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深夜の実験棟に、奇妙な光景が広がっていた。


「圧力チャンバーの準備、完了」

「データロガーの初期化、確認」

「生体センサー、オンライン」


波多江、榊原、霜島の三人が、まるで潜水艦の発進準備のように、次々と声を掛け合う。実験水槽の中では、人魚型推進装置の四分の一スケールモデルが、初めての全出力テストを待っていた。


「波多江さん」霜島が不安そうに尋ねた。「本当にこの時間に実験を」


「はい」波多江は画面に映る数値を確認しながら答えた。「深海の圧力変動は、実は日周期に合わせて...あ、そうだ。榊原さん!」


「なんだ」


「マグロ、持ってきましたよ」


実験室が凍りついた。


「波多江君」榊原は額に手を当てながら言った。「昨日、マグロの実験は終わったはずだが」


「いえ、これは違います」波多江は嬉しそうに説明を始めた。「今日は生きたマグロです。水族館から特別に」


「生きた...マグロ?」霜島が絶句した。


「はい。遊泳パターンの生データが必要なので」


「水族館から」榊原が静かに、しかし明確な疲労感を滲ませながら確認した。「どうやって」


「あ、それが面白いんです」波多江は得意げに答えた。「実は水族館の夜間警備員さんと仲良くなって。この前のマグロの刺身を差し入れしたら」


「波多江君」


「はい?」


「マグロは...どこだ」


波多江は実験室の隅を指差した。そこには、巨大な移動用水槽が置かれ、中で一匹のマグロが悠々と泳いでいた。


「私の机の横なら邪魔にならないと思って」


「机の...」榊原は言葉を失った。


「波多江さん」霜島が慎重に口を開いた。「これは...許可を」


「取りました!」波多江は誇らしげに書類を取り出した。「水族館からの正式な研究協力承認書です。ただし、警備員の山下さんお手製の刺身を定期的に...あ」


彼女は突然口を噤んだ。


「警備員の...手製の刺身?」榊原が眉をひそめた。


「その、マグロの扱いに詳しい方で」波多江は少し焦った様子で説明を続けた。「実は築地で10年働いていた経験が...」


その時、実験水槽から警告音が鳴った。


「あっ!」波多江が慌ててコンソールに駆け寄る。「圧力が予想値を超えて...でも、これは」


彼女は突然、興奮した様子でタイピングを始めた。


「やはり!深海圧力の日周変動が、推進効率に直接影響を...榊原さん、これを見てください!」


榊原は、疲れた表情を隠しきれないまま画面を覗き込んだ。そして、その表情が少しずつ変化していく。


「この数値は」


「はい」波多江は目を輝かせながら説明した。「マグロの遊泳パターンと、深海圧力の変動周期を組み合わせると、推進効率が42.3%どころか、さらに」


突然、実験水槽から異音が響いた。しかし今回は、いつもの失敗音ではない。


モデルが、予想を遥かに超える効率で稼働していた。


「成功...です」波多江が小さく呟いた。


実験室が静まり返る。


「波多江君」榊原が静かに言った。「この理論は、実機でも」


「計算済みです!」彼女は突然元気を取り戻し、新しいタブレットを取り出した。「実は水族館で徹夜して...あ」


また口を噤ぐ。


「水族館で?」霜島が目を丸くした。


「その、警備員室をお借りして。山下さんと一緒に計算を...えっと」


「波多江君」榊原は深いため息をついた。「今度から徹夜は」


「はい、実験室か自宅で」


「それも違う」


チャンバーの中で、人魚型推進装置が未知の可能性を示唆しながら回転を続けている。そして実験室の隅では、一匹のマグロが、この歴史的瞬間の証人として静かに泳いでいた。


「波多江さん」霜島が少し震える声で言った。「これは、本当に」


「はい」波多江は満面の笑みを浮かべた。「人魚型戦術車両の実現に、また一歩近づいたんです。マグロのおかげで」


「それはそうだが」榊原が付け加えた。「マグロを...返さないと」


「あ、はい。でも、その前にもう一つ実験を...」


「駄目だ」


実験棟に、成功の予感と、マグロの悠々とした泳ぎ音が響いていた。そして波多江は、次の実験のアイデアを、こっそりとホワイトボードに書き始めていた。

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