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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

記憶のない罪が君を殺す

作者: 水瀬カフカ

 嶋津田侯爵は、生まれながらにして勝者だった。


 大和帝国の由緒ある侯爵家の嫡男としてこの世に生を受け、地位と財産を約束され、美しい令嬢を妻に迎え、二人の子に恵まれた。聡明な長男、敬也は将来を嘱望され、次男の輝明はやんちゃで無礼なところも若さゆえの愛嬌として許された。

 爵位を継いでからは領地の整備に尽力し、議会では幾つもの派閥と結託して中央政界の要となった。

──人生に、欠けたものなど何一つなかった。


 だからこそ、輝明の言葉は、甘えか虚言にしか思えなかった。

「……知らない男が、笑いながらついてくるんだ」

最初に聞いたとき、侯爵は笑みすら浮かべた。輝明は跡継ぎではないため、少々自由に育てすぎた。学院でもやんちゃが過ぎて、金を渡して口止めしたこともある。今回もまた悪ふざけの延長だと決めつけ、すぐに口を閉ざした。


 だが、輝明の様子は日に日におかしくなっていった。目に見えて壊れていった。


 まず笑わなくなり、食も細くなって頬はげっそりとこけ、目の下には真夜中のような隈が広がった。

「次は、俺だ」と繰り返し、何もかもから怯えて逃げるようになった。


 侯爵は仕方なく輝明の話に耳を傾けた。

 事の発端は、学院で仲が良かった貴族の同窓生たちと肝試しと称して出かけた、古びた橋の上だった。


 その橋は数年前の大雨で氾濫し、朽ち果ててからというもの、夜間はとくに人が寄り付かなくなっていた。息子とその友人たちは悪ふざけ半分で酒を飲み、大声をあげ、欄干から小石を落としたり、騒ぎに騒いだらしい。

 その日は特に異変もなく、朝方に帰宅したあともいつもと変わらない日常が続くはずだった。


 最初に異変があったのは、子爵家の長男だった。

 屋敷前の街道で突如、「来るな……来るなああッ!!」と叫びながら、自ら馬車の前へ飛び出した。不幸にも馬車の車輪に衣服が絡みつき、そのまま引きずられながら数十メートルを走行。身体は四肢が引き裂かれ、原形をとどめぬほどに砕け散ったという。


 次に命を落としたのは、伯爵家の次男だった。

 深夜、理由もなく屋敷を抜け出した彼は、人気のない街角で無残な姿となって発見された。衣服は引き裂かれ、全身には明らかに性的暴行を受けた痕跡が残されていた。さらに腹部は深く裂かれ、内臓が散乱した状態だった。


 そして三人目、伯爵家の長男。

 ある夜、突如笑い声を上げながら目を覚ました彼は、自室の鏡の前で自らに刃を突き立てた。腕、胸、腹、喉──自分を刻むように刃を振るい続け、止めに入った使用人すら鬼のような力で突き飛ばしたという。最期には、満面の笑みのまま自らの喉を掻き切った。

 


「──あの男が、笑って、ずっと……こっちを見てる。俺を狙っている……」


 輝明は、誰もいない廊下をじっと睨みつけながら怯え続けた。まるで“そいつ”が、扉の向こうでずっと立っているかのように。

 侯爵は名のある精神医を呼び寄せたが、診断は平凡だった。

「友人達の一連の事件による心的外傷。うつ症状です」

 侯爵が望むままの、いわば“模範解答”だった。

──それでよい。それがいい。

 怪異などという曖昧なものに家名が巻き込まれるなど、絶対に許せない。



 しかし、何も変わらなかった。

 輝明の叫びはむしろ激しくなり、屋敷では不可解な現象が相次いだ。風もないのに扉が軋み、夜な夜な誰かの足音が廊下を渡る。まるで“もう一人の住人”が増えたかのように。

 侯爵はそれを認めようとしなかった。どんなに不吉なことがあっても、信じようとしなかった。信じてしまえば、今のすべてが崩れ去る気がしたのだ。彼の完璧な人生に、霊だの呪いだのという“貧民の迷信”が入り込む余地はない。それが侯爵の信条だった。

