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仮猫

作者: あじゃじ
掲載日:2026/03/13

 猫を被る。語源の一説では、普段おとなしく見える猫が鋭い爪を見せることから、本性を隠す様子を表現したとされている。現代社会では、やれぶりっこだのと若干忌避されるそれを、私は好んで行った。絶対に素を見せて堪るかという意思表示だった。本来の姿とはかけ離れているからこそ、完璧に演じることで自分に近づけさせない。誰に対しても情を持たないということを可能にした。家にいる時ですら、その役づくりは途切れなかった。きっと私には演劇の才能がある。気に障ることを言われても、嫌なことをされても。私はそんな顔ひとつしなかった。飛び跳ねて喜ぶようなことがあっても、心の中にぐっと仕舞った。あとで一人になってから、少しずつ蓋を開けてゆっくり噛み締めた。私はちゃんと幸せだった。

「可哀そうな奴」

 そんな言葉が耳に入った。大衆がうごめいて、誰が誰に向けた言葉かはわからない。ただ喧騒の中で、すっと頭の中を侵食していった。とにかく通る男の声だった。どこかで聞いたような、聞いたことがないような。中途半端な低い声。きっとその声の持ち主にとって私の存在はどうでもいいはずだ。だって私とその人は全くの他人で、心に残るその台詞は私に向けられたものじゃないのだから。日曜日の夜。冬が贈る寒空の下で別れたどこかの恋人たちによる言い合いが私に偶然届いただけ。ただそれだけだ。

 私の生活は変わらない。ただずっと、頭の片隅には可哀そうという言葉が取り巻いている。その小さな渦は些細な思うところを回収して、成長していった。けれど、私の生活はかわらない。取り繕うのが私自身を幸せにする最善手だから。私の選択は揺るぎないものだ。

 過去に私のことを騙して、弄んできた人たち。私の本質を知って嘲笑った人たち。私が正しい内面を発露させれば、私は不利益を被る。そうやって私は生きてきた。人間が持つ性質は容易く変質するものでも、他者が受け入れられるものでもない。今からその何かが変わるかと問われれば、そうではない。ただそこに、理不尽に存在するのだ。

 私は隠す選択をした。世の中にはそうじゃない人もいる。それで成功している人だってもちろんいる。ただ、それが全てではない。中には邪険にされて友人が出来ない生活を送るケースだってあるだろう。失敗と呼ぶには大袈裟かもしれないが、私にとっては避けるべき可能性だった。だから私は悟られないように、誰もに好かれる理想像を作り出した。それは正常に作動した。だからこそ私は表向き嫌われることがなかった。快適な人間関係の中で日々を過ごした。他人を演じるのに苦痛はない。それが必要なことだと理解しているから。私がこの生存競争の中で生き残るにはこの方法しかなかった。

 あの言葉が、声が。私の頭の中を駆け巡る。私の生き方について自分できちんと納得してるのにも関わらず、脳裏に張り付いてどこにも行ってくれはしない。悶々と続く思考を解決する糸口が見つからない。あれほどまでに晴れていた視界に陰りが生じた。

 正解がわからない暗闇を歩き続けることに恐怖を覚える。今まで通りを続ければ良いだけだ。それなのに、何度も何度も繰り返す言葉がある。私に迷いを植え付けて正しい道から踏み外そうという勢力。可哀そうは私に向けられるべき言葉じゃない。だって私は努力してこの場所を手にしたのだ。理想を叶えた私が可哀そうなんてあるわけない。

「先輩、もしこの後空いてたら久々にご飯でも行きませんか」

 そんな呼びかけに振り返る。職場の後輩からの誘い。入社してまもなく、私が教育係をつとめていた部下だ。呑み込みは決して早いとは言えなかったけれど、周りをよく見て気を遣うことが上手な奴だった。彼は私のことも相応に観察していた。それでも私の被った猫が見破られた形跡はない。

 誘いを断る理由は特にない。私の外聞的にも、ここで断ったら良い上司像は崩れてしまうだろう。長い時間目にかけた部下だ。単純に近況がどうかという興味もあった。選んだ店は教育係時代に行ったことのある所だった。彼はここの料理を絶賛してくれていたし、何より私が誰よりも気に入っていた。

 少し調子を落とした温かみのある照明が店内を包む。ぽつりぽつりと人影が見えた。私たちは中央に近いテーブル席へ通された。二人掛けにしては少し広い机。上司の椅子を引く気遣いが出来る部下をよそに、私はメニュー表へ目を落とす。考える素振りをしながら目の前に座る男について思案する。元上司とはいえ、彼が異動してからここ数年話していない。異動と言っても、姿が見えなくなる程遠い距離じゃないし社内ですれ違うことだって少なくない。それなのに、なぜ今なのだろう。

