰も口にはしないものの、弟の妻を押しのける勢いで国王の側に侍る彼女に対し、善からぬ妄想に駆り立てられるものが少ないわけではない。
王家を誇るあまりに、ただ一人の跡継ぎである弟への執着が過ぎるものなのか、一人の女性として王をみているのか、それを直接知るものはほとんどいない。
ただ、彼女は言われるままに公爵家へと嫁ぎ、男児二人を設けた。
王女の鏡のような表向きの彼女の振る舞いに、異を唱えるものは誰もいない。
「またそのお話?」
夫である公爵から直接尋ねられ、妻であり、現王の姉でもある夫人が呆れたような声をあげた。
尋ねられたのは王妃のことであり、目下、表層的に彼らの間にある懸案事項は、このことにおいて他はない。
「失踪した、と聞いて、はいそうですか、という間抜けはおらぬだろう」
姿を見せなくなったと噂されている王妃が、実は失踪しており、とっくに王宮から姿を消しているということは内部では有名な話だ。
警備の厳しい妃の宮で、本人とはいえ誰にも知られずにくぐりぬけることは不可能にも近い。
誰かの手引きがあったにせよ、自らの意思にしろ不可抗力にしろ不能の誹りを受けざるを得ないだろう。
いち早く彼女の失踪を知った隣国は、矢の様に使者を送り、詳細な説明を求めている。
それもあたりまえだろう。
元敵国に娘を送り込んだ親としての心情としても、王妃に外交の架け橋を期待する外交官の懸案事項としても、そのどちらもにおいても彼女の存在は重要である。素っ気無い一文だけの説明で納得するはずはない。
「根性がなかったんじゃないの?」
鼻で笑いながら、王姉が吐き捨てる。
彼女は、王妃の存在をはじめから明確に疎ましく思っていた。
彼女の腰が細い、体が貧弱だとあげつらい、子が生めぬような女はいらぬと言い張る。それを隠そうともしない態度は、口さがない女中たちの格好の噂の的となっていた。
そもそも、誰がきたところで、姉である彼女は気に入らなかっただろう。
完璧な美人も、多産系の女性も、教養あり慎み深い女性だとしても、難癖をつけていたことは想像に難くない。
それほど、彼女は弟を溺愛しており、彼の周囲に女性が近づくことを厭うていた。
大人しく引き下がったのは、どこかでは己の役割を理解しており、ひいてはそれが弟のためになるとわかってはいたからだ。
感情と理性は別、ということなのだろう。
「それはない。彼女は己がどういう立場なのかを理解していたはずだ」
王を支える忠臣として、公爵は内政に深く携わっていた。
当然王妃と接する機会も多く、彼女の人柄をこの国の中では理解している方だと自負している。
繊細そうな外見に比べ、妃は隣国の王女としての立場も、この国の妃としての立場も十二分に理解しているように、彼には見えていた。
その彼女が、個人の都合で失踪するわけはない。
それは、隣国の意見とも一致している。
「子も成さないような女。用なしじゃなくて?」
口を開けば、妃の悪口をいっていた夫人は、苦々しい顔をして最大の弱点を挙げる。
「まだそう日はたっておらぬ。そのように責めるものではない」
「まあ、お飾りでもいいですけどね。私の子がいますから!」
あくまで気に入らない彼女は、必ず最後にはそういい捨てる。
降嫁した王女の息子、が王位継承権をもつはずはない。
だが、王との口約束でそのような話があがったことはあるようだ。
もちろん、実際のところを公爵は知ることはない。
目の前にあって、彼の妻は、まったく彼のことをみていない。
まるで目隠しをされたかのように、彼女にとって、公爵の存在はいないも同然、便利な道具以上にはなりえないのだ。
「陛下は、どうおっしゃっておられるのだ?」
妃が失踪してから、今まで側近くにいた臣下たちは遠ざけられ、どちらかといえば仕事のできぬぼんくらたちが侍る毎日だ。
最も信頼され、最も近くにいた彼ですら、今では閑職に飛ばされている。
王家が、内部から何かに浸食されている。
その中心部には、妻と、その弟がいる。
わかってはいるが、どうにもできない歯がゆさに、家にいる間はこうやって妻を詰問してしまうのだ。
彼の思惑がわかっているのか、彼女の方は、詰問されるたびに王宮へと舞い戻る。
それをまた、歓迎しているかのような王が夫人を甘やかす。
まるで発展性のない繰り返しに、公爵は頭をかかえる。
今日もまた、妻は扇子を公爵に投げつけ、貴婦人とは思えない足音で退出していった。
王宮にでもまた篭るのだろう。
夫どころか、子二人を置いたまま。
そして、ほとぼりがさめたころ、この屋敷に何食わぬ顔をして戻ってくるのだろう。
何時もと違うのは、公爵の中に芽生えた決意、だ。
公爵は、彼女が去ったあと、幾人かの男たちを邸内へとむかい入れた。
彼らは、客をもてなすことになれた屋敷のものたちにも何者かがわからない雰囲気を纏ったものたちであり、当主にはただ知人だとだけ知らされるばかりだ。
当主夫人が立ち寄らぬ中、邸内では秘密裏に何かが進行していった。
闇が広がる。
ぼんやりとしていたそれは、徐々に拡散してゆき、平和を楽しんでいた国全体を覆いつくそうとしていた。




