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ゴリラ兄弟 ~宇宙の果てで「ド」の看板にけっつまずく~

作者: キュウリしか持ってないカッパくん。
掲載日:2026/09/25

 俺の弟、ボビトが宇宙へ行く。


 しかも、ただの宇宙ではない。母星系の外へ飛び出し、遥か彼方で発見された《惑星 SOL-III(ソル・スリー)》を目指すという。


 数百年前に打ち上げられた無人探査機が偶然発見した、液体の水と酸素を持つ惑星。大気の成分や重力も、奇跡的なほど俺たちの星と似ているらしい。


 ただし、探査機から届いた情報はごくわずかだった。惑星を発見した直後に通信機能の大半が故障し、生物が存在するのか、どのような環境が広がっているのかまでは分かっていない。


 当然、本当に生きて帰れる保証もなかった。


「絶対に途中で死ぬだろ……」


 俺は居間のソファへ寝転がり、テレビに映る弟の記者会見を眺めながら呟いた。


 画面の中では、最新の宇宙服を着たボビトが、大勢の記者に囲まれて笑っている。身長三メートル近い巨体に、艶のある黒い毛。肩幅など俺の一・五倍はある。マイクを持つ記者の手と並ぶと、ボビトの黒い拳は工具箱ほどの大きさに見えた。


 同じゴリラの兄弟なのに、どうしてここまで差がついたのだろう。


『ボビト飛行士。我々の文明史上初となる恒星間飛行に、不安はありませんか?』


『ありません!』


 ボビトは即答した。


『本当に?』


『はい。兄ちゃんも一緒ですから』


「は?」


 俺はソファから起き上がった。


 記者たちも一斉にざわつく。


『お兄さんも宇宙飛行士なのですか?』


『まだ違います。でも、昨日、選抜試験に申し込んでおきました』


「誰が申し込んだあああああ!」


 立ち上がった俺がテレビへ向かって叫んだところで、記者会見の中継が終了した。


 その数分後、テーブルの上に置いてあった通信端末が鳴る。画面に表示された名前は、ボビト。


 会見場を出て、すぐにかけてきたらしい。


 俺は太い人差し指で、端末の小さな通話ボタンを叩いた。


「おい、ボビト!」


『見てた?』


「見てたじゃねえ! 何で勝手に俺を宇宙飛行士へ申し込んでるんだ!」


『だって、兄ちゃん。自分じゃ申し込まないだろ?』


「当たり前だ! 俺はもう宇宙へ行かない!」


『どうして?』


「どうしてって……」


 言葉が詰まった。


 俺とボビトは、子供の頃から宇宙飛行士を目指していた。


 丘の上へ並んで寝転び、夜空を眺めながら、いつか二頭で宇宙へ行こうと約束した。


「俺が先に宇宙へ行く」


 幼い俺は、夜空へ拳を突き出して宣言した。


「兄貴は、弟より先を歩くもんだからな」


「でも、二頭で行くんだろ?」


「俺が先で、お前がその少し後ろだ」


「宇宙船の席は横に並んでるぞ」


 幼い弟の瞳は、夜空のようにキラキラしていた。


「じゃあボビト、横並びで行こう!」


 ボビトは自分の胸を二度叩いた。


「ウホッ!ウホッ!」


「返事は言葉でしろ!」


「絶対に一緒に行くぞ、グッ兄」


「ああ。約束だ」


 あの頃の俺は、弟に追い越される未来など考えていなかった。


 だが、宇宙飛行士候補生になった俺は、訓練中の事故で仲間を失った。


 それから宇宙へ出ることが怖くなった。候補生を辞め、今は小さな修理工場で、壊れた機械を直して暮らしている。


 競争から降りたのは、俺の方だった。


「宇宙船は壊れる。エンジンが止まるかもしれない。船体に穴が開けば空気が漏れる。航路を間違えれば一生帰れないし、未知の病原体に感染する可能性だってある。考えられるだけでも百二十三通り――」