 だが、その信条すら少しずつ足元から揺らぎ始めていた。

 冷たい風が屋敷に吹き込むようになったのは、その頃からだった。まるで、この家の“誰か”が、すでに外の世界に足を踏み出してしまったかのように。

 侯爵の完璧な人生に、静かに影が差し始めていた。



 別の医者にも診せたが、輝明の症状は一向に改善せず、むしろ悪化するばかりだった。顔色は日に日に青白くなり、言葉は支離滅裂になり、時折誰もいない空間に向かって怯えたように身をすくめる。眠れぬ夜を繰り返すうち、輝明はやせ細り、もはや貴族の息子とは思えぬ有様になっていた。


 侯爵はさすがに頭を抱えた。

──なぜ、こうなったのか。

 己の完璧な人生に綻びが生じ、ついには、酒席で知人に愚痴をこぼすほどに追い詰められていた。すると、隣で杯を傾けていた友人が言った。

「ならば……霊媒師に見せてみては?」

「霊媒師?」侯爵は眉をひそめた。

「お前、正気か。あんなもの──まやかしにすぎんだろう」

「おやおや。侯爵ともあろうお方が、知らないとは驚きですね」

「まさか、息子をそんな胡乱な連中に預けろと?」

「もちろん、街角で呪符を売るような手合いではないですよ。だが──本物もいるんです」

「本物、だと?」

 友人はにやりと笑い、声を潜める。

「帝お抱えの霊媒師。ご存じでしょう? 一部の高位貴族の間では、有名な話です」

 侯爵は反射的に否定しかけたが──確かに、一度は聞いたことがあった。陰謀論のようにささやかれる、帝都の“裏の守り手”の存在。


 帝国内で起きる怪異を静め、邪を払い気の流れを正す。

 さらに、帝の命令一つで宮廷内の不浄を暴き、貴族の屋敷に巣くう“見えぬもの”を浄めにやってくるという──。

それが本当ならば、次男の件も、あるいは──……


「……名は?」

「高円宮、御影──とか言ったかな。確か帝族の親族だ」

 高円宮といえば、先帝の弟が当主を務める名門中の名門。侯爵はその名を耳にした瞬間、思わず眉をひそめた。

高円宮御影は、ある意味で社交界でも有名な存在だった。


 曰く、異国の血が混じる“混じりもの”だと。

 深い夜を思わせる艶やかな濃紺の髪。

 硝子細工のように透き通る肌。

 そして、光を吸い込むような濃紺の瞳は、ひとたび見れば忘れられないとさえ言われている。一目見たら畏怖を覚えるほどの美貌だ、とはかつての同窓生の話だった。

 帝国人離れしたその容貌は、噂を裏付けるに十分な説得力を持っていた。

 もちろん、それはあくまで“噂”にすぎない。なぜなら御影自身は社交の場に滅多に顔を出さず、その素性もまた、深い霧に包まれたままだからだ。

 帝国貴族至上主義を信条とする侯爵にとって、“混じりもの”など笑止千万である。霊媒師などという眉唾な肩書きだけでも受け入れがたいというのに──。

高円宮御影の名は、侯爵にとって到底認めがたい異物だった。




 侯爵は友人の話を半信半疑で聞き流していたが、もう悠長なことは言っていられなかった。

 なにしろ、あの輝明が仕事を休むようになったのだ。侯爵は信じられない思いだった。もともと、輝明の成績では到底及ばない職だった。それを無理やり文官の席にねじ込んだのは、この自分だ。お金と権力を惜しまず注ぎ込み、どうにか帝国政府の役職に滑り込ませた。輝明も、その事実を重々承知していた。だからこそ、怠け者ではあっても、仕事だけは決して休まなかった。

 それがいまや、布団から起き上がろうともしない。侯爵がいくら叱咤しても、ただ虚ろな目で天井を見つめるばかり。妻は泣き叫び、「どうにかしてちょうだい!」と喚き立て、長男の敬也も「情けない」と鼻で笑うだけだった。


