八
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京都大学農学部の一室。窓から差し込む午後の光が、書架に並ぶ専門書の背表紙を柔らかく照らしている。
「博士、あなたの専門家としての助言を頂戴したく参りました」
榊原は、白髪の温厚な男性の前で静かに頭を下げた。波多江修一郎博士。農学界の重鎮であり、特に植物の環境適応メカニズムについて、数々の重要な研究成果を残している。
「ほう」博士は穏やかな笑みを浮かべた。「特異な生物個体の管理についてですか」
「はい」榊原は慎重に言葉を選ぶ。「極めて稀有な...研究特性を持つ個体の、適切な育成環境について」
「なるほど」博士はわずかに目を細める。「その個体の特徴を、詳しくお聞かせ願えますか」
「極めて高い知的能力を持ち」榊原は真剣な表情で説明を始めた。「独自の研究手法で驚くべき成果を出す一方で、基本的な...生活リズムの管理が」
「睡眠時間は平均2時間程度ですか?」
榊原は驚いて目を見開いた。
「あ、その通りです。また、栄養摂取に関しても」
「カップ麺とイワシの刺身が主食」博士は静かに頷く。「そして、突発的な実験衝動が」
「博士」榊原は息を呑む。「もしかして」
「ああ」波多江博士は、少し疲れたような、しかし確かな愛情を含んだ微笑みを浮かべた。「瑠璃は小学生の頃から、サナギの観察と称して三日間寝ずに実験を続けたことがありましてな」
部屋が静かになる。
「難しい娘で、申し訳ありません」博士は深々と頭を下げた。
「いえ」榊原は慌てて否定する。「波多江君の研究は、素晴らしい成果を」
「ただ」博士は穏やかに続けた。「彼女の『マグロ実験』は、さすがに初耳でした」
「え?」
「先日、瑠璃から興奮した様子の電話がありましてな」博士は懐かしむような表情を見せる。「小学生の時はカブトムシ、中学では金魚、高校ではウサギでしたが...まさかマグロとは」
榊原は言葉を失う。
「ですが」博士は静かに付け加えた。「彼女の『型破り』な手法は、常に本質を捉えています。カブトムシの研究は学会誌に載り、金魚の観察は新種の寄生虫の発見に」
「はい」榊原は思わず微笑む。「確かに、波多江君の理論は」
「ただ」博士は少し心配そうな表情を見せた。「次はシャチを使うと言っていたのですが」
「それは阻止しました」
「そうですか」博士は安堵の表情を見せる。「しかし、瑠璃のことです。きっと別の...」
その時、博士の携帯電話が鳴った。画面を見た博士の表情が変化する。
「すみません」博士は申し訳なさそうに電話を見せた。「瑠璃からです。『イルカの件で重要な発見が』と」
二人は顔を見合わせ、思わず苦笑する。
「本当に」博士は深いため息をつきながら、しかし確かな誇りを含んだ声で言った。「難しい娘で、申し訳ありません」
窓の外では、京都の古い街並みに夕暮れが迫っていた。そして博士の携帯電話には、新しい実験のアイデアに興奮した娘からのメッセージが、次々と届いていた。