『よくそんなに思いつくな』


「昨日から考えてたからな」


『でも、全部起きなきゃ大丈夫だろ?』


「お前のそういうところが一番心配なんだよ!」


 俺が怒鳴ると、画面の中でボビトが笑った。


『だったら、一緒に来てよ』


「嫌だ」


『兄ちゃんが来ないと困る』


「お前なら一頭でも行けるだろ。この星で一番の宇宙飛行士様なんだから」


『操縦はできる。でも、船が壊れたら俺には直せない』


「前に、俺が宇宙船なんて叩けば直るって言ってただろ」


『それは宇宙船に真空管を使ってた時代の話だよ』


「分かってるじゃねえか。じゃあ、今の宇宙船が壊れたらどうする?」


『兄ちゃんを呼ぶ』


「俺がいなかったら?」


『とりあえず叩いてみる』


「今の説明、聞いてたか? それは旧式の――」


『聞いてたよ。だから、大きなハンマーを積んでいく』


「何が『だから』だ! 直すどころか、もっと壊れるだろ!」


『じゃあ、来る?』


「行かない!」


『分かった。柄の長いヤツにする』


「やめろ! 分かった! 絶対に行くから、ハンマーは積むな!」


『うん。待ってる』


 画面の向こうで、ボビトが嬉しそうに胸を二度叩いた。


『ウホッ!』


「今のは何だ」


『嬉しかっただけ』


「言葉で喜べ!」


 ボビトは、最初からこうなると分かっていたように笑っている。


 こうして俺は、宇宙飛行士の選抜試験を受けることになった。


     ◇


 半年後。


 俺とボビトは、巨大な宇宙船《ホライズン号》の操縦席に並んで座っていた。


 どうして俺が試験に合格してしまったのか、今でも分からない。


 体力試験では最下位だった。宇宙遊泳訓練では、船外へ出るまでに三十分かかった。閉鎖環境試験では、起こり得る事故を壁一面に書き出し、他の候補生から「お前といると不安になる」と苦情を受けた。


