10. 滲んでく世界
「ここ?」
ユズリハが気がついたのは、冷たい床の上ではなく、柔らかな寝具の上だった。
清潔そうな白い寝具が殺風景な部屋に置かれている。
腰の高さほどにある窓にはめられたガラスからは、柔らかな光が差し込んでいる。
どれだけ時間がたったかもわからずに、半身を起して周囲を見渡す。
彼女を拘束するものはどこにもない。
ただ、手首に残った後と体の痛みが、あれが現実だったのだと思い出させるのみだ。
「ユズリハ?」
なんの合図もなしに入ってきた男は、やはり元団長だった。
相変わらず厳つい体で、不似合いな小さな盆を片手で持ち上げていた。
反対側の手には黄金色の花をつける枝が、束ねられ下げられていた。
ちらほらと散り始めた花びらごと、団長は何も言わずにユズリハに差し出した。
彼女が、その花をひどく気にしていたことを知っていたのだろう。
無骨に見える男の心遣いに、ユズリハの中に温かい気持ちが湧き上がってくる。
次に、団長は盆にのったおかゆのような食べ物を差し出し、食べるように促した。
ユズリハはようやく、自分自身がお腹をすかせていることに気がつき、軽く頭をさげ、温度を確かめるようにしてそれを口に含んだ。
多少熱かったものの、かえってそれが生きていると実感させてくれた。
「あの」
両手で器をささえながら、立ったままの男へと尋ねる。
結局、ユズリハは何が起こったのかさえわかっていない。
突然浚われて、突然殺されそうになって、突然助けられた。ただそれだけしか知らない。
「反乱軍、って知ってるか?」
「うん」
娼館で働いていたときに、そのことを聞いた。
それがどれだけのものなのかも知らなかった彼女は、ただ聞き流してはいた。
「戦争が起こりそうになっていたのは?」
「うん」
商売をするうえで、そういう情報は不可欠だ。例え下っ端であろうとも、そういったことを耳にする機会は多い。
「全部、あれのせいだった」
元々国王に忠誠を誓ってなった騎士だった彼は、最後まで王の名を呼ぶことはできないでいる。どれほど悪政を敷こうとも、王はやはり彼の王なのだから。
「おまえを助けてくれたのは、やはり王妃だったようだ」
「彼女は?」
黙ったまま否定の仕草をする。
予想していた答えなのに、それが確証に変われば襲ってくるのは後悔だ。
自分の命一つの代わりに、いったいどれ程の命が消えてしまったのか。
「俺と公爵しか知らない。ユズリハのせいじゃない」
頷くこともできずに、ただ彼の言葉を聞く。
「代々世襲するときに、生贄を捧げるという儀式があったらしい」
「いけにえ?」
「ああ。神の気に入る生贄を呼んで、それを適切な日に捧げれば、国家が安定する、という伝承と一緒にな」
国だとか、街だとか、そんな規模の話をされても、ユズリハには想像することもできない。
せいぜい雨乞いのために竜神に娘を捧げる昔話を思い出す程度だ。
きっと、そんなのりで根拠もなく行われてきたことなのだろう。
歴史のある国の長い血脈が続く王家が連綿と執り行っていく、という装飾をつけた状態のまま。
「まあ、確かに不安定にはなったがな」
ユズリハを失って、国は傾いた。
その事実だけを考えれば、伝承には効果があったと言うものもいるだろう。
「自業自得だが」
団長の考えはまた別だ。
ユズリハを失ったとしても、王が昔の王のまま、真っ当に過ごしていればこんな茶番は防げたはずなのだ。
平和を齎した賢王として名高い彼ならば。
だが、彼はそれをしなかった。
伝統を妄信し、ユズリハに溺れた。
己の首を絞めたのは己自身。
それ以上でも以下でもない。
「私、どうなるの?」
彼女が呼ばれたものである、という事実を知った男は、それでも態度を変えることはない。
「どうもならん」
「この世界の人間じゃないんだけど?」
「わかっている、と思う」
本当のところは、彼も理解しきれていないのだろう。
当事者のユズリハだとて、他の人間からそんなことを聞かされれば、真っ先に疑うだろう。
それほど信じられないような状態で、彼女はこの世界へ渡ってきたのだ。
「俺しかしらない。だから安心しろ」
「いいの?」
この問いかけは、幾重もの意味を含んでいる。
原因となった彼女が生きていてよいのか、この世界の物ではない自分が存在してもいいのか、そして、自由に生きていてもいいのか。
「あたりまえだ」
男は、はっきりと肯定の言葉を与えてくれた。
手の甲に生暖かい感触がして、しばらくしてそれが自分の涙だということに気がついた。
ぼんやりと滲んでいく男の姿に、ただただ涙が流れていく。
「大丈夫か」
男の声がかかる。
与えられた暖かさに、さらに涙が加速していく。
「ありがとう」
心の底から気持ちが溢れ、そう呟いていた。
世界が滲んでいく。
「ユズリハ?」
男の声が段々小さくなっていく。
最後まで彼女を呼ぶ男の声は、いつまでも彼女の記憶に刻まれていった。
「あれ?ここ?」
懐かしい顔に囲まれた状態で目を開けたユズリハは、状況を把握できないまま声をあげた。
体を起そうとして、体のあちこちから痛みが走り、付き添っていた人に体を押さえられた。
「おかーさん?」
思い出せなかった記憶が、鮮やかに結びついていく。
次々と記憶が掘り起こされ、一瞬にして今までの出来事が薄れていく。
「あんた、交通事故にあって」
泣きながら彼女の頭を撫でる母親は、やはり彼女の覚えている母親だ。
覚えてはいないが、事故にあって意識が無い状態だった自分が、夢でもみていたのかもしれない。
急激に薄まったリアリティーが、不可解な記憶を適正なおとしどころへと導いていく。
起せない体を、それでも確認がしたくてあちこち視線だけを走らせる。
視界の中に、酷く見覚えがある花束が現れる。
「それ・・・・・・」
「あら?あんた知ってるの?」
すっかり安堵して気安い口調になった母親が尋ねる。
「・・・・・・たぶん」
「いつのまにか病室においてあったんだけど、あんた意識あったのかねぇ」
はらり、と落ちた花びらに、急激に記憶が蘇る。
――私は、それを覚えている。
黄金色の花、綺麗な男。
そして、自分の名を呼ぶ声。
最後に、咄嗟に掴んだのは彼がくれた花束だったのかもしれない。
「ほんと、誰がくれたんだろうねぇ」
懐かしい、とさえ思える声が頭に響く。
「誰だろう、ね」
男の、ユズリハの名を呼ぶ声が。
「でも、嬉しいね」
ユズリハ、彼が呼ぶ声だけは甘やかに聞こえたのは、どうしてだったのだろう。
目に焼き付けるように花びらを眺め、そして満足そうに目を閉じる。
家族の、声が聞こえる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ユズリハはまた、眠りへと落ちていった。




