ゴリラ兄弟 ~宇宙の果てで「ド」の看板にけっつまずく~
俺の弟、ボビトが宇宙へ行く。
しかも、ただの宇宙ではない。母星系の外へ飛び出し、遥か彼方で発見された《惑星 SOL-III》を目指すという。
数百年前に打ち上げられた無人探査機が偶然発見した、液体の水と酸素を持つ惑星。大気の成分や重力も、奇跡的なほど俺たちの星と似ているらしい。
ただし、探査機から届いた情報はごくわずかだった。惑星を発見した直後に通信機能の大半が故障し、生物が存在するのか、どのような環境が広がっているのかまでは分かっていない。
当然、本当に生きて帰れる保証もなかった。
「絶対に途中で死ぬだろ……」
俺は居間のソファへ寝転がり、テレビに映る弟の記者会見を眺めながら呟いた。
画面の中では、最新の宇宙服を着たボビトが、大勢の記者に囲まれて笑っている。身長三メートル近い巨体に、艶のある黒い毛。肩幅など俺の一・五倍はある。マイクを持つ記者の手と並ぶと、ボビトの黒い拳は工具箱ほどの大きさに見えた。
同じゴリラの兄弟なのに、どうしてここまで差がついたのだろう。
『ボビト飛行士。我々の文明史上初となる恒星間飛行に、不安はありませんか?』
『ありません!』
ボビトは即答した。
『本当に?』
『はい。兄ちゃんも一緒ですから』
「は?」
俺はソファから起き上がった。
記者たちも一斉にざわつく。
『お兄さんも宇宙飛行士なのですか?』
『まだ違います。でも、昨日、選抜試験に申し込んでおきました』
「誰が申し込んだあああああ!」
立ち上がった俺がテレビへ向かって叫んだところで、記者会見の中継が終了した。
その数分後、テーブルの上に置いてあった通信端末が鳴る。画面に表示された名前は、ボビト。
会見場を出て、すぐにかけてきたらしい。
俺は太い人差し指で、端末の小さな通話ボタンを叩いた。
「おい、ボビト!」
『見てた?』
「見てたじゃねえ! 何で勝手に俺を宇宙飛行士へ申し込んでるんだ!」
『だって、兄ちゃん。自分じゃ申し込まないだろ?』
「当たり前だ! 俺はもう宇宙へ行かない!」
『どうして?』
「どうしてって……」
言葉が詰まった。
俺とボビトは、子供の頃から宇宙飛行士を目指していた。
丘の上へ並んで寝転び、夜空を眺めながら、いつか二頭で宇宙へ行こうと約束した。
「俺が先に宇宙へ行く」
幼い俺は、夜空へ拳を突き出して宣言した。
「兄貴は、弟より先を歩くもんだからな」
「でも、二頭で行くんだろ?」
「俺が先で、お前がその少し後ろだ」
「宇宙船の席は横に並んでるぞ」
幼い弟の瞳は、夜空のようにキラキラしていた。
「じゃあボビト、横並びで行こう!」
ボビトは自分の胸を二度叩いた。
「ウホッ!ウホッ!」
「返事は言葉でしろ!」
「絶対に一緒に行くぞ、グッ兄」
「ああ。約束だ」
あの頃の俺は、弟に追い越される未来など考えていなかった。
だが、宇宙飛行士候補生になった俺は、訓練中の事故で仲間を失った。
それから宇宙へ出ることが怖くなった。候補生を辞め、今は小さな修理工場で、壊れた機械を直して暮らしている。
競争から降りたのは、俺の方だった。
「宇宙船は壊れる。エンジンが止まるかもしれない。船体に穴が開けば空気が漏れる。航路を間違えれば一生帰れないし、未知の病原体に感染する可能性だってある。考えられるだけでも百二十三通り――」
『よくそんなに思いつくな』
「昨日から考えてたからな」
『でも、全部起きなきゃ大丈夫だろ?』
「お前のそういうところが一番心配なんだよ!」
俺が怒鳴ると、画面の中でボビトが笑った。
『だったら、一緒に来てよ』
「嫌だ」
『兄ちゃんが来ないと困る』
「お前なら一頭でも行けるだろ。この星で一番の宇宙飛行士様なんだから」
『操縦はできる。でも、船が壊れたら俺には直せない』
「前に、俺が宇宙船なんて叩けば直るって言ってただろ」