 ただ、訓練装置が故障した時、誰より早く原因を特定し、修理したのは俺だった。分厚い指先で焼けた配線を一本ずつ拾い上げ、狭い端子へつなぎ直した。


 最終面接で、試験官から「なぜ宇宙へ行きたいのか」と尋ねられた。


 俺は正直に答えた。


「弟を一頭で行かせるわけにはいきません。あいつは宇宙船が壊れたら、叩いて直そうとします」


 なぜか、それが合格の決め手になったらしい。


「グッ兄。さっきから落ち着かないな」


「落ち着いていられるか。打ち上げ失敗の可能性が〇・〇〇三パーセントもあるんだぞ」


「ほとんどゼロじゃん」


「十万回飛ばしたら三回は爆発する!」


「俺たちは、十万回も飛ばないだろ?」


「そういう問題じゃない!」


 船内へ、打ち上げまで残り一分を告げる音声が流れる。


 全身の毛が逆立った。


 怖い。


 今すぐ固定具を外し、宇宙船から逃げ出したい。


「ボビト」


「何?」


「俺は、お前の付録みたいなもんだ」


「グッ兄、急にどうした?」


「豪華で目立つ本体がお前で、箱の隅に入ってる細かい注意書きが俺だ。俺がいなくても、お前は宇宙へ行けた」


「行けたよ」


「そこは否定しろ」


「でも、一頭で行くつもりはなかった」


「どういう意味だ?」


 ボビトは前を向いたまま、操縦盤へ並ぶ表示を確認している。


「俺は、今でも覚えてる」


「何をだよ」


「子供の頃、丘の上に寝転んで、二頭で宇宙へ行くって約束しただろ?」


 俺は何も答えられなかった。


「グッ兄が候補生を辞めても、俺は約束までなくなったとは思ってなかった」


「……お前、そのために?」


「うん」


 ボビトは、何でもないことのように答えた。


「兄ちゃんと宇宙へ行くために、俺は宇宙飛行士になったんだ」


 俺は言葉を失った。


 ボビトが宇宙飛行士を目指し続けた理由を、初めて聞いた。


 いや。


 聞かなくても、分かっていたのかもしれない。


 ただ、それを認めてしまえば、俺も約束した場所へ戻らなければならなくなる。それが怖くて、ずっと気づかないふりをしていた。


「俺が来なかったら、どうするつもりだった?」


「来るよ」


「来なかったら、って聞いてるんだ」


「だから、来るって!」


「どうして、そこまで言い切れるんだ?」


「好きだから」


「え?」


「兄ちゃんは、宇宙が好きだから」


「……」


「それに、弟のことも大好きだから」


「……」


「だろ?」


「簡単に言うなよ。俺は何年も遅れたんだぞ」


「でも、来た」


 ボビトが、ようやくこちらを向いた。


「ここにいる」


「……ああ」


「俺の横に」


 カウントが、残り十秒を切った。


 俺は隣を見る。


 子供の頃よりずっと大きくなった弟が、あの頃と同じ顔で笑っていた。


「グッ兄」


「なんだ」


「行こう」


「簡単に言うな。俺はな、今も最悪の展開を百通り考えてるんだ」


「じゃあ、百一個目が起きたら?」


「その時に考える」


「大丈夫。それなら、いつもの兄ちゃんだ」


 ゼロ。


 凄まじい轟音と振動に包まれ、《ホライズン号》が地上を離れた。


 俺たちは、子供の頃に約束した宇宙へ飛び出した。


     ◇


 《ホライズン号》は、跳躍航法を繰り返しながら《惑星SOL-III》を目指した。


 船長兼操縦士はボビト。俺は機関部と航行装置を担当する。


 ボビトは、細かな数値や長い説明を嫌う。分厚い操縦マニュアルを渡した時も、最初の十ページを読んだだけで放り出した。


 そのくせ、操縦席へ座らせれば、誰より正確に船を飛ばす。


 推進装置の出力を規定の上限ぎりぎりまで引き上げ、船体へ余計な負荷をかけることなく、到着予定を半日縮めた。俺が勝手なことをするなと怒鳴ると、ボビトは「でも、壊れてないだろ?」と笑った。


