アイサイドH、I
「い、今は誰もいない……よね?」
アイHは周囲に人がいないことを確認してから、校舎の陰に隠れて今は使われていなさそうな、レンガ造りの花壇の縁に腰を下ろし、隠し持っていた香水を嗅ぐ。
自然の花の香りも好きだが、やはりこういった香水やお香の方が、身体の持ち主は好きだったらしい。
心安らぐ香りで落ち着いたところで、お弁当を広げた。
この身体の持ち主に、友人と呼べるような存在はいない。
中学生の時に酷いいじめにあっていたこともあるが、間の悪いことに、高校の入学式から1週間ほどインフルエンザで休んでしまい、やっと高校に行けるようになった時にはもう、友人を得る機会を完全に失っていたからだ。
いや……仮に休んでいなかったとしても、この引っ込み思案の身体の持ち主が、自ら友人を作れるとは思わないのだが。
しかも最近、中学時代のいじめっ子まで同じ高校に入学していると知り、今は自分の存在がバレないよう、細心の注意を払って生活している状況ときている。
今のところ別のクラスなのでバレていなさそうだが、3年間逃げ切るのは至難の業だろう。
「まあそりゃ、ゲームに逃げたくもなるか……」
自分もゲーム世界から逃げてきた身なので、身体の持ち主の気持ちが少し分かる。アイHには仲間がいたが、彼女にはそれすらいないのだから。
実のところ、今は暇さえあればスカオーの世界に顔を出すようになっていた。
「はぁ~……昨日は楽しかったな……」
平日だったので朝と、授業の合間の休み時間しか参加できなかったが、桜ウパぺんとして花畑の香りづけを担当させてもらえたのは、本当に嬉しかった。
こちらの世界にはいない味方が、ゲーム世界になら大勢いるというのも大きい。
これを食べ終わったらまた、スカオーの世界に顔を出そう……。
アイHは、あれほど逃げ出したかったゲーム世界の方が、ここより居心地が良いと思い始めていた。
「へえ、あんたもこの学校に来てるって知ってたけど、こんなところにいたんだ」
お弁当の半分ほどを食べたところで、ふいに声を掛けられ、アイHは顔を上げる。
水の入ったバケツを手に持つその声の主が、身体の持ち主にとって最も会いたくなかった人物……いじめっ子だと認識した瞬間、驚いて立ち上がったので、食べかけのお弁当は地面に落ちてしまった。
周囲に気を配っていなかった自分を呪う。
この場所は袋小路なので、逃げるにはこの、いじめっ子の脇をすり抜けるしかない。
「ほんと目ざわり。何でまだいるのよ? 人の彼氏に色目使ったくせにさぁ」
「ひっ! し、してません……!」
真実そんなことはしていないのだが、相手の彼氏とやらが勝手にこの身体の持ち主の顔に惚れて、言い寄られたのがまずかった。
勿論、そんな男に言い寄られて頷けるはずもなく、彼女は早々に断っているのだが、いじめっ子の方は彼氏に捨てられたままなので、それ以来こんなことになっている。
だからアイHとしても、やっていないことはやっていないと答えるしかないのだが、相手が聞き入れたためしはない。
「うるさいっ! ブスで鈍間なくせに……あたしの幸せ、ぶち壊したくせにっ!」
バケツの水をぶちまけられ、咄嗟に避けたが避けきれずに、身体の左半分が水浸しになった。続いて相手が平手打ちの姿勢に入ったので、
「いやぁあ゛ああ゛ぁ!!」
アイHは悲鳴をあげて、身を縮める。
だが意外なことに、衝撃は来なかった。
「乱暴っスねぇ。そりゃモテないっスよ」
何とアイHとあまり身長の変わらなさそうな男の子が、校舎の窓からヒラリと飛び出し、あっという間にいじめっ子の腕を掴んだからだ。
「あんた誰よ!? あたしはただ、花壇に水をあげてただけなんだけど!?」
「その子のクラスメイトっス!