『それは宇宙船に真空管を使ってた時代の話だよ』
「分かってるじゃねえか。じゃあ、今の宇宙船が壊れたらどうする?」
『兄ちゃんを呼ぶ』
「俺がいなかったら?」
『とりあえず叩いてみる』
「今の説明、聞いてたか? それは旧式の――」
『聞いてたよ。だから、大きなハンマーを積んでいく』
「何が『だから』だ! 直すどころか、もっと壊れるだろ!」
『じゃあ、来る?』
「行かない!」
『分かった。柄の長いヤツにする』
「やめろ! 分かった! 絶対に行くから、ハンマーは積むな!」
『うん。待ってる』
画面の向こうで、ボビトが嬉しそうに胸を二度叩いた。
『ウホッ!』
「今のは何だ」
『嬉しかっただけ』
「言葉で喜べ!」
ボビトは、最初からこうなると分かっていたように笑っている。
こうして俺は、宇宙飛行士の選抜試験を受けることになった。
◇
半年後。
俺とボビトは、巨大な宇宙船《ホライズン号》の操縦席に並んで座っていた。
どうして俺が試験に合格してしまったのか、今でも分からない。
体力試験では最下位だった。宇宙遊泳訓練では、船外へ出るまでに三十分かかった。閉鎖環境試験では、起こり得る事故を壁一面に書き出し、他の候補生から「お前といると不安になる」と苦情を受けた。
ただ、訓練装置が故障した時、誰より早く原因を特定し、修理したのは俺だった。分厚い指先で焼けた配線を一本ずつ拾い上げ、狭い端子へつなぎ直した。
最終面接で、試験官から「なぜ宇宙へ行きたいのか」と尋ねられた。
俺は正直に答えた。
「弟を一頭で行かせるわけにはいきません。あいつは宇宙船が壊れたら、叩いて直そうとします」
なぜか、それが合格の決め手になったらしい。
「グッ兄。さっきから落ち着かないな」
「落ち着いていられるか。打ち上げ失敗の可能性が〇・〇〇三パーセントもあるんだぞ」
「ほとんどゼロじゃん」
「十万回飛ばしたら三回は爆発する!」
「俺たちは、十万回も飛ばないだろ?」
「そういう問題じゃない!」
船内へ、打ち上げまで残り一分を告げる音声が流れる。
全身の毛が逆立った。
怖い。
今すぐ固定具を外し、宇宙船から逃げ出したい。
「ボビト」
「何?」
「俺は、お前の付録みたいなもんだ」
「グッ兄、急にどうした?」
「豪華で目立つ本体がお前で、箱の隅に入ってる細かい注意書きが俺だ。俺がいなくても、お前は宇宙へ行けた」
「行けたよ」
「そこは否定しろ」
「でも、一頭で行くつもりはなかった」
「どういう意味だ?」
ボビトは前を向いたまま、操縦盤へ並ぶ表示を確認している。
「俺は、今でも覚えてる」
「何をだよ」
「子供の頃、丘の上に寝転んで、二頭で宇宙へ行くって約束しただろ?」
俺は何も答えられなかった。
「グッ兄が候補生を辞めても、俺は約束までなくなったとは思ってなかった」
「……お前、そのために?」
「うん」
ボビトは、何でもないことのように答えた。
「兄ちゃんと宇宙へ行くために、俺は宇宙飛行士になったんだ」
俺は言葉を失った。
ボビトが宇宙飛行士を目指し続けた理由を、初めて聞いた。
いや。
聞かなくても、分かっていたのかもしれない。
ただ、それを認めてしまえば、俺も約束した場所へ戻らなければならなくなる。それが怖くて、ずっと気づかないふりをしていた。
「俺が来なかったら、どうするつもりだった?」
「来るよ」
「来なかったら、って聞いてるんだ」
「だから、来るって!」
「どうして、そこまで言い切れるんだ?」
「好きだから」
「え?」
「兄ちゃんは、宇宙が好きだから」
「……」
「それに、弟のことも大好きだから」
「……」
「だろ?」
「簡単に言うなよ。俺は何年も遅れたんだぞ」
「でも、来た」
ボビトが、ようやくこちらを向いた。
「ここにいる」
「……ああ」
「俺の横に」
カウントが、残り十秒を切った。
俺は隣を見る。
子供の頃よりずっと大きくなった弟が、あの頃と同じ顔で笑っていた。