 すべてに、もううんざりだった。

 侯爵はついに重い腰を上げ、動き出す決意を固める。

 くだんの話をした友人では公爵家に繋げる術もない。

 侯爵は、自らの人脈を総動員した。議会の重鎮、帝都警察の高官、軍部の上層部──使えるツテはすべて使い、金も惜しまずばらまいた。

その結果、ようやく“例の霊媒師”に辿り着くことができたのだった。


 


 指定された日時に訪れた公爵邸は、噂に違わぬ壮麗さを誇っていた。侯爵家の屋敷も、帝都でも指折りの邸宅と自負している。だが、それを優に凌駕する威容の前では、その誇りも小さく萎む。しかも、これが“本邸ではない”という。滞在用の邸がこれとは──侯爵は思わず舌打ちをこぼし、悔しさと苛立ちを無理やり呑み込んだ。そして、隣に立つ輝明をちらりと見やる。輝明は、紙よりも白い顔で館の扉を無言のまま見つめていた。

 家令が静かに頭を下げ、手慣れた動作で重厚な扉を開く。侯爵は黙ってその後に続いた。

 広々とした玄関の奥、ひんやりとした静寂が彼らを迎えていた。案内された廊下には、豪奢というよりも、洗練された上品さが満ちている。決して派手さはない。だが、壁紙の繊細な色合い、足元に敷かれた絨毯の目の細かさ、壁に飾られた絵画や花瓶の絶妙な配置、どれもが一流品だった。一見すると控えめ、だがその実、贅を尽くしている。それらを「当然のこと」として並べる空間に、侯爵は得も言われぬ不快感を覚えた。見せびらかすことすらしない。そうする必要すらない者たちの“余裕”。その在り方が、癪に障る。

 隣では、輝明がおどおどと肩をすぼめ、何度も後ろを振り返っていた。

 情けない。まるで薄汚れた小動物だ。こちらの顔を潰すようなその姿に、侯爵はまた一つ、苛立ちを募らせた。

 やがて家令が、一枚の重厚な扉の前で足を止め、静かにノックした。応じるようにして扉が開き、現れたのは一人の青年だった。侯爵の視線が、思わずその姿に釘付けになる。

 長身で、整った顔立ち。艶のある黒髪はきちんと後ろに流され、飾り気のない容貌には、研ぎ澄まされた気品が宿っていた。その装いも、ただの侍従にしてはあまりに上質だ。刺繍の一針一針に至るまで無駄がなく、仕立ても着こなしも堂に入っている。だが何より、ただそこに立っているだけで視線を引き寄せる、磨き抜かれた佇まい。ひとつひとつの所作に、無意識のうちに積み上げられた教養と品格が滲んでいた。


 ──まさか、彼が高円宮というわけではあるまい。

 おそらくは侍従のひとりか。そう思いながら、侯爵はちらりと背後を振り返った。侍従と、己の次男。本来であれば、比べることすら失礼にあたるはずの身分差だ。だが今、自分の背後で縮こまっている我が子は、その侍従の足元にも及ばぬほどみすぼらしく見えた。

 その事実が、またしても彼の神経を逆撫でする。

「どうぞ、お入りくださいませ」

 家令の声に、侯爵ははっと我に返った。取り繕うように笑みを浮かべ、一歩、部屋の中へと足を踏み入れる。

 

