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「波多江さんの理論は正しかったんだ」
霜島は小型の実験水槽の前で呟いた。水槽の中では、人魚型推進装置の十分の一スケールモデルが、予想を上回る効率で稼働していた。
「はい!」波多江は画面に表示されるデータを食い入るように見つめながら答えた。「イワシの組織崩壊データから導き出した圧力分散アルゴリズムを応用したら」
「イワシは、もういい」榊原が遮った。彼は三日前から、イワシという単語に対して明確な疲労感を示すようになっていた。
「でも榊原さん」波多江は画面から目を離さず、熱心に説明を続けた。「実は面白いことに、深海魚ではなく普通の魚の限界値を調べたからこそ、圧力分散の新しいパターンが」
「波多江君」
「はい?」
「机の下から何か音がしないか?」
波多江は初めて画面から目を離し、自分の足元を確認した。そこには、氷の詰まったクーラーボックスが。
「あ」
「中身は」榊原は諦めたような表情で尋ねた。
「マグロです」波多江は少し申し訳なさそうに答えた。「イワシよりも大きな魚での実験が必要だと思って」
「マグロ」霜島が絶句した。「どこで」
「築地まで行ってきました」
実験室が静まり返った。
「いつ」榊原が静かに問いかけた。
「昨日の夜です」波多江は得意げに答えた。「夜行バスで往復したので、実験時間は確保できました。榊原さんの命令通り、往復のバスでちゃんと6時間寝ましたよ」
「それは睡眠時間の使い方として...」霜島が何か言いかけたが、突然水槽から異音が響いた。
「あ!」波多江が叫び、慌ててコンソールに駆け寄った。「圧力が予想以上に上昇してます。でも、これは」
彼女は画面に表示される数値を見つめ、突然目を輝かせた。
「これだ!」彼女は興奮した様子でキーボードを叩き始めた。「深海での圧力勾配が、実は推進力の増幅に使えるんです。マグロの筋繊維配列から予測された通り」
「波多江君」榊原は、彼女の情熱に少し巻き込まれながらも、冷静に尋ねた。「その理論は、実機スケールでも」
「計算済みです!」波多江はタブレットを取り出し、複雑な数式が書き込まれた画面を見せた。「実は夜行バスの中で最終計算を」
「待て」霜島が心配そうに口を挟んだ。「揺れる車内で複雑な計算を?」
「大丈夫です」波多江は自信に満ちた様子で答えた。「酔い止めを3錠飲んで。それに、マグロの件があるので、計算は急がないと」
「マグロの鮮度より、計算の正確性が」榊原が言いかけたその時、実験水槽から再び異音が。
「あっ」
今度は、モデルから小さな部品が飛び出した。
「問題ありません!」波多江は慌てて説明した。「これは想定内の...その...構造限界の確認が、えっと」
彼女の言葉が途切れたその瞬間、水槽の中で小規模な爆発が起きた。
実験室に水しぶきが飛び散る。そして、どこからともなく、生臭い香りが。
「波多江君」榊原は、濡れたスーツの袖を見つめながら、静かに言った。「クーラーボックスの中身は」
「はい。マグロの切り身です。実は追加実験を...」
「片付けろ」
「でも、この実験データを見てください!」波多江は水浸しになった白衣のまま、むしろ嬉しそうに画面を指さした。「破壊の直前に、推進効率が42.3%も向上していて」
「片付けてから」榊原は目を閉じて深いため息をついた。「それと、マグロは」
「冷蔵庫に入れました」霜島が突然報告した。「実験室の...ではなく、食堂の」
榊原は意外そうな表情で霜島を見た。
「波多江さんの研究熱心さは理解できます」霜島は少し照れくさそうに説明した。「でも、このまま放置すると、また机の上で解剖が始まりそうだったので」
波多江は不満そうな表情を浮かべたが、すぐに明るい声で言った。
「じゃあ、昼食はマグロの刺身にしませんか?実験データの解析をしながら」
「波多江君」
「はい?」
「まず、床を拭け」
実験室に、水しぶきと生臭さと、そして確かな技術的進歩の予感が漂っていた。榊原は、この予感が正しいことを直感的に理解していた。ただし、その代償として実験室の床を何度拭くことになるのか、それは誰にも予測できなかった。