「グッ兄」
「なんだ」
「行こう」
「簡単に言うな。俺はな、今も最悪の展開を百通り考えてるんだ」
「じゃあ、百一個目が起きたら?」
「その時に考える」
「大丈夫。それなら、いつもの兄ちゃんだ」
ゼロ。
凄まじい轟音と振動に包まれ、《ホライズン号》が地上を離れた。
俺たちは、子供の頃に約束した宇宙へ飛び出した。
◇
《ホライズン号》は、跳躍航法を繰り返しながら《惑星SOL-III》を目指した。
船長兼操縦士はボビト。俺は機関部と航行装置を担当する。
ボビトは、細かな数値や長い説明を嫌う。分厚い操縦マニュアルを渡した時も、最初の十ページを読んだだけで放り出した。
そのくせ、操縦席へ座らせれば、誰より正確に船を飛ばす。
推進装置の出力を規定の上限ぎりぎりまで引き上げ、船体へ余計な負荷をかけることなく、到着予定を半日縮めた。俺が勝手なことをするなと怒鳴ると、ボビトは「でも、壊れてないだろ?」と笑った。
ある時、冷却装置から微かな異音が聞こえた。
「放っておけば、十九日後くらいに軸受けが壊れるな」
ボビトは、その音を一度聞いただけで言った。
俺は信用できず、冷却装置を分解して徹夜で調べた。
計算上、故障するのは二十日後だった。
目的地へ到着するのは、あと三日。
「ほら、到着までは壊れないだろ?」
「帰りがあるんだよ!」
ボビトは、何も考えていないように見える。
実際には、必要なことだけを一瞬で見抜き、それ以外を気にしていないだけだった。
一方の俺は、必要のないことまで考え、起きないかもしれない故障まで調べ続ける。
正反対だからこそ、二頭なら何とかなる。
長い航海を続けるうちに、俺も少しずつ、そう思えるようになっていた。
目的地まで、残り三日。
船窓の向こうに、《惑星SOL-III》が見えていた。
大気の表面を厚い雲が覆い、地上の様子はほとんど分からない。恒星の光を受けた輪郭だけが、暗い宇宙の中へ淡く浮かび上がっている。
「蒼がきれいだな」
ボビトが船窓へ顔を寄せる。
「まだ安心するな。大気の成分に問題はなくても、地表に何があるか分からない。巨大な肉食獣に襲われる可能性も――」
「兄ちゃん」
「なんだ」
「うれしいんだろ?」
「……まあな」
子供の頃、二頭で星空を見上げた。
あの時は、宇宙がこんなにも暗く、冷たく、広いものだとは知らなかった。それでも俺たちは今、約束した場所へ二頭で近づいている。
その時だった。
船体を、激しい衝撃が襲った。
警報が鳴り響き、操縦席の照明が赤く染まる。
「何が起きた!」
「小型隕石! 左舷後方に衝突!」
ボビトの両手が、即座に操縦桿と制御盤へ動いた。
「左舷姿勢制御、出力三十八パーセント低下。減速装置から応答なし」
「予備装置へ切り替えろ!」
「切り替わらない。外部回線が切れてる」
ボビトは表示された数値へ一度目を走らせただけで、故障箇所を指差した。
「左舷後方の中継回路だ。船外へ出て、手動で配線をつなぎ直す」
「待て。ほかの方法を考える」
「減速開始まで十七分。考えるなら、その間に頼む」
ボビトが宇宙服を着始める。
「俺が行く」
「駄目だ」
「何でだ」
「兄ちゃんは内側から回路を監視して。断線箇所を見つけても、どの線をつなぐか分からなきゃ意味がない。船外活動の記録は俺の方が上だ」
正しい判断だった。
だからこそ、止める言葉が見つからない。
全身の毛が震え始める。
候補生だった頃、事故で閉じた隔壁を、向こう側の仲間が三度叩いた。通信が途切れても、俺は故障表示を見つめたまま動けなかった。あの三度の音を、今も覚えている。
「大丈夫。すぐ戻る」
「宇宙で『大丈夫』なんて言葉を簡単に使うな。何かあった時、大丈夫じゃなかった俺の気持ちはどうなる」
「その時は、兄ちゃんが何とかするだろ?」
「俺を何だと思ってる」
「グッ兄だよ」
ボビトは、昔と変わらない笑顔を見せた。
