六
六
その日の実験室は、いつもより静かだった。
榊原と霜島が扉を開けたとき、思いがけない光景が目に飛び込んでくる。実験用の大型モニターの前で、波多江瑠璃が目を閉じ、柔らかな表情で、少し上を向いていた。そして、その唇が、かすかに突き出されている。
完璧なキス顔だった。
二人は思わず立ち止まった。波多江は気づいている様子もなく、時折、首を少し傾げながら、その仕草を繰り返している。白衣の裾が実験室の僅かな空気の流れで揺れ、その姿は、まるで水中で優雅に泳ぐ人魚のようだった。
榊原は思わず目を見開いた。今まで気づかなかった。波多江の長いまつげ、整った鼻筋、そして柔らかな唇の曲線。いつも数式や実験データに埋もれていた彼女の、女性としての美しさが、突如として彼の心を打った。
横で霜島が小さくため息をつく。榊原が目配せすると、霜島は少し困ったような、でも誇らしげな表情を浮かべてうなずいた。その目が「私は知ってましたよ」と語っているのは明らかだった。
波多江は、まだ二人の気配に気づいていない。彼女は時折、小さな首の動きを加えながら、その愛らしい仕草を続けている。実験データを確認する時の真剣な表情とは全く異なる、夢見るような柔らかな表情。
霜島が思わず咳払いをしかけたが、榊原が慌てて制止の仕草をする。
波多江の白衣のポケットからメモ帳がこぼれ落ちた。その音で、彼女はゆっくりと目を開く。
「あれ?榊原さん?霜島さん?」
彼女は二人の存在に気づき、少し目を丸くした。そして、自分が何をしていたのかを理解した瞬間、顔が見る見る上気してくる。
「あ、その、これは」波多江は慌てて言葉を探し始めた。「深海生物の、えっと、口の形の研究を。マグロの、その、水流と圧力の...」
彼女の声が徐々に小さくなっていく。頬は見る見る桜色に染まっていった。
「波多江君」榊原は優しく、でも少し意地悪な笑みを浮かべながら言った。「マグロの口の形を研究するのに、目を閉じる必要があるのか?」
「それは...」波多江は完全にパニックに陥ったように、実験データが並ぶモニターを必死で見つめる。「圧力計測の、その、感覚的な...」
霜島が思わず吹き出しそうになるのを必死で抑える。
「私、ちょっとトイレに!」
波多江は真っ赤な顔で実験室を飛び出していった。その背中が、まるで実験データのグラフのように激しく上下動している。
実験室に残された二人は、しばらく沈黙を守った。
「榊原さん」霜島が静かに、でも決意を込めた声で言った。「私、波多江さんのことを」
「分かっている」榊原は深いため息をついた。「だが、霜島君」
「はい?」
「私も、気づいてしまった」
二人は複雑な表情で顔を見合わせた。そして、実験室の扉の向こうから、波多江の取り乱した声が聞こえてくる。
「あ、あの!やっぱり説明が!深海生物の筋肉の収縮と、その、キスじゃなくて、えっと、圧力で...」
実験室に、科学とは全く異なる、不思議な緊張が漂い始めていた。