 応接室には、すでに一人の人物が腰を下ろしていた。

 青年──いや、“若者”という一語ではとても括りきれぬ気配を持った存在だった。

 煙管を手に、紫煙をくゆらせながら、ゆったりとこちらを見据えている。その姿に、侯爵は思わず息を呑んだ。


 驚くほど整った顔立ちだった。

 艶やかな黒髪は帝国人らしい深い色合いを保ちながらも、肌は雪のように白く、透けるほどに滑らかで、目元には冷たい陰が宿っている。

 とりわけ、深い二重に縁取られた濃紺の瞳は、どこまでも澄んでいて、なおかつ人間離れした静けさを湛えていた。

 その容姿は、あまりに均整が取れすぎている。

 帝国人にしては白すぎる肌と、はっきりとした目鼻立ち。

 一方で、あくまで帝国の血筋を示すように艶を帯びた黒髪。

 その対比が奇妙な妖艶さを生み、目を逸らせなくさせる。


 美しい。だが、それだけではない。

 この男には、単なる美貌では語りきれない何かがある。

 そう思った瞬間、侯爵は彼の目と正面からぶつかった。


 年の頃は二十に届くか届かぬか。それなのに、その目を見た瞬間、侯爵は思わず足を止めた。

 まるで老人の目だった。

 それもただの老人ではない。議場で百戦錬磨の討論を重ねた老練な政治家、修羅場を潜ってきた裁定者のような眼差し。冷静で、冷徹で、透徹している。そこに若者らしい曇りは一切なかった。長年を要して培われるはずの“見通す眼”が、今、侯爵と次男を淡々と測っている。

 不意に、その視線が次男に向けられた。その瞬間、次男の肩が小さく震えた。恐怖か、それとも本能的な敗北感か。侯爵は軽く咳払いをして、咄嗟に頭を下げる。

「突然のお願いをお受けいただき、誠に光栄です。侯爵家の嶋津田と申します。本日は、息子のことで……」

 口では丁寧に礼を述べながらも、侯爵の胸には居心地の悪さが満ちていた。この部屋に満ちる静謐な圧力、目の前の青年の只者ではない風格、そして怯える息子。そのすべてが、彼の歩んできた“常識”とは、決定的に違っていた。


 侯爵と輝明が着席すると、青年は煙管を口元に運び、紫煙をふうと静かに吐き出した。灰を受け皿に落とす仕草は優雅でいて、どこか冷たい。煙は空気に溶けるようにして消えていき、ようやく視線を侯爵たちに向けてくる。

 「高円宮 御影。高円宮家の次男で、帝直属の霊媒師を承っています。こちらは弟子の久世です」

 隣に控える男を顎で示しながら、無表情のまま告げる。言葉づかいこそ丁寧だが、節々に滲むのは、年若いくせにどこか人を見下したような、傲慢さにも似た風格だった。

 侯爵は顔では笑いながらも、内心で舌打ちする。

(何様のつもりだ。こちらは侯爵だぞ……)

 若造相手に怒りを露わにするのも品位に欠けると自制し、柔和な笑みを貼りつけたまま、これまでの経緯を語った。


 御影は終始無表情のまま煙管をふかしていた。本当に聞いているのかと疑いたくなるほどの無反応に、侯爵の胸に不安が募る。

「……以上の事情がありまして、高円宮殿にぜひ見ていただきたく、参上した次第です」

 御影はくぐもった声で「ふーん」と呟き、ふと輝明に視線を移した。

「おい。その幽霊は“知らないやつ”なのか?」

 問いかけは平坦で、底冷えするような声音だった。侯爵の眉がぴくりと動く。息子を“おい”呼ばわりとは、なんという無礼な若造か。

 輝明は怯えながらも、内心の苛立ちを隠しきれず、反射的に言い返す。

「……お前は、見えるというのか?」

 馬鹿にしたような乾いた笑みすら浮かべて。

 そのとき、傍に控えていた久世が音もなく一歩踏み出し、鋭い目で睨みつけた。

「御影様に対して、無礼な態度をおやめいただけますか」

 一気に空気が張り詰める。

「久世」

 御影が軽く手を振って制した。

「……失礼しました」

 久世は頭を下げたものの、目には今にも斬りかからんばかりの殺気が宿っていた。御影はふたたび煙を吐き出し、静かに言葉を紡ぐ。

「質問に答えよう。視える。お前の背後に、笑みを浮かべて立つ男──年は十代、黒髪短髪で痩せ型。濃い青の紋付き袴を着ている。平民じゃないな。……貴族の出だ」

 侯爵は思わず息を呑んだ。“男”とは言ったが、その容貌までは一言も伝えていなかった。だが、事前に輝明から聞いていた容姿と、高円宮御影が言う男の風貌が重なった。そのせいか、それを聞いた途端、輝明の顔から血の気が引き、喉を引きつらせるように鳴らす。

