09. 神様の失態
起きれば冷たい床の上で、自分が一番最初に現れた空間だということにユズリハは気がついた。
猿轡のようなものをはめられ、両手は体の前方にて縛られた状態だ。
芋虫のように転がされ、あちこち痛む体は自由がきかない。
「気がついたか」
束ねた髪を力任せに引き上げられ、思わず顔を顰める。
眼前に、思い出したくもない顔が突きつけられた。
皆が国王と、呼ぶ存在の男が。
緊迫した空気の中、それでもユズリハが美しいと感じた顔は今も健在だ。
だが、目は落ち窪み、顔色は悪い。整った顔立ちがそれに凄惨さを加え、素人目にも精神状態が悪化しているように思えた。
あの時は、ユズリハに執着していたことによる異常性が際立っていただけだ。
こんな表情をみせるような男ではなかった。
ユズリハの中の観念で、数年という時がたったとはいえ、まだ若い彼がこれほど追い詰められていたことが意外だ。
無理やり立たされ、窓のない部屋から窓のある部屋へと移動させられる。
強く握られた腕は酷く痛み、だが物理的に声をあげることすらできない。
「おまえが逃げたせいでこのざまだ!」
窓の外、遠くの街並みに煙が見えたのを指差す。
初めてみる都の光景は、想像していたものとは違い、どこか荒んだ印象を与えた。
痛みの中、意識を集中させる。
そして、城下に、人影がまるでないことに気がつく。
彼女が放浪していた土地ですら、活気に賑わっていた。
逃げるたびに人の数は減り、徐々に殺伐としたものになっていったが。
それでもこれほど静まりかえった街並みをみたことはない。
ましてここは、王宮のある首都だ。
高価なものも珍しいものも溢れ、それを求める人々の熱気に溢れているはずだ。
だが、喧騒など少しも聞こえてはこない。
微かに聞こえるのは、遠くから聞こえる蹄の音だけだ。
「おまえが、大人しく殺されていれば、こんなことにはならなかったんだ!」
なぜ、と聞くこともできないまま、再び例の部屋へと連れて行かれる。
重そうな扉は閉められ、祭壇のへと放り投げられる。
床に肩が叩きつけられ、鈍い音を発した。
「最良の日まであと少し。そこで大人しくしていろ」
扉は閉められ、光が消えていく。
祭壇に供えられた僅かな灯りが、ユズリハの目にうつった。
「まさか、これほど脆弱だとはな」
あきれ果てたように男が吐き捨てる。
それに賛同しながら、かつての同僚たちが男の下へと集まる。
「団長」
「おれはもう団長じゃないんだがな」
「いえ、団長はいつまでも俺たちにとって団長です」
誘拐事件への介入のせいなのか、突如解任された男は、いつしか反乱軍を指揮するほどの立場に押し上げられていた。
彼の有能さに加え、もとより貴族階級ではなかったことが、逆にここではよい方向に作用したようだ。
加えて、彼には愛国心がある。
だからこそ、不可解で不愉快な事件を解明しようとしていたのだが、それがこんなことになるとは夢にも思っていなかった。
「あの子、大丈夫っすかね」
ユズリハがさらわれてから、すでに両手で数えるほどの夜を越えた。
彼女の行方はわからない。
だが、今回ばかりは目撃証言が得られたことが、反乱軍の行動にも弾みがついたきっかけになったようなものだ。
美しい男が、美しい少女をさらっていった。
黄金色の花びらの中、その光景はひどく幻想的で、衆目を集めていた。
そして、その男の姿は、国民が一度は目にしたことがある絵姿に似ていたと。
ユズリハの証言から確証を得ていた団長は、己の立場を利用し、運動の機運を高めていった。
すでに火種はあちこちに拡散しており、少しの衝撃で燃え上がることは目に見えていた。
それを、少しだけ早めてやったのだ。
各所から反乱の蜂起が起こり始め、それを抑える軍部はあまりにも組織力を欠いていた。
王の中心には腰ぎんちゃくのような頭の悪い人間ばかりが集まり、内部から腐り始めている。
