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朝もやの立ち込める呉港。防波堤の突端に、一人の人影があった。


「今日こそは!」


波多江瑠璃は、ウェットスーツに身を包み、瀬戸内海に向かって両手を広げる。


「ルールールールールー!」


彼女の声が、静かな朝の港に響く。古いテレビドラマで見た、キタキツネを呼び出す魔法の掛け声。それが、なぜかイルカにも効果があると、彼女は確信していた。


すると、波間から銀色の背びれが姿を現す。


「キュー、キュー」


痛々しい鳴き声が、波多江の胸を締め付ける。


「わかっているわ」彼女はそっと防波堤を降り、イルカに近づく。「見せて」


イルカは、まるで人の言葉を理解したかのように、胸ビレを持ち上げた。そこには大きな釣り針が刺さっている。


波多江は慎重に、しかし的確な動きで釣り針を取り除いた。イルカは何度も振り返りながら、お礼とも喜びともつかない鳴き声を上げ、沖合へと消えていった。


「よかった」


彼女が防波堤を歩き始めたその時、必死の形相をした二人の男性が走ってくるのが見えた。


「波多江ー!」

「波多江さーん!」


「あ!」彼女は満面の笑みを浮かべる。「榊原さーん!霜島さーん!」


波多江は両手を広げて榊原に向かって駆け出す。しかし、


「うぐっ」


榊原は彼女の頭をわしづかみにして、その動きを制した。


「波多江君」榊原の声が震える。「君は一体...」


「そのウェットスーツ、どこから?」霜島が心配そうに尋ねる。


「ああ、これ?」波多江は得意げに答えた。「防衛省の友人から借りたんです。彼、キャリア組の」


「借りた?」榊原の声が一音一音重くなる。「借りた?間違いないんだな」


「もちろんです!」


榊原は深いため息をつき、霜島に向き直った。


「誤解でも、会話の中で齟齬が生じたでもいい。とにかく波多江君の言う通り、許可は取ったんだと、言い張って...いや、そのように先方に伝えてくれ」


「わかりました」霜島は神妙な面持ちで頷く。


波多江は首を傾げたが、すぐに明るい声で話し始めた。


「榊原さん!イルカが...」


「駄目だ」榊原は再び彼女の頭をわしづかみにする。「お父上に教わったよ。度を越したら"せっかん"が有効だと」


「せ...せっかん?」波多江の顔が見る見る青ざめていく。


「いやーーーーーーー!」


彼女の悲鳴は、広大な瀬戸内海に吸い込まれていった。朝もやの向こうで、救助されたイルカが最後の別れのように尾びれを振る。それは、まるで「ごめんなさい」と言っているようにも見えた。

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