「……俺は知らない。見たこともない男だ……」

 御影はその返答に眉ひとつ動かさず、ただ静かに、輝明を見据えてもう一度問いかけた。

「本当に?」

「いい加減にしろ! 知らないと言ってるだろうが!」

 侯爵は怒りに任せて椅子を蹴り上げて立ち上がった。鋭い音とともに、久世が御影の前へと跳び出す。

まるで主を守る獣のような動きに、侯爵は思わずたじろいだ。

「久世、控えろ」

「……ですが」

 久世は御影を見つめ、そのまなざしに促されるようにしぶしぶと元の位置へ戻る。

「祓わなくても、あと数日もすれば消えますよ」と御影はさらりと言った。

「……なんだと?」

「思いを残した亡者は、願いを果たせば消える。その願いはもうすぐ叶うでしょう。あと数日、でしょうね」

「……あと数日も化け物と付き合えというのか!?」

「たった数日、ですよ」

 御影はにやりと笑みを浮かべる。まるで侯爵の怒りを楽しんでいるかのように。

「亡者の小さな願いを、ほんの少し聞き入れてあげることも、生者の務めでは?」

 侯爵は口を開きかけて、息を呑んだ。反論の言葉が出てこない。代わりに──

「もういい! この偽物め!!」

 怒りに任せて部屋を出ていく侯爵は部屋を出て行った。御影はその背を見送りながら、くすりと笑った。輝明はそんな様子をただ呆然と見ていたが、慌てて侯爵に続いて部屋を後にした。

 沈黙だけが残る室内に、ひっそりとたたずむ青年がいた。

 幽霊──青年は笑みを消し、感情のない目で御影をじっと見つめている。御影もまた、動じることなく青年の瞳を見返した。静かに時が流れる中、青年はゆっくりと御影から目をそらし、まるで風のようにすっと消えていった。


 残された室内で、久世が静かに呟く。

「……あいつ、殺しましょうか」

 笑顔は崩していないが、額には青筋が浮かんでいる。御影は煙管の火を落としながら、呆れたように言った。

「止めろ。腐っても侯爵だ」





 十日後。

 その日の午後も、雨は途切れることなく降り続いていた。激しさこそ和らいだものの、灰色の空から絶え間なく落ちる雨が、すべてを鈍く滲ませていた。


 館の扉が勢いよく開かれ、ずぶ濡れの男が怒鳴り込んでくる。雨音と共に響く怒声は、広間の静けさを切り裂いた。


「高円宮御影はどこだ! 輝明が死んだ! どうしてくれるんだ!!」


 背後で家令が慌てて止めようとするが、怒りに押され押し戻される。怒号の声の主──侯爵の声は震え、唇は切迫し、目には血走り、抑えきれぬ悲痛と憤怒が渦巻いていた。

 その怒声が広間に響き渡る中、御影は窓辺に腰掛け、雨だれが石畳に跳ねる様子をぼんやりと眺めている。視線は動かず、振り向く気配すらない。


「……死因は?」

 ようやく背を向けたまま静かに問う声は、感情を込めない静謐さを湛えていた。

 侯爵は息を荒げ、言葉を噛みしめながらも続ける。

「数日前の、雨の夜だ。あいつが突然『出かける』と言いだして、護衛もつけずに出て行ったそうだ。行方がわからなくなり……知らせを受けて、仕事を放り出して駆けつけたが……」

 喉を震わせ、声が詰まる。怒りと悲しみ、どちらともつかぬ混じり合った感情が、肩の震えに表れていた。

「川で、遺体となって発見された。例の橋から飛び降りたらしいが、大雨で川は増水し、発見が遅れた。流された距離も長く、腐乱が進んで顔すら分からなかった。……妻は、それを見て気を失ったんだ!」

