アイサイドA
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「時々現実の世界から、君たちの様子を確認するからね。じゃあ!」
そう言って私たちはアプリを閉じることで、ようやくスカオー世界との繋がりを遮断した。
アイたちは元々1つの意識から生まれたものだが、さすがに器が完全に分かれてしまうと意識の共有が難しくなるため、ここからは各々が自由を楽しむことになっている。
「ここが……彼らの世界……」
アイAが宿ったのは、ぽっちゃり系の壮年女性の身体だ。その身体に残された記憶を読み解くことで、ここがその女性の自宅だと知る。
試しに身体を色々と動かしてみるが、特に問題はなさそうだ。とはいえステータスが表示されるわけではないし、ワープもチャットも使えないので、間違いなくアイAにとってここは異世界だった。
「何だろう、これ……凄くいいな……」
身体の記憶から、それは匂いと呼ばれるものだと知った。匂いの元は土や他の生き物など様々だが、この女性は庭で花を育てていたので、そこから甘い香りが漂っていたのが特に気に入った。スカオー世界だと、花はあっても匂いはないので、新鮮な感覚だ。
ああ、ここには安らぎが普通にあるんだなと、アイAは感じた。スカオー世界は、常に命のやり取りが発生するので、こんな風にただぼんやりできる機会はない。
と、その時、アイAに小さな生き物がリードを咥えて近づくと、尻尾を大きく振った。
一瞬雑魚の魔物かと思ったがそうではなく、共に生活している「犬」という生き物らしい。どうやらこの時間に、散歩するのが日課になっていたようだ。
一瞬中身の入れ替わりにバレるかもしれないと思ったが、その犬は少し首を傾げただけで、特に吠えることもなかったので、求められるままに一緒に外に出た。
太陽の日差し、柔らかな風、大地を踏みしめる感触……そのどれもが新鮮で、つい見とれてしまう。
「そう言えばここには、決まった音がないのね……」
効果音がメインというか……色々なところから、色々な音や曲が流れているからだ。足音さえも1つではないことに感動してしまう。
これがスカオー世界なら、効果音は「風の音」や「雨の音」のように、1つの決まったくくりしかないし、エリアごとに決められた音楽が流れるし、何かがあればその時の雰囲気に合わせた音楽に勝手に変わってくれるので、不思議な感覚だ。すぐそばの線路を電車が走り抜けた風で、髪が大きくなびくのも、初体験だ。
「あれは……この世界のワープ手段かな……?」
大勢の人が押し込められた大きな鉄の箱が、いくつも連なって通り過ぎるのを見て、移動すらも一人で一瞬ではできないのか、と思う。不便ではあるが、自分の力で歩く移動も悪くない。まあ、歩くだけでHPが徐々に減るのは微妙だが。
……そう言えば誰も、武器も防具も所持していないように見える。どうやらここは、そんなものは必要ない世界らしい。
なのにどうして、この身体の持ち主は、スカオーの続編がしたいと強く願ったんだろう? こんなに平和だと、命のやり取りをしてみたくなるのだろうか?
だが記憶を読み取ったところそうではなく、どうやらこの女性の場合、人と気軽に関われる場所がスカオーだったようだ。
それならそれで、スカオーじゃなくても良さそうだが……こだわる理由までは、アイAにはよく分からない。
そうこうしているうちに、いつも散歩で向かっているらしい河川敷に到着する。少し疲れたので、手ごろなベンチに腰を下ろした。犬の方はまだまだ元気で、蝶を追いかけて遊んでいる。他にも10歳前後の子供たちが数人で、ボール遊びをしていた。
「スカオー世界にも、こんな平和がくればいいのにな……」
そう信じて頑張った過去を思い出したが、すぐに頭から追い払う。ここにいればもう、戦う必要はないのだからと。
と、その時、大きな水音と子供たちの悲鳴が聞こえた。その方向を見る。
先ほどまでボール遊びをしていた子供のうちの一人が川に転落し、船着き場に繋がるロープを辛うじて掴んでいる状態だった。
最初に思ったのは、どうしてすぐに川から上がらないのだろうということだったが、すぐに思い至る。きっと、その手段がないのだ。
最初はアイAだけがそうなのかと思ったが、他の人のステータスも見えないところから、この世界ではそれが当たり前である可能性が高い。
だとしたら……戦闘エリアでもないのに、戦闘不能になり得る? 蘇生もできないかもしれない?
それに気づき、アイAは走り出した。思ったほどうまく走れず、足がもつれそうになる。スカオー世界なら体格に関係なく、素早く動けるのに!
もどかしく思いながらも、何とかその子供に繋がるロープを掴み、力いっぱい引いてみる。まるで引き上げられそうにない。
そうだ、スカオー世界でも一人では戦えなかった。つまり今必要なのは……。
「誰か助けて! 誰か!」
この世界にワールドチャットはないので、アイAは思い切り叫んだ。スカオー世界のエリアチャットくらいの範囲には届くだろうか……いや、確実ではないかもしれない。
「誰かを呼んできて!」
すぐにアイAは子供たちにそう指示する。アイAの言葉で、弾かれたように子供たちは色々な方向に走り出した。すぐに何人かの大人が集まり、ようやく無事に子供が救出される。
しばらくは動けないほど、疲れていた。手もまだ震えている。手のひらはロープを引いたときの摩擦で、血がにじんでいた。犬が心配そうにアイAの頬をなめる。
少しずつ落ち着きを取り戻したことで、今度はこれまでに感じたことのないもの……空腹や喉の渇きを覚えた。
「こんなに無力で……ただ過ごすだけでも大変なのね……」
スカオー世界の常識は、ここでは通用しない。それが痛いほど分かった。確かに魔物に襲われる心配はないが、自然回復がスカオー世界と比べると格段に遅い。普通に生活していても戦闘不能になる可能性があるとなると……油断はできない。
「まずはこの身体をもっと動かせるようにしないと。それから……」
この世界で生きる術を、早急に知らなければ。そう、アイAは感じていた。
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