「俺が世界一すごいと思ってるゴリラさ」
制止する間もなく、ボビトは船外へ出た。
命綱を船体へ固定し、左舷後方へ移動する。太い指で破損した外板を剥がし、その下にある配線へ手を伸ばした。
『断線箇所を見つけた。青が主回線、黄色が予備。赤はまだ生きてる』
「分かってるじゃないか」
『出発前に、兄ちゃんが三回説明した』
「七回だ」
『そんなに聞いたかな』
「聞いてなかったのかよ!」
『覚えてるからいいだろ?』
ボビトは迷わず青い配線をつなぎ、続けて黄色の予備回線を固定した。
制御盤へ、減速装置の復旧を示す表示が灯る。
「復旧した! 戻ってこい!」
『了解』
ボビトが船体へ戻ろうとした、その瞬間だった。
最初の小型隕石と同じ軌道を飛んでいた別の破片が、左舷をかすめた。
宇宙船が大きく傾く。
ボビトの身体が船体から離れ、命綱が勢いよく伸びきった。
先ほどの衝突で傷んでいた固定金具が、根元から外れる。
『あ』
間の抜けた声を残し、ボビトが宇宙空間へ投げ出された。
「ボビト!」
俺は立ち上がった。
『来るな、グッ兄! 兄ちゃんまで戻れなくなる!』
頭の中に、最悪の未来が次々と浮かぶ。
船外へ出れば、俺も戻れなくなるかもしれない。船体の固定環まで傷んでいれば命綱も役に立たないし、残りの推進剤で弟に追いつける保証もない。
このまま弟を見捨てれば、船は助かる。
俺だけなら、目的地へ到着できる。
「ふざけんな」
『グッ兄?』
「俺は兄貴だぞ!」
『それ、今関係ある?』
「ある! 兄貴は弟より先を歩くもんなんだ!」
『俺、今ものすごい勢いで遠ざかってるけど』
「だから追いつこうとしてるんだよ!」
俺は宇宙服を掴んだ。予備の命綱を、衝突の傷がない右舷の固定環へ結び、もう一端を自分の腰に固定する。表示された距離なら、ぎりぎり届く。
俺は船外へ飛び出した。
怖い。
手も足も震えている。
いや、全身が震えているせいで、どこまでが恐怖で、どこからが宇宙船の振動なのか、自分でも分からない。
噴射装置を操作し、暗闇を漂うボビトへ近づく。計算上、ボビトへ届くために使える推進剤は一度きり。失敗しても俺だけは命綱で戻れるが、遠ざかる弟をもう一度追うことはできない。
『グッ兄、速度が合ってない。右へ〇・二度』
「分かってる!」
『噴射は長くても一秒。二秒使ったら、俺の速度に合わせられない』
「分かってるって言ってるだろ!」
『分かってるならいい』
「お前、助けられる側のくせに落ち着いてるな!」
『だって、俺の兄ちゃんだ』
ボビトは身体をひねり、自分の回転を止めた。
『三秒後、俺から手を伸ばす。グッ兄は噴射を切って』
「お前が勝手に決めるな」
『じゃあ、兄ちゃんが決めて』
「同じだ! 三秒後に行くぞ!」
『了解』
「三、二、一――今だ!」
俺は噴射を切り、右腕を伸ばした。
ボビトも同時に腕を伸ばす。
指先が触れた。
だが、届かない。
二頭の手が、もう一度離れかける。
「届、けえええええ!」
全身へ力を込めた瞬間、喉の奥から本能のままの咆哮が迸った。
「ウホオオオオオオオッ!」
俺はボビトの腕を掴んだ。
二頭の身体が、宇宙空間で激しく回転する。
ボビトが俺の腕を握り返した。
『グッ兄』
「なんだ」
『やっぱり追いついた』
「違う」
『じゃあ何?』
「やっと、お前の横に並んだんだよ」
ボビトの宇宙服を俺の固定具へつなぐ。俺たちは二頭で命綱をたぐり、傷のない右舷の固定環を目指した。
船体に手が届いた時、ようやく息を吐いた。
◇
三日後。
減速装置は復旧した。だが、隕石が左舷後方を抉った傷は深く、姿勢制御の出力は完全には戻らなかった。近くを通る着陸噴射装置の予備回線も断たれ、船内からできる応急処置には限界があった。
その状態で、《ホライズン号》は《惑星SOL-III》の大気圏へ突入した。