 侯爵の叫びは館内に木霊し、響く雨音に掻き消されることはなかった。

「貴様が──あのとき何もしなかったからだ!お前のせいで、うちの息子は……!」

 御影はゆっくりと立ち上がり、窓の外から侯爵へと視線をうつす。冷たい目が侯爵を捉え、わずかに首を傾げた。

広間には静かな雨音だけが響く。


「違うな。……過去の罪を精算しただけだ」


 侯爵の怒りが頂点に達し、肩を震わせながら叫び返す。

「何……だと?」

 御影はそれを完全に無視し、静かに問いかけた。


「清水宗一郎という名の男を、ご存知ですか?」

「なんの関係がある!? 今は息子の話をしているんだ!」

「関係があるから聞いている。ご存知ですか」

「知らん! そんな名の男など──何なんだお前は!」

「本当に、知らないんですか?……侯爵、よく思い出して」

 御影の言葉に、侯爵は苛立ちを隠さず記憶を辿ってみたものの、男の名前に聞き覚えはまるでない。

「……知らん!」

 御影は大きくため息をついた。そして、一歩後ろに控えていた久世を呼ぶ。

「久世」

「はい」

 久世は手元の封筒を侯爵へ差し出す。侯爵は渋々それを受け取り、中の資料に目を通す。数秒──徐々に、その顔から怒気が引いていった。

「……なんだ、これは……?」

「あなたの息子、そしてその友人たちがまだ学生だった頃、同窓の中に男爵家の一人息子、清水宗一郎がいた」

 御影も資料を手に取りながら語る。

「何が気に入らなかったのかは知らないが、あなたの息子たちは、彼に対して執拗な虐めや暴行……いや、もはや犯罪行為を繰り返した」

 侯爵は黙ったまま資料に目を落とす。ページをめくるたびに、目の焦点が揺れる。御影はそんな侯爵の様子を横目で見ながら続けた。

「暴言、窃盗、恐喝、暴力……性的な嫌がらせまでか」嫌悪感たっぷりに「──反吐が出る」と吐き捨てた。

「知らないとは言わせない。何度もあなたが金を握らせて揉み消した記録が残っている。学校も学校だな。侯爵の顔色を伺って、黙殺した」

 侯爵の手が、資料を握りしめる。

「それでも、清水は懸命に耐えた。名誉を汚され、尊厳を踏みにじられてもなお、耐え続ける彼の心を折るために……あなたの息子たちは──」

 侯爵の目を見据えながら言った。

「彼の妹に目をつけた。そして……彼女の名誉を汚したんだ」

 御影は侯爵から目を離さない。侯爵は微動だにしない。いや、恐怖に囚われ動けなかった。

「当時十五歳の少女に、複数で手を出すなど──外道以下だな」

 御影の淡々とした声に、静かな怒りを感じるのを侯爵は察し、震えた。御影はようやく侯爵から目を離し、窓枠に背を預けるようにそっともたれかかった。


「当然、妹は心を病んだ」

 静まり返った室内に、雨の音だけがしとしとと響く。

「──清水は、自分のせいだと責め続けたんだろうな。自責の念に耐えきれず、ついに……命を絶った。ああ、あなたの次男と同じ橋から身を投げたんだよ。今から六年前のことだ。分かるか?」

 御影は窓の外を見つめながら言った。その背を、侯爵はただ呆然と見つめていた。喉の奥がひりつき、息を吸うことさえ苦しい。まるで、何かを否定しようとする理性と、突きつけられた事実との狭間で、心が裂けそうだった。