「僕をここに連れてきてくれた事、覚えてくれていたんですか」

「当たり前だよ。それに貴方が覚えてるんだから、私が覚えているのも不思議ではないでしょう」

 私の考えなんて知ったことはない彼の質問に適当な応答をする。二人とも注文を決め終えたからウエイトレスを呼んだ。口に馴染んだいつものメニューを声に出す。その間も私は思考を続けた。まさか、私の不調を捉えたなんてことは無かろう。

 歓談。そう呼ぶに差し支えないだろうものが続いた。お互いを探るような会話と言い換えることも出来る。彼が私のことをよく見ているのがわかるから、私も気を張って挑まなければならない。いつも以上に背筋が伸びる。

 私は表面上の笑顔を崩さなかった。実際、警戒していることを除けば彼との会話は楽しいのだ。料理が運ばれてくるまでそれは恙無く進んだ。彼が雰囲気を変えたのはその後だった。

「先輩。僕は貴方から見て信頼に足る人物ですか?」

 彼はそんな意味のわからないことを言った。私は変わらず、彼の真意を探り続けた。私が少しだけ真剣な面持ちを表に出したからだろうか、彼は私をじっと見つめて停止した。私も彼の誠意に応えようと考えた。信頼という言葉は不思議だ。私は即座に信頼している、と答えかけた。けれどそれは職務上の話であることに気がついた。私は彼という人間のことをまるで知らないのだ。

 私は彼から逃げるように、カトラリーを手に取った。手際よく切り分けた一口分を咀嚼する。よく知った料理はいつもよりほんの少し味が薄いように感じた。

「先輩はいつも背伸びしているように見えてしまって。そんなに気を張らなくてもいいんですよ。いきなり大勢の前では無理でも、僕の前でくらい自然体でいてくれたら嬉しいです」

 驚いた。私が黙秘権を貫いていると、彼は更に言葉を続けた。私の隠したものに気がついたわけではない。しかし隠しているという事実を感知されてしまっていた。私にとってそれは大失態だった。

 自分のことを受け入れてくれる人を見つけ出せるかもしれない。そんなことを考えていた時期もある。しかしそんな検討をしたところでうまくいく事もない。私は疾うに諦めていた。一生この枷を背負って生きていくのだと。そう信じているからこそ、この程度苦しんではいけないのだ。

 透明なグラスに水面が揺れる。私は少し、全てをぶつけてみようかという気分になった。けれどそれはすぐに中止した。私は彼がこの歪みを受け入れてくれる人間だと一ミリも信じていないのだということに気がついたからだ。私はなんて最低な人間なんだろう。いや、そんなこと最初から分かっている。

「気持ちはありがたいけれど、私が持っている緊張感は過度なものじゃないよ。それにちゃんと息抜きも出来ているから大丈夫だよ。心配かけちゃったかな」

 私が取った選択肢は結局、全てに知らないふりをして隠すことだった。外したことのないこの仮面を、最初からあったものだと思い込む。

「嘘ばっかり。全然大丈夫じゃないし、先輩無理しすぎです。自分のことを受け入れてくれる人間は思うよりずっと近くにいます」

「でも、あなたはそうじゃないでしょ?」

 彼の熱意が籠った言葉に、私は思わずそう返していた。やってしまった、と思った。しかしそれに気づいてからではもう遅いのだ。今日は厄日か何かだろう。私は自分の軽率さを呪った。それを引き出した後輩もついでに少しだけ。ごめんなさい、と付け足した謝罪に何の意味もないことはわかっていた。

 お互い、食事を勧めるペースを上げたのがわかる。店内に入ったばかりの頃とは打って変わって、静寂が広がった。店内に小さな音量でかかる音楽に耳を傾けて、その気まずさを誤魔化した。

 会計は私が担当した。後輩は自分が払うと主張したけれど、この気まずさのきっかけを作った失態の謝罪を込めてその権利を勝ち取った。あるかわからない、次の機会には会計を任せるなんて、きっと守られる事が無いだろう口約束をして。そうしてようやく、私たちは待ちに待った別れの瞬間を得ることが出来た。

 人々が行き交う、よく冷えた冬の夜。オーナメントに飾られた道を歩く。まるで非日常で、元の状態なんて想像ができない。そうやって、私は私を作り上げた。各種電球で色とりどりに照らされた道を歩く。星が見えないような暗い夜だけれど、嘘のように明るい。そうやって、私は偽りの姿を見せてきた。

 沢山の人がいる中で、私はただ一人戦っていた。一生終わることのない戦い。本当の私と、嘘をつき続ける私とのせめぎあい。彼の所為で、また頭を悩ませる言葉が増えてしまった。誘いを断るべきだっただろうか。

 そんなことを思いながらも、被った猫ごとささやかな笑みを浮かべていた。

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