といった噂は、どうやら本当のようだった。
場当たり的な討伐作戦はことごとく失敗し、前線はじりじりと王宮の方へと向かっていった。
進むたびに兵は弱くなり、姿をみせただけで逃げ出す連中までいる始末だ。
忠義のあるものはそれでも、最後まで抵抗を見せたが、彼らとて今の王政が真っ当だとは思っていないのだ。
その迷いが、反乱軍に隙をつかせる結果となる。
勝ったり負けたりを繰り返しながら、最後にはほぼ無血で王都までたどり着くことができた。
すでに逃げた後なのだろう。豪華な邸宅は人の気配すらなく、本来は商人たちで賑わっていた街道に人の姿はない。
象徴となる旗を掲げながら、団長は元公爵を守るようにして馬を進める。
ユズリハの安否を問う声に答えることもできずに、団長は黙々と進軍する。
それが、結局彼女の命を救う早道だと信じて。
開け放たれた門には、衛兵すら存在しない。
華やかな衣装で宮殿を彩っていた女たちの姿など、当然見ることもできない。
団長は馬から降り、愛用の剣を抜く。
「我妻をみかけたら・・・・・・」
「ええ、生きたまま捕まえます」
荒事こそ得意そうな団長へと公爵が声を掛ける。
彼の妻は、現国王の姉だ。
姉弟以上に仲のよい二人のことだ、恐らく彼女は逃げもせずに今も宮殿内に残っているだろう。
「火種を残すようなことはしない」
反乱軍が制圧したとして、そこから先の政を束ねるのは彼だ。
そして、その最大の抵抗勢力となりうるのは、彼の妻と子供だ。
悪政の象徴としての彼らは、そのままの状態で残しておくわけにはいかない。
「わかりました」
でき得るのならば、自らの手で。
公爵の決意に、団長はそうきっぱりと答えた。
何も聞こえない部屋で、拘束を解かれたユズリハは、隅の方で体を抱えて座りこんでいた。
声をあげても、誰にも気がつかれないことを知っていたからだ。
さらには、幾多の命が自分の逃亡のおかげで奪われた、という事実が彼女の生きる気力を削らせた。
自分のせいではない。
そんな陳腐な言い聞かせは、まるで効いてはくれない。
時折現れる王は、ユズリハを蹴り上げ、踏みつける。
最低限の飲み水だけを与えられ、体力すら限界を超えたところにいる。
眠ったと思えば、王が訪れ、肉体的苦痛を与えていく。
徐々に意識はぼんやりとしていき、望まなかった死が迎えにやってくる気配を感じる。
どれだけそうしていたかはわからないが、いつものように王が訪れた。
そして、歌い上げるようにして祭壇に呼びかけを行う。
「今日こそ最良の日!我が生贄を受け取るがよい」
神様相手に横柄な態度だな、と、そんなどうでもよい事を考えながらユズリハはどうにか王を見上げる。
襟首を掴みあげられ、祭壇の前へ引きずられる。
もう、痛みすら感じてはいない。
見たこともないほど飾り立てられた鞘から長剣をひきぬき、ユズリハの首元へとあてる。
体は究極に疲弊していたというのに、本能的な恐怖がユズリハの全身を襲う。
この男と出会う前まで、このような目に会った事はなかった。
比較的治安がよかった、ということもあるが、ユズリハの育った土地はどこかのんびりとした場所柄だ。
そもそもこんな剣を持って歩き回る人間など、見たこともなかった。
震える体を止めることもできずに、ただ強く目を瞑る。
どんな衝撃がくるかさえもわからず、できるだけ体を丸めようとあがく。
心臓の音がうるさくなって、手のひらの体温がすっと落ちていく。なのに汗だけはかいて、それに気がつくこともできない。
だが、どれ程待っても、ユズリハの首はついたままで、体の痛み以上のものは襲わなかった。
そっと目を開け、見上げて確かめる。
国王は、その首に彼が手にしているような剣をあてられ、豪華な剣を床へと落としていた。
「またせたな」
緊張感の中にも、気安い笑顔で、元団長が立っていた。
姿を確認した瞬間、ユズリハは安堵し、そして今度は白い世界へと落ちていった。