三
三
波多江瑠璃は、昼休みの実験棟で一人、大量の付箋を壁に貼り付けていた。それぞれの付箋には、深海生物の体型と圧力分散の相関係数が書き込まれている。
「これを見ると...イワシの変形限界点は42.3メガパスカルで...ここで組織崩壊が...でも、もし鱗の構造を」
彼女は立ち止まり、首を傾げた。何かが足りない。付箋の海を見つめながら、ぼんやりとカップラーメンを啜る。
「波多江さん」
実験棟の入り口から、霜島の声が聞こえた。
「あ、霜島さん。これ見てください」彼女は振り返りもせず、壁一面の付箋を指差した。「深海生物の体型を数式化すると、実は42.3メガパスカルのところで面白いパターンが」
「波多江さん」霜島は慎重に言葉を選びながら近づいてきた。「その、昨日の予算会議の件なんですが」
「ああ、予算」波多江は突然思い出したように言った。「そうでした。えっと...私の説明は分かりづらかったでしょうか?」
霜島は複雑な表情を浮かべた。昨日の会議で波多江が行ったプレゼンテーションは、確かに技術的には正確だった。しかし...
「その...発表中に突然イワシの解剖を始めたのは」
「あ、でもあれは必要だったんです」波多江は食べかけのカップラーメンを置き、興奮した様子で説明を始めた。「理論だけじゃ伝わりにくいと思って。実際の魚の筋繊維配列を見せれば」
「会議室のテーブルの上で」
「はい。鮮度が大事なので」
霜島は深いため息をついた。
「波多江さん、プレゼンの途中で『この魚、まだ温かいんです!』って叫ぶのは」
「でも、本当に温かかったんです」波多江は真剣な表情で答えた。「朝一番でスーパーに行って。半額じゃなかったんですけど、データの正確性を考えると」
その時、実験棟の扉が再び開いた。
「波多江君」榊原が入ってきた。「昨日の会議の...ん?」彼は壁一面の付箋を見て、眉をひそめた。「これは」
「ああ、榊原さん!」波多江は嬉しそうに近寄った。「実は、イワシの実験から新しい発見が」
「その前に」榊原は静かに、しかし毅然とした態度で言った。「昨日の会議での解剖は」
「申し訳ありません」波多江は初めて反省したような表情を見せた。「でも、あの瞬間に気づいたんです。イワシの筋繊維配列と、深海生物の」
「波多江君」
「はい」
「机の上で解剖するのは控えよう」
「分かりました...」波多江は少し落ち込んだ様子を見せたが、すぐに顔を上げた。「じゃあ、次回からは解剖用の専用テーブルを」
「それも控えよう」
沈黙が流れた。波多江は何か言いかけたが、榊原の表情を見て思いとどまった。代わりに、彼女は壁の付箋を指差した。
「でも、見てください。この数式なんです」彼女は再び熱を帯びた声で説明を始めた。「深海生物の体型を三次元モデル化すると、ある特定の圧力でフラクタル構造が現れて。そして、その構造が人魚型推進システムの」
「波多江君」榊原は彼女の説明を遮った。「その話は、昼食の後にしよう」
「えっ?でも」
「君のカップラーメン」榊原は彼女の机を指差した。「もう30分以上放置されているぞ」
波多江は驚いたように伸びきったインスタントラーメンを見つめた。
「あ...」
「それに」榊原はため息まじりに続けた。「壁一面の付箋は、後で整理して報告書に」
「大丈夫です!」波多江は突然明るい声で言った。「全部写真撮ってありますから。それに、家でもホワイトボードに同じデータを」
「家のホワイトボード?」霜島が思わず口を挟んだ。
「はい。寝室の壁一面に設置してあるんです。夜中に思いついたアイデアを」
再び沈黙が訪れた。
「波多江さん」霜島が恐る恐る尋ねた。「睡眠は取れているんですか?」
「もちろんです」彼女は誇らしげに答えた。「毎日最低2時間は」
「2時間!?」榊原と霜島が同時に声を上げた。
「はい。それ以上寝ると、アイデアを見逃しそうで」
波多江は当然のことを説明するような口調で答えた。その表情には、科学的探求に対する純粋な情熱と、少し歪んだ生活リズムへの無自覚さが混在していた。
榊原は再び深いため息をついた。天才的な技術者の発想力と、基本的な生活習慣の維持。その両立の難しさを、彼は痛感していた。
「波多江君」
「はい?」
「今夜は」榊原は静かに、しかし毅然とした態度で言った。「6時間は寝るんだ」
「えっ!?でも、新しい実験データが」
「それは明日」
「でも」
「命令だ」
波多江は不満そうな表情を浮かべたが、ふと何かを思いついたような顔をした。
「じゃあ、寝る前に魚の解剖を...」
「それも明日だ」
実験棟に、伸びきったカップラーメンの香りだけが漂っていた。