っていうか、すごい言い訳っスね。バケツで水やりってだけでもアレなのに、花壇にほとんど水かかってないっスよ?」
「手元が狂ったのよ!」
「この振り上げた手もっスか? ついでに言うと、『人の彼氏に色目使ったくせに』あたりから全部聞こえてたッス」
いじめっ子より背が低いのに、この男の子は怯むことなく、そう言ってニヤリと笑う。
いじめっ子は乱暴に腕を振りほどき、今度は男の子の方に平手打ちしようとしたが、彼はあっさりそれを受け流した。
何らかの武術による身のこなしだろうと、アイHにも分かるほどに。
「……ちっ!」
敵わないと悟るや、いじめっ子が逃げ去ったので、アイHはようやく恐怖から解放され、自然と涙があふれ出した。
涙を拭うことも忘れ、のろのろと泥まみれの弁当箱を片付け始める。
「大丈夫……じゃないっスよね。ちょっと待つっス!」
来た時と同じように、また窓からひょいと校舎に入った彼は、今度は手にタオルと大きなレジ袋を持って戻ってくる。
「体育の授業で使うつもりで持ってきたっスけど、まだ使ってないから遠慮なく使うっス!」
そう言ってまず、タオルを差し出した。
おずおずと受け取り、身体を拭き始める。その洗いたてのタオルから、僅かに柔軟剤の香りがし、少しだけ心が軽くなった。
「あ、あの……助けてくれてありがとう」
途中でまだお礼を言っていなかったことに気づき、慌てて言うも気にした様子はなく、
「パンはどれが好きっスか? 色々あるっスよ!」
レジ袋の中身を漁りつつ、そう聞かれた。
「そ、そこまでされるのは……」
「遠慮することないっスよ。隣の席なのに、久里さん休み時間のたびにスマホ触ってるし、昼休みはいつも教室にいなくて中々話す機会なかったから、お近づきの印も兼ねるっス!」
だが彼はニコニコ笑ってそう言いながら、レジ袋の中身を見せた。
言われてみれば確かに、自分の前の席に座っている男の子だった。
いつも笑っている人なので悪い印象はないが、住む世界が違うように感じて、まともに顔を見ていなかったのに……こんな自分と仲良くなりたいだなんて。
出席番号順の席だから、名前は確か……
「あ、ありがとう……清田くん。じゃあ……メロンパンにする……」
「1つだけっスか?」
「は、半分はお弁当食べてるから、そんなに入らないよ……。あの、タオルは洗って返すね……」
何とか今後の授業を受けるのに問題ない程度には綺麗にできたので、メロンパンを受け取り、1口齧る。甘い香りと味がまた少し、心を落ち着かせてくれた。
それを見て満足したのかニヤリとし、彼もまた焼きそばパンを頬張る。ほんの3口ほどで食べきり、次の卵サンドに手を伸ばした。
「ところで、いつもスマホで見てるのって、もしかしてスカオーのオフライン版っスか?」
「えっ!?」
「懐かしい音楽だったから、そうかなーとは思ってたんスよ! 俺もスカオーやってたんスけど、中学には同じゲームしてる人いなかったから、そうだと嬉しいっス!」
考えてみれはスカオーは人気ゲームだったので、そういうことはあり得るのだが、不意打ちすぎた。
いくら何でも、学校で見るべきものではなかったかと警戒していたが、
『それと俺、武士ウパぺんとして休暇に参加してたんスけど、もしかしてゲーム世界で合わなかったっスか?』
一瞬、何故そんなことを言うのかと思ったが、それがスカオー語だったことに気づき、アイHは目を丸くする。
『え、えと……桜ウパぺん、です……』
『やりぃ! また仲間のアイを見つけたっス!』
仲間とこんな再会をするとは思わず、ようやくスカオー語でそう答えると、アイIは満面の笑みでガッツポーズした。
『実は3年の先輩にも、ゴールデンウパぺんとサマーウパぺんがいるんっス。後で紹介するっスよ!
それとこれからは、教室でも声かけていいっスか?』
アイHもまた、ようやくこちらの世界でも仲間に出会えたことに安堵し、笑みがこぼれた。