 ある時、冷却装置から微かな異音が聞こえた。


「放っておけば、十九日後くらいに軸受けが壊れるな」


 ボビトは、その音を一度聞いただけで言った。


 俺は信用できず、冷却装置を分解して徹夜で調べた。


 計算上、故障するのは二十日後だった。


 目的地へ到着するのは、あと三日。


「ほら、到着までは壊れないだろ?」


「帰りがあるんだよ!」


 ボビトは、何も考えていないように見える。


 実際には、必要なことだけを一瞬で見抜き、それ以外を気にしていないだけだった。


 一方の俺は、必要のないことまで考え、起きないかもしれない故障まで調べ続ける。


 正反対だからこそ、二頭なら何とかなる。


 長い航海を続けるうちに、俺も少しずつ、そう思えるようになっていた。


 目的地まで、残り三日。


 船窓の向こうに、《惑星SOL-III》が見えていた。


 大気の表面を厚い雲が覆い、地上の様子はほとんど分からない。恒星の光を受けた輪郭だけが、暗い宇宙の中へ淡く浮かび上がっている。


「蒼がきれいだな」


 ボビトが船窓へ顔を寄せる。


「まだ安心するな。大気の成分に問題はなくても、地表に何があるか分からない。巨大な肉食獣に襲われる可能性も――」


「兄ちゃん」


「なんだ」


「うれしいんだろ?」


「……まあな」


 子供の頃、二頭で星空を見上げた。


 あの時は、宇宙がこんなにも暗く、冷たく、広いものだとは知らなかった。それでも俺たちは今、約束した場所へ二頭で近づいている。


 その時だった。


 船体を、激しい衝撃が襲った。


 警報が鳴り響き、操縦席の照明が赤く染まる。


「何が起きた!」


「小型隕石! 左舷後方に衝突!」


 ボビトの両手が、即座に操縦桿と制御盤へ動いた。


「左舷姿勢制御、出力三十八パーセント低下。減速装置から応答なし」


「予備装置へ切り替えろ!」


「切り替わらない。外部回線が切れてる」


 ボビトは表示された数値へ一度目を走らせただけで、故障箇所を指差した。


「左舷後方の中継回路だ。船外へ出て、手動で配線をつなぎ直す」


「待て。ほかの方法を考える」


「減速開始まで十七分。考えるなら、その間に頼む」


 ボビトが宇宙服を着始める。


「俺が行く」


「駄目だ」


「何でだ」


「兄ちゃんは内側から回路を監視して。断線箇所を見つけても、どの線をつなぐか分からなきゃ意味がない。船外活動の記録は俺の方が上だ」


 正しい判断だった。


 だからこそ、止める言葉が見つからない。


 全身の毛が震え始める。


 候補生だった頃、事故で閉じた隔壁を、向こう側の仲間が三度叩いた。通信が途切れても、俺は故障表示を見つめたまま動けなかった。あの三度の音を、今も覚えている。


「大丈夫。すぐ戻る」


「宇宙で『大丈夫』なんて言葉を簡単に使うな。何かあった時、大丈夫じゃなかった俺の気持ちはどうなる」


「その時は、兄ちゃんが何とかするだろ?」


「俺を何だと思ってる」


「グッ兄だよ」


 ボビトは、昔と変わらない笑顔を見せた。


「俺が世界一すごいと思ってるゴリラさ」


 制止する間もなく、ボビトは船外へ出た。


 命綱を船体へ固定し、左舷後方へ移動する。太い指で破損した外板を剥がし、その下にある配線へ手を伸ばした。


『断線箇所を見つけた。青が主回線、黄色が予備。赤はまだ生きてる』


「分かってるじゃないか」


『出発前に、兄ちゃんが三回説明した』


「七回だ」


『そんなに聞いたかな』


「聞いてなかったのかよ!」


『覚えてるからいいだろ?』


 ボビトは迷わず青い配線をつなぎ、続けて黄色の予備回線を固定した。


 制御盤へ、減速装置の復旧を示す表示が灯る。


「復旧した! 戻ってこい!」


『了解』


 ボビトが船体へ戻ろうとした、その瞬間だった。


 最初の小型隕石と同じ軌道を飛んでいた別の破片が、左舷をかすめた。


 宇宙船が大きく傾く。


 ボビトの身体が船体から離れ、命綱が勢いよく伸びきった。


 先ほどの衝突で傷んでいた固定金具が、根元から外れる。


『あ』


 間の抜けた声を残し、ボビトが宇宙空間へ投げ出された。


「ボビト!」


 俺は立ち上がった。


『来るな、グッ兄! 兄ちゃんまで戻れなくなる!』


 頭の中に、最悪の未来が次々と浮かぶ。


 船外へ出れば、俺も戻れなくなるかもしれない。船体の固定環まで傷んでいれば命綱も役に立たないし、残りの推進剤で弟に追いつける保証もない。


 このまま弟を見捨てれば、船は助かる。


 俺だけなら、目的地へ到着できる。


「ふざけんな」


『グッ兄?』


「俺は兄貴だぞ!」


『それ、今関係ある?』


「ある! 兄貴は弟より先を歩くもんなんだ!」


『俺、今ものすごい勢いで遠ざかってるけど』


「だから追いつこうとしてるんだよ!」


 俺は宇宙服を掴んだ。予備の命綱を、衝突の傷がない右舷の固定環へ結び、もう一端を自分の腰に固定する。表示された距離なら、ぎりぎり届く。


 俺は船外へ飛び出した。


 怖い。


 手も足も震えている。


 いや、全身が震えているせいで、どこまでが恐怖で、どこからが宇宙船の振動なのか、自分でも分からない。


 噴射装置を操作し、暗闇を漂うボビトへ近づく。計算上、ボビトへ届くために使える推進剤は一度きり。失敗しても俺だけは命綱で戻れるが、遠ざかる弟をもう一度追うことはできない。