船窓の外が、瞬く間に赤く染まった。船体を包んだ大気が炎となって流れ、激しい振動が操縦席を揺さぶる。固定具が軋み、壁面から剥がれた小さな部品が、火花を散らしながら頭上を飛んでいった。
「降下角度が深すぎる!」
「分かってる! 姿勢制御が利かない!」
ボビトが操縦桿を引く。
機首は上がらない。それでもボビトは、暴れる船体に合わせて左右の噴射出力を細かく調整し、完全な制御喪失だけは防いでいる。
赤い警告表示が、制御盤を埋め尽くした。
『耐熱限界まで、残り四十秒』
『高度一万二千』
『推定衝突時刻まで、九十秒』
「ボビト、九十秒後に、どうなる?」
「この角度で地面にぶつかったら、俺たちがどうなったか確認するヤツも残らない!」
「じゃあ、ぶつからなければいいんだな!」
「簡単に言うな!」
俺は腰へ作業用の命綱をつなぎ、固定ベルトを外した。激しく揺れる船内を、壁の手すりへしがみつきながら機関制御盤まで這っていく。
予備の着陸噴射装置は使えない。左舷の姿勢制御も、隕石の傷が響いている。主推進機まで、大気圏へ入った衝撃で出力が安定しなくなった。今、船体の向きを変えるために使えるのは、宇宙空間で使う小型噴射装置だけだった。
本来、着陸に使うものではない。
出力が足りない。
噴射時間を一秒でも間違えれば、宇宙船は空中で横転する。
「グッ兄! 高度八千!」
「今、計算してる!」
「必要な数値は?」
「船体重量と残りの燃料。それから、お前の体重だ!」
「訓練の時と同じ」
「本当だろうな?」
「昨日、バナナを二本食べた」
「何で今それを言う!」
ボビトは笑っている。
だが、その両手は休むことなく動き続けていた。激しく揺れる計器を読み、横風を計算し、わずかに残った姿勢制御装置だけで船体の角度を保っている。
俺の指は震えていた。
間に合わない。
俺が計算を間違えれば、二頭とも死ぬ。
頭の中で、これまで考えてきた百二十三通りの最悪が駆け巡る。そのどれにも、今の状況に当てはまる答えはなかった。
『高度五千』
《ホライズン号》が厚い雲を突き抜けた。
大気との摩擦によって赤く燃えていた船窓が、急速に暗さを取り戻していく。
『熱負荷、低下』
『耐熱限界警告、解除』
眼下には、灰色に乾いた大地が広がっていた。
見渡す限り、砂しかない。
だが、それを確かめている余裕などなかった。
速すぎる。
地上の砂丘が、一つ一つ見分けられるほど近づいてくる。
「ボビト!」
「聞いてる!」
「右の補助噴射を三秒間全開! 二秒空けて、左を全開!」
「右を三秒、二秒空けて左だな!」
「そのあと機首を七度上げろ!」
「今の出力じゃ六度が限界だ!」
「なら六度で保て! 足りない一度は着陸噴射で補う!」
「了解!」
ボビトは、俺の指示を一度で正確に理解した。
『高度二千』
俺は制御盤へ両手を叩きつけ、残っていたすべての動力を姿勢制御装置へ回した。
作業用の命綱を外し、手すりを掴んで操縦席へ戻る。座席へ身体を押し込み、震える手で固定ベルトを締めた。
「三、二、一――今だ!」
ボビトが右の噴射装置を作動させる。
三秒。
一瞬の遅れもなく噴射を止め、二秒後に左を全開。
船体が激しく傾き、俺の身体が座席の側面へ叩きつけられた。左肩に鋭い痛みが走る。それでも表示された数値から目を離さない。
「機首を上げろ!」
「上げてる!」
ボビトが操縦桿を引く。
《ホライズン号》の機首が、わずかに持ち上がった。
『高度五百』
『衝突まで、十秒』
「まだ速い!」
「着陸噴射は!」
「一度しか使えない! 俺が言うまで待て!」
「了解!」
地面が迫る。
いくつもの砂丘が、凄まじい速さで船体の下を流れていった。
『五』
早すぎれば、噴射装置が先に燃え尽きる。
『四』
遅ければ、そのまま地面へ激突する。
『三』
外したら死ぬ。
俺だけではない。
隣にいるボビトも死ぬ。
「グッ兄!」
「まだだ!」
『二』
『一』
「今だあああああ!」