「……なぜ、そんなことを……なぜ今更……!」

「今更?」

 御影はわずかに首を傾げた。その声音には、皮肉とも嘲りともつかない薄い響きがにじんでいた。

「今年は七回忌だ。故人が迷いの狭間を抜け、魂がこの世に干渉できる年。──彼は、願いを果たすために戻ってきた」

 御影は唇の端に美しい微笑を浮かべた。

「願いを叶えたから消えただろ?」

 その笑みは見る者すべてを魅了するだろうが、侯爵には胸の奥を冷たく締めつけられるように感じられた。身をすくめて震える声で、なんとか抗議の言葉を紡ごうとした。

「知っていて……分かっていて……なぜ止めなかった! どうして息子を助けなかったんだ!!」

 御影は侯爵を見下ろし、感情の読めない静かな目を向けた。

「じゃあお前は、助けたのか?」

 その声は、鈍く冷えた刃のように、容赦なく侯爵の胸に突き刺さる。

「清水が殴られたとき、妹が泣き叫んだとき──『やめて』『助けて』と、彼らは言ったはずだ。だが、お前たちは止めなかった。ご丁寧に隠蔽までしてな。……どうして俺に助ける義理がある?」

 侯爵は、膝を崩して座り込んだ。窓際から御影はゆっくり近づき、侯爵の前で腰を落とし、目線を合わせる。


「お前の息子たちは、自分の罪の報いを受けただけだ。……お前も、報いを受けなければいいな。侯爵」




 侯爵は魂が抜けたような顔で立ち上がり、ふらふらと廊下の奥へ消えていった。来たときとはまるで別人だった。御影は資料を机に投げ出し、ひとつ息をついた。煙管に火をつけると、再び窓辺へ歩み寄る。

 そこには、濃い青の紋付袴を着た青年が静かに佇んでいた。──清水宗一郎だ。

「……思いは、果たせたか?」

 青年は、ほんのわずかに首を横に振る。御影は一つ煙を吐き出し、ふっと笑う。

「そうか。じゃあ、思いを果たしたときにまた来ればいい。これも何かの縁だ。……見送ってやるよ」

 青年の姿は、風に吹かれるようにすっと消えた。雨の音だけが、変わらずしとしとと響いている。

 久世は、窓辺に腰かけたままの御影をそっと見やる。侯爵が現れる前と何ひとつ変わらぬ表情には、やはり心の内は読み取れなかった。

「……後悔、されてますか?」

 何とはなしにこぼした問いに、御影はゆっくりと視線を向ける。気だるげな目が久世を捉え、わずかに口元が緩んだ。

「俺は、殺人者を救うほど聖人じゃない」

 それは弁解でも、開き直りでもなく、ただの事実の提示だった。

 久世は、御影の手をそっと取り、自分の両手で包み込む。長く窓辺にいたからか、ひんやりと冷たい。自分の体温を分けるように、ゆっくりと指先をさすった。


 ええ、そうですね。

 亡者か生者かに関係なく、あなた(御影様)はその信念でもって手を伸ばす。たとえ自分が、傷だらけになるとしても……

「……そんな御影様だからこそ、私は崇拝してやまないのです」

 御影は少しだけ目を見開き、煙管をくゆらせた。煙の向こうに何を思ったのか、小さく息を吐く。

 雨は、まるで誰かが泣いているかのように、静かに──いつまでも降り続けていた。




 


