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波多江瑠璃は、昼休みの実験棟で一人、大量の付箋を壁に貼り付けていた。それぞれの付箋には、深海生物の体型と圧力分散の相関係数が書き込まれている。


「これを見ると...イワシの変形限界点は42.3メガパスカルで...ここで組織崩壊が...でも、もし鱗の構造を」


彼女は立ち止まり、首を傾げた。何かが足りない。付箋の海を見つめながら、ぼんやりとカップラーメンを啜る。


「波多江さん」


実験棟の入り口から、霜島の声が聞こえた。


「あ、霜島さん。これ見てください」彼女は振り返りもせず、壁一面の付箋を指差した。「深海生物の体型を数式化すると、実は42.3メガパスカルのところで面白いパターンが」


「波多江さん」霜島は慎重に言葉を選びながら近づいてきた。「その、昨日の予算会議の件なんですが」


「ああ、予算」波多江は突然思い出したように言った。「そうでした。えっと...私の説明は分かりづらかったでしょうか?」


霜島は複雑な表情を浮かべた。昨日の会議で波多江が行ったプレゼンテーションは、確かに技術的には正確だった。しかし...


「その...発表中に突然イワシの解剖を始めたのは」


「あ、でもあれは必要だったんです」波多江は食べかけのカップラーメンを置き、興奮した様子で説明を始めた。「理論だけじゃ伝わりにくいと思って。実際の魚の筋繊維配列を見せれば」


「会議室のテーブルの上で」


「はい。鮮度が大事なので」


霜島は深いため息をついた。


「波多江さん、プレゼンの途中で『この魚、まだ温かいんです!』って叫ぶのは」


「でも、本当に温かかったんです」波多江は真剣な表情で答えた。「朝一番でスーパーに行って。半額じゃなかったんですけど、データの正確性を考えると」


その時、実験棟の扉が再び開いた。


「波多江君」榊原が入ってきた。「昨日の会議の...ん?」彼は壁一面の付箋を見て、眉をひそめた。「これは」


「ああ、榊原さん!」波多江は嬉しそうに近寄った。「実は、イワシの実験から新しい発見が」


「その前に」榊原は静かに、しかし毅然とした態度で言った。「昨日の会議での解剖は」


「申し訳ありません」波多江は初めて反省したような表情を見せた。「でも、あの瞬間に気づいたんです。イワシの筋繊維配列と、深海生物の」


「波多江君」


「はい」


「机の上で解剖するのは控えよう」


「分かりました...」波多江は少し落ち込んだ様子を見せたが、すぐに顔を上げた。「じゃあ、次回からは解剖用の専用テーブルを」


「それも控えよう」


沈黙が流れた。波多江は何か言いかけたが、榊原の表情を見て思いとどまった。代わりに、彼女は壁の付箋を指差した。


「でも、見てください。この数式なんです」彼女は再び熱を帯びた声で説明を始めた。「深海生物の体型を三次元モデル化すると、ある特定の圧力でフラクタル構造が現れて。そして、その構造が人魚型推進システムの」


「波多江君」榊原は彼女の説明を遮った。「その話は、昼食の後にしよう」


「えっ?でも」


「君のカップラーメン」榊原は彼女の机を指差した。「もう30分以上放置されているぞ」


波多江は驚いたように伸びきったインスタントラーメンを見つめた。


「あ...」


「それに」榊原はため息まじりに続けた。「壁一面の付箋は、後で整理して報告書に」


「大丈夫です!」波多江は突然明るい声で言った。「全部写真撮ってありますから。それに、家でもホワイトボードに同じデータを」


「家のホワイトボード?」霜島が思わず口を挟んだ。


「はい。寝室の壁一面に設置してあるんです。夜中に思いついたアイデアを」


再び沈黙が訪れた。


「波多江さん」霜島が恐る恐る尋ねた。「睡眠は取れているんですか?」


「もちろんです」彼女は誇らしげに答えた。「毎日最低2時間は」


「2時間!?」榊原と霜島が同時に声を上げた。


「はい。それ以上寝ると、アイデアを見逃しそうで」


波多江は当然のことを説明するような口調で答えた。その表情には、科学的探求に対する純粋な情熱と、少し歪んだ生活リズムへの無自覚さが混在していた。


榊原は再び深いため息をついた。天才的な技術者の発想力と、基本的な生活習慣の維持。その両立の難しさを、彼は痛感していた。


「波多江君」


「はい?」


「今夜は」榊原は静かに、しかし毅然とした態度で言った。「6時間は寝るんだ」


「えっ!?でも、新しい実験データが」


「それは明日」


「でも」


「命令だ」


波多江は不満そうな表情を浮かべたが、ふと何かを思いついたような顔をした。


「じゃあ、寝る前に魚の解剖を...」


「それも明日だ」


実験棟に、伸びきったカップラーメンの香りだけが漂っていた。

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