『グッ兄、速度が合ってない。右へ〇・二度』


「分かってる!」


『噴射は長くても一秒。二秒使ったら、俺の速度に合わせられない』


「分かってるって言ってるだろ!」


『分かってるならいい』


「お前、助けられる側のくせに落ち着いてるな!」


『だって、俺の兄ちゃんだ』


 ボビトは身体をひねり、自分の回転を止めた。


『三秒後、俺から手を伸ばす。グッ兄は噴射を切って』


「お前が勝手に決めるな」


『じゃあ、兄ちゃんが決めて』


「同じだ! 三秒後に行くぞ!」


『了解』


「三、二、一――今だ!」


 俺は噴射を切り、右腕を伸ばした。


 ボビトも同時に腕を伸ばす。


 指先が触れた。


 だが、届かない。


 二頭の手が、もう一度離れかける。


「届、けえええええ!」


 全身へ力を込めた瞬間、喉の奥から本能のままの咆哮が迸った。


「ウホオオオオオオオッ!」


 俺はボビトの腕を掴んだ。


 二頭の身体が、宇宙空間で激しく回転する。


 ボビトが俺の腕を握り返した。


『グッ兄』


「なんだ」


『やっぱり追いついた』


「違う」


『じゃあ何?』


「やっと、お前の横に並んだんだよ」


 ボビトの宇宙服を俺の固定具へつなぐ。俺たちは二頭で命綱をたぐり、傷のない右舷の固定環を目指した。


 船体に手が届いた時、ようやく息を吐いた。


     ◇


 三日後。


 減速装置は復旧した。だが、隕石が左舷後方を抉った傷は深く、姿勢制御の出力は完全には戻らなかった。近くを通る着陸噴射装置の予備回線も断たれ、船内からできる応急処置には限界があった。


 その状態で、《ホライズン号》は《惑星SOL-III》の大気圏へ突入した。


 船窓の外が、瞬く間に赤く染まった。船体を包んだ大気が炎となって流れ、激しい振動が操縦席を揺さぶる。固定具が軋み、壁面から剥がれた小さな部品が、火花を散らしながら頭上を飛んでいった。


「降下角度が深すぎる!」


「分かってる! 姿勢制御が利かない!」


 ボビトが操縦桿を引く。


 機首は上がらない。それでもボビトは、暴れる船体に合わせて左右の噴射出力を細かく調整し、完全な制御喪失だけは防いでいる。


 赤い警告表示が、制御盤を埋め尽くした。


『耐熱限界まで、残り四十秒』


『高度一万二千』


『推定衝突時刻まで、九十秒』


「ボビト、九十秒後に、どうなる?」


「この角度で地面にぶつかったら、俺たちがどうなったか確認するヤツも残らない!」


「じゃあ、ぶつからなければいいんだな!」


「簡単に言うな!」


 俺は腰へ作業用の命綱をつなぎ、固定ベルトを外した。激しく揺れる船内を、壁の手すりへしがみつきながら機関制御盤まで這っていく。


 予備の着陸噴射装置は使えない。左舷の姿勢制御も、隕石の傷が響いている。主推進機まで、大気圏へ入った衝撃で出力が安定しなくなった。今、船体の向きを変えるために使えるのは、宇宙空間で使う小型噴射装置だけだった。