 後日、帝からの召しに応じて、御影は宮中を訪れていた。

 差し出された茶は、選び抜かれた上級品。並べられた菓子も、手毬のように美しく練り上げられた和菓子ばかり──いずれも帝の好物である。


「やあ、待たせてすまなかったね。……狸がうるさく鳴くものでね」

 帝は相変わらず気軽な調子で姿を現した。御影は静かに礼をとる。

「いいえ。……それほどお待ちしておりません」

 帝は控えの者を下がらせると、軽やかに笑って言った。

「いいから、いつも通りにしてよ」

 彼らは従兄弟同士で、同じ年に生まれた幼なじみ。幼い頃から顔を合わせ、学び舎でも机を並べた仲だ。本心をさらけ出せる、唯一無二の関係である。

 今日の御影の来訪は、調査の報告のためだった。

 侯爵からの正式な依頼がなかったとはいえ、貴族の令息が不可解な死を遂げた件について、帝は疑念を抱き──密かに御影へ調査を命じていたのだ。

 報告を聞きながら、帝はふと苦笑を漏らす。

「それにしても自分が虐めていた子の顔を忘れるか?」

 御影は低く返す。

「あれは演技じゃない。本気で忘れていたんだろう。……虐められた側は、一生─…死んでも忘れないってのにな」

 帝はしばし黙し、視線を斜め上にさまよわせる。

「……やるせないよねえ」と、静かに呟いた。

 御影は傍らに控える久世に、目で合図を送る。久世は頷き、一冊の資料を帝の前へと差し出した。

「お、番犬くんは今日も変わらず優秀だね」

「帝、久世は玩具ではありませんので」

 御影は茶を口に含みながら、冷ややかに諫める。帝は笑いつつ資料を手に取り、ページをめくる。

「で、これは何かな?」

 興味深げに目を細め、読み進めるうちに、ふっと口元が緩んだ。

「──へえ、君が内政に口を出すなんて、珍しいこともあるもんだ」

「別に。ただ、たまたま証拠が手に入っただけです」

「ふうん。たまたま、ねえ?」

 帝は相変わらずの笑みを浮かべながら、資料をパラパラとめくっていく。

「税の不正に賄賂、反対派閥への恐喝……挙げたらキリがないけど、これは降爵は免れないね」

 御影は何食わぬ顔で、茶を静かに口に運んだ。

「深くは突っ込まないでおくよ。ありがたいし。侯爵は調子にのって勢力を伸ばして、議会でも厄介だったからね。目障りだった分、助かったよ」

「……まあ、これからもっと落ちぶれるでしょう」

「ずいぶん断定的じゃないか」

 帝は楽しげに笑う。

「侯爵には最強の神がついてますから」

「え? それなら逆じゃない?」

 首を傾げる帝に、御影は静かに微笑んだ。


 清水宗一郎──彼は、元凶の父親を決して許しはしないだろうから。


「ところでさあ、面白い話があるんだけど、聞いていかない?」

 帝の明るい声が、御影の思考を引き戻した。いつの間にか資料を閉じ、にこやかにこちらを見ている。

「いえ、遠慮いたします」

 帝は小さく肩を落とし、わざとらしくため息をついた。それでも諦めきれない様子で、茶を一口含んでから続ける。

「祟りを引き起こす、真っ黒い木があるんだってさ」


 面倒事の予感がする。

 御影は黙って茶を飲み干し、丁寧に湯呑を置くと静かに立ち上がる。

「申し訳ございませんが、これにて御前失礼いたします」

 帝が何か言いかけた気配を背に受けながら、御影は一礼し、足音も静かにその場を後にした。



 


***


 馬車の揺れに合わせて、カラカラと車輪の音が石畳に響く。

 御影は煙管をふかしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

「……まったく、いつも面倒事を押し付けようとしてくる」

 そう悪態をつく声には、どこか呆れと諦めが混じっている。久世は隣で小さく苦笑した。

「ところで、この馬車はどちらへ向かっているのですか?」

 御影は一つ煙を吐き出し、答える代わりに目を閉じた。

「……行けば分かる」

 それだけを残し、再び口を閉ざす。御影に言う気がないのを悟った久世もそれ以上聞くのをやめた。


 やがて馬車が辿り着いたのは、帝都の喧騒から少し離れた、緑に囲まれた静かな療養施設だった。訪れる者も少なく、時間が止まったかのような静謐な空気が、あたりを包んでいた。

 案内された一室には、一人の女性がベッドに横たわっていた。頬はこけ、目の焦点は定まらない。御影が入ってきたことにも気づいていない様子だ。

 彼は言葉を発さず椅子を引き、ベッドの脇に腰を下ろした。しばらくの間、沈黙のまま彼女を見つめる……どこか、あの青年に似ている気がした。

「……あなたのお兄さんは、あなたと自分の仇をとりました。常識では許されないことかもしれませんが──俺は、彼の覚悟に敬意を払いたい」



 その言葉に、女性の目元から涙がひとすじ零れ落ちた。

 それは言葉では返らなかったが、確かに彼女の心に届いた証だった。






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