五
五
深夜の実験棟に、奇妙な光景が広がっていた。
「圧力チャンバーの準備、完了」
「データロガーの初期化、確認」
「生体センサー、オンライン」
波多江、榊原、霜島の三人が、まるで潜水艦の発進準備のように、次々と声を掛け合う。実験水槽の中では、人魚型推進装置の四分の一スケールモデルが、初めての全出力テストを待っていた。
「波多江さん」霜島が不安そうに尋ねた。「本当にこの時間に実験を」
「はい」波多江は画面に映る数値を確認しながら答えた。「深海の圧力変動は、実は日周期に合わせて...あ、そうだ。榊原さん!」
「なんだ」
「マグロ、持ってきましたよ」
実験室が凍りついた。
「波多江君」榊原は額に手を当てながら言った。「昨日、マグロの実験は終わったはずだが」
「いえ、これは違います」波多江は嬉しそうに説明を始めた。「今日は生きたマグロです。水族館から特別に」
「生きた...マグロ?」霜島が絶句した。
「はい。遊泳パターンの生データが必要なので」
「水族館から」榊原が静かに、しかし明確な疲労感を滲ませながら確認した。「どうやって」
「あ、それが面白いんです」波多江は得意げに答えた。「実は水族館の夜間警備員さんと仲良くなって。この前のマグロの刺身を差し入れしたら」
「波多江君」
「はい?」
「マグロは...どこだ」
波多江は実験室の隅を指差した。そこには、巨大な移動用水槽が置かれ、中で一匹のマグロが悠々と泳いでいた。
「私の机の横なら邪魔にならないと思って」
「机の...」榊原は言葉を失った。
「波多江さん」霜島が慎重に口を開いた。「これは...許可を」
「取りました!」波多江は誇らしげに書類を取り出した。「水族館からの正式な研究協力承認書です。ただし、警備員の山下さんお手製の刺身を定期的に...あ」
彼女は突然口を噤んだ。
「警備員の...手製の刺身?」榊原が眉をひそめた。
「その、マグロの扱いに詳しい方で」波多江は少し焦った様子で説明を続けた。「実は築地で10年働いていた経験が...」
その時、実験水槽から警告音が鳴った。
「あっ!」波多江が慌ててコンソールに駆け寄る。「圧力が予想値を超えて...でも、これは」
彼女は突然、興奮した様子でタイピングを始めた。
「やはり!深海圧力の日周変動が、推進効率に直接影響を...榊原さん、これを見てください!」
榊原は、疲れた表情を隠しきれないまま画面を覗き込んだ。そして、その表情が少しずつ変化していく。
「この数値は」
「はい」波多江は目を輝かせながら説明した。「マグロの遊泳パターンと、深海圧力の変動周期を組み合わせると、推進効率が42.3%どころか、さらに」
突然、実験水槽から異音が響いた。しかし今回は、いつもの失敗音ではない。
モデルが、予想を遥かに超える効率で稼働していた。
「成功...です」波多江が小さく呟いた。
実験室が静まり返る。
「波多江君」榊原が静かに言った。「この理論は、実機でも」
「計算済みです!」彼女は突然元気を取り戻し、新しいタブレットを取り出した。「実は水族館で徹夜して...あ」
また口を噤ぐ。
「水族館で?」霜島が目を丸くした。
「その、警備員室をお借りして。山下さんと一緒に計算を...えっと」
「波多江君」榊原は深いため息をついた。「今度から徹夜は」
「はい、実験室か自宅で」
「それも違う」
チャンバーの中で、人魚型推進装置が未知の可能性を示唆しながら回転を続けている。そして実験室の隅では、一匹のマグロが、この歴史的瞬間の証人として静かに泳いでいた。
「波多江さん」霜島が少し震える声で言った。「これは、本当に」
「はい」波多江は満面の笑みを浮かべた。「人魚型戦術車両の実現に、また一歩近づいたんです。マグロのおかげで」
「それはそうだが」榊原が付け加えた。「マグロを...返さないと」
「あ、はい。でも、その前にもう一つ実験を...」
「駄目だ」
実験棟に、成功の予感と、マグロの悠々とした泳ぎ音が響いていた。そして波多江は、次の実験のアイデアを、こっそりとホワイトボードに書き始めていた。