 本来、着陸に使うものではない。


 出力が足りない。


 噴射時間を一秒でも間違えれば、宇宙船は空中で横転する。


「グッ兄! 高度八千!」


「今、計算してる!」


「必要な数値は?」


「船体重量と残りの燃料。それから、お前の体重だ!」


「訓練の時と同じ」


「本当だろうな?」


「昨日、バナナを二本食べた」


「何で今それを言う!」


 ボビトは笑っている。


 だが、その両手は休むことなく動き続けていた。激しく揺れる計器を読み、横風を計算し、わずかに残った姿勢制御装置だけで船体の角度を保っている。


 俺の指は震えていた。


 間に合わない。


 俺が計算を間違えれば、二頭とも死ぬ。


 頭の中で、これまで考えてきた百二十三通りの最悪が駆け巡る。そのどれにも、今の状況に当てはまる答えはなかった。


『高度五千』


 《ホライズン号》が厚い雲を突き抜けた。


 大気との摩擦によって赤く燃えていた船窓が、急速に暗さを取り戻していく。


『熱負荷、低下』


『耐熱限界警告、解除』


 眼下には、灰色に乾いた大地が広がっていた。


 見渡す限り、砂しかない。


 だが、それを確かめている余裕などなかった。


 速すぎる。


 地上の砂丘が、一つ一つ見分けられるほど近づいてくる。


「ボビト!」


「聞いてる!」


「右の補助噴射を三秒間全開! 二秒空けて、左を全開!」


「右を三秒、二秒空けて左だな!」


「そのあと機首を七度上げろ!」


「今の出力じゃ六度が限界だ!」


「なら六度で保て! 足りない一度は着陸噴射で補う!」


「了解!」


 ボビトは、俺の指示を一度で正確に理解した。


『高度二千』


 俺は制御盤へ両手を叩きつけ、残っていたすべての動力を姿勢制御装置へ回した。


 作業用の命綱を外し、手すりを掴んで操縦席へ戻る。座席へ身体を押し込み、震える手で固定ベルトを締めた。


「三、二、一――今だ!」


 ボビトが右の噴射装置を作動させる。


 三秒。


 一瞬の遅れもなく噴射を止め、二秒後に左を全開。


 船体が激しく傾き、俺の身体が座席の側面へ叩きつけられた。左肩に鋭い痛みが走る。それでも表示された数値から目を離さない。


「機首を上げろ!」


「上げてる!」


 ボビトが操縦桿を引く。


 《ホライズン号》の機首が、わずかに持ち上がった。


『高度五百』


『衝突まで、十秒』


「まだ速い!」


「着陸噴射は!」


「一度しか使えない! 俺が言うまで待て!」


「了解!」


 地面が迫る。


 いくつもの砂丘が、凄まじい速さで船体の下を流れていった。


『五』


 早すぎれば、噴射装置が先に燃え尽きる。


『四』


 遅ければ、そのまま地面へ激突する。


『三』


 外したら死ぬ。


 俺だけではない。


 隣にいるボビトも死ぬ。


「グッ兄!」


「まだだ!」


『二』


『一』


「今だあああああ!」


 ボビトが着陸噴射装置を作動させる。


 爆発するような轟音が船底から響き、身体が座席へ押しつけられた。速度計の数値が急激に落ちていく。


 だが、止まりきらない。


「衝撃に備えろ!」


 宇宙船の底部から、金属のひしゃげる音が響いた。


 次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫く。


 《ホライズン号》が地面へ激突した。


 船体が一度、大きく跳ね上がる。


 再び落下。


 横倒しになったまま砂の上を滑り始めた。


 左翼が地面を抉り、根元から吹き飛ぶ。船内を火花と破片が飛び交い、何かが燃える臭いが鼻を突いた。


「止まれ! 止まれ、止まれ、止まれええええ!」


 俺の叫びなど聞くはずもなく、宇宙船は大量の砂を巻き上げながら進み続けた。


 正面に、巨大な砂丘が迫る。


 避けられない。


「ボビト!」


「グッ兄!」