ボビトが着陸噴射装置を作動させる。
爆発するような轟音が船底から響き、身体が座席へ押しつけられた。速度計の数値が急激に落ちていく。
だが、止まりきらない。
「衝撃に備えろ!」
宇宙船の底部から、金属のひしゃげる音が響いた。
次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫く。
《ホライズン号》が地面へ激突した。
船体が一度、大きく跳ね上がる。
再び落下。
横倒しになったまま砂の上を滑り始めた。
左翼が地面を抉り、根元から吹き飛ぶ。船内を火花と破片が飛び交い、何かが燃える臭いが鼻を突いた。
「止まれ! 止まれ、止まれ、止まれええええ!」
俺の叫びなど聞くはずもなく、宇宙船は大量の砂を巻き上げながら進み続けた。
正面に、巨大な砂丘が迫る。
避けられない。
「ボビト!」
「グッ兄!」
俺たちは互いへ腕を伸ばした。
《ホライズン号》が砂丘へ突っ込む。
船窓の向こうから、灰色の砂が渦を巻いて押し寄せる。
直後、視界が真っ白に弾けた。
◇
最初に聞こえたのは、何かが燃える音だった。
次に、自分の荒い呼吸が聞こえた。
身体中が痛い。それでも指は動く。腕も動く。隣へ顔を向けると、額から血を流したボビトが、逆さまになった座席で俺を見ていた。
「グッ兄……生きてる?」
「たぶんな。死んでたら、あとで教える」
「よかった」
「何がだ」
「横並びで着いた」
「こんな到着の仕方まで、横並びにする必要はなかったんだよ……」
《ホライズン号》は半壊していた。
だが、俺たちは生きていた。
◇
応急処置と船内の点検を終えたあと、俺とボビトは《ホライズン号》から少し離れたところまで歩いてみることにした。
見渡す限り、砂しかなかった。
草一本なく、虫の鳴き声すら聞こえない。風に削られた砂丘が、地平線の向こうまで幾重にも連なっている。
「本当に、ここが《惑星SOL-III》なのか?」
「座標は合ってる」
「水と酸素があるんじゃなかったのか?」
「酸素はある。水も、惑星のどこかにはあるんだろう」
「ここには砂しかないぞ」
「見れば分かる」
「着陸地点を間違えたかな」
「惑星を間違えてなければ上出来だ」
「その可能性もある?」
「今、百二十五個目に加わった」
俺が答えると、ボビトは楽しそうに笑った。
「でも、誰も来たことのない星なんだろ?」
「おそらくな」
「じゃあ、今から俺たちが最初の一歩を――ウホッ!?」
得意げに歩いていたボビトの右足が、砂の中で何かに引っ掛かった。
巨体が前のめりになる。
両腕を激しく振って踏ん張ったものの、勢いを止められない。そのまま頭から砂へ突っ込み、下半身だけを地上に残して倒れた。
「最初の一歩で転ぶ宇宙飛行士がいるか」
「……グッ兄と、砂が悪い」
「俺を砂と同列に並べるな」
俺はため息をつき、ボビトの腰を掴んで引き抜いた。
ボビトは口から砂を吐きながら、自分が躓いた場所を振り返る。
「何かある」
砂の中から、青い板のようなものがわずかに覗いていた。
「岩じゃないのか?」
「岩にしては平らだ」
ボビトが膝をつき、両手で砂を掻き出した。
俺も隣へしゃがみ込む。
現れたのは、ひどく色褪せた一枚の看板だった。
その時、強い風が吹いた。
乾いた砂が足元から舞い上がり、看板の表面を一気にさらっていく。
赤い帽子をかぶった、丸い顔の青いペンギン。
その下には、見たことのない文字が並んでいた。
――驚安の殿堂。
さらに下へ続く文字は、まだ砂に埋もれている。
見えているのは、最初の一文字だけだった。
――ド……。
「グッ兄」
「なんだ」
「これ、何て書いてあるんだろうな」
「分からない」
俺たちは、砂に埋もれた看板を見下ろした。
乾いた風が吹き抜け、二頭の足跡を少しずつ消していく。
誰もいない砂の上で。
看板の青い鳥だけが、笑っていた。
――完――