 俺たちは互いへ腕を伸ばした。


 《ホライズン号》が砂丘へ突っ込む。


 船窓の向こうから、灰色の砂が渦を巻いて押し寄せる。


 直後、視界が真っ白に弾けた。


     ◇


 最初に聞こえたのは、何かが燃える音だった。


 次に、自分の荒い呼吸が聞こえた。


 身体中が痛い。それでも指は動く。腕も動く。隣へ顔を向けると、額から血を流したボビトが、逆さまになった座席で俺を見ていた。


「グッ兄……生きてる?」


「たぶんな。死んでたら、あとで教える」


「よかった」


「何がだ」


「横並びで着いた」


「こんな到着の仕方まで、横並びにする必要はなかったんだよ……」


 《ホライズン号》は半壊していた。


 だが、俺たちは生きていた。


     ◇


 応急処置と船内の点検を終えたあと、俺とボビトは《ホライズン号》から少し離れたところまで歩いてみることにした。


 見渡す限り、砂しかなかった。


 草一本なく、虫の鳴き声すら聞こえない。風に削られた砂丘が、地平線の向こうまで幾重にも連なっている。


「本当に、ここが《惑星SOL-III》なのか?」


「座標は合ってる」


「水と酸素があるんじゃなかったのか?」


「酸素はある。水も、惑星のどこかにはあるんだろう」


「ここには砂しかないぞ」


「見れば分かる」


「着陸地点を間違えたかな」


「惑星を間違えてなければ上出来だ」


「その可能性もある?」


「今、百二十五個目に加わった」


 俺が答えると、ボビトは楽しそうに笑った。


「でも、誰も来たことのない星なんだろ?」


「おそらくな」


「じゃあ、今から俺たちが最初の一歩を――ウホッ!?」


 得意げに歩いていたボビトの右足が、砂の中で何かに引っ掛かった。


 巨体が前のめりになる。


 両腕を激しく振って踏ん張ったものの、勢いを止められない。そのまま頭から砂へ突っ込み、下半身だけを地上に残して倒れた。


「最初の一歩で転ぶ宇宙飛行士がいるか」


「……グッ兄と、砂が悪い」


「俺を砂と同列に並べるな」


 俺はため息をつき、ボビトの腰を掴んで引き抜いた。


 ボビトは口から砂を吐きながら、自分が躓いた場所を振り返る。


「何かある」


 砂の中から、青い板のようなものがわずかに覗いていた。


「岩じゃないのか?」


「岩にしては平らだ」


 ボビトが膝をつき、両手で砂を掻き出した。


 俺も隣へしゃがみ込む。


 現れたのは、ひどく色褪せた一枚の看板だった。


 その時、強い風が吹いた。


 乾いた砂が足元から舞い上がり、看板の表面を一気にさらっていく。


 赤い帽子をかぶった、丸い顔の青いペンギン。


 その下には、見たことのない文字が並んでいた。


 ――驚安の殿堂。


 さらに下へ続く文字は、まだ砂に埋もれている。


 見えているのは、最初の一文字だけだった。


 ――ド……。


「グッ兄」


「なんだ」


「これ、何て書いてあるんだろうな」


「分からない」


 俺たちは、砂に埋もれた看板を見下ろした。


 乾いた風が吹き抜け、二頭の足跡を少しずつ消していく。


 誰もいない砂の上で。


 看板の青い鳥だけが、笑っていた。



――完――

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― 新着の感想 ―
「赤い帽子をかぶった、丸い顔の青いペンギン」と言えば、アイツですね! こんな宇宙の果てまで、店舗を拡大しているとは! 「ド、ド、ド……」の店内BGMが脳内再生されました。
え? ラストが気になるのですが!?ʕ⚫︎ᴥ⚫︎ʔ ゴリラ兄弟は一体何につまづいたの〜 始めからカタカナのドがつくって、"ドジャース"くらいしか思い当たらない自分ですみません。ʕ-ᴥ-ʔ ゴリラ兄弟読…
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