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真夜中の実験棟は、波多江瑠璃にとって最も集中できる場所だった。


「よし、圧力テストの準備は完了」


彼女は小型の水槽を見つめながら、タブレットに数値を入力した。水槽の中では、イワシの切り身が特殊な装置に固定され、深海の圧力を再現する実験の準備を待っていた。


「波多江君、まだ帰らないのか」


突然声をかけられ、彼女は飛び上がった。振り返ると、榊原深海が実験室の入り口に立っていた。


「あ、榊原さん。私、今すごく面白い仮説を」


「午前三時だ」


「はい。イワシの体表の圧力分布を測定していたら」


「なぜイワシなんだ」榊原は額に手を当てながら尋ねた。


「だって、スーパーで半額だったんです」波多江は得意げに答えた。「それに、イワシの遊泳フォルムって、実は深海での圧力分散に」


「待て」榊原は彼女の説明を遮った。「その前に、なぜ半額のイワシを買いに行ったんだ?」


「ああ、それが面白いんです」波多江は目を輝かせた。「昨日の夜、突然思いついて。深海魚は高いですけど、普通の魚でも圧力テストには」


その時、実験室の扉が再び開いた。


「お二人とも、こんな時間まで」霜島理人が息を切らせながら入ってきた。「大変です!本省から」


「霜島君」榊原は静かに言った。「君も、なぜこんな時間に」


「いえ、それが」霜島は慌てて書類を取り出した。「明日...いや、今日の朝一番で予算会議があるんです。波多江さんの実験データが必要で」


「会議?」榊原の表情が曇った。「聞いていないが」


「すみません、つい先ほど決まって...」霜島は申し訳なさそうに続けた。「でも、波多江さんの理論が正しければ、予算増額の可能性が」


「あ!」波多江が突然叫んだ。


二人が振り返ると、水槽から異様な音が聞こえ始めていた。


「圧力チャンバーの設定を」波多江は慌ててタブレットを操作した。「忘れてた...」


次の瞬間、小型水槽の中で、イワシの切り身が見事に粉砕された。実験室に生臭い水しぶきが飛び散る。


「波多江君」榊原は静かに、しかし明確な疲労感を滲ませながら言った。「明日の朝一番の会議に、どうやってデータを」


「大丈夫です!」波多江は濡れた白衣のまま、むしろ嬉しそうに答えた。「これで分かったんです。イワシの組織が崩壊する直前の圧力分布が、人魚型推進システムの鍵を」


「イワシは...粉々になったが」霜島が絶望的な表情で指摘した。


「ですから!」波多江はさらに興奮した様子で説明を始めた。「粉々になる直前のデータこそが重要なんです。深海生物は、この限界点の手前で特殊な」


「波多江君」榊原は目を閉じて深いため息をついた。「まず、新しいイワシを買ってくるんだ」


「あ、もう買ってあります」彼女は得意げに答えた。「実は失敗を予測して、スーパーの閉店前に10キロほど」


実験室が再び静寂に包まれた。


「10キロ...」霜島が絶句した。


「はい。明日の朝9時までに、最低でも100回は実験を」


「待て」榊原が遮った。「その予算は」


「ああ、それが」波多江は少し申し訳なさそうな表情を見せた。「私の晩ご飯代を3ヶ月分」


「波多江さん...」霜島は複雑な表情で彼女を見つめた。「そういうことは、事前に相談を」


「でも、半額だったんです」


榊原は窓の外を見た。夜明け前の空には、まだ星々が瞬いていた。その光は、どこか深海に似ている。そして彼は、この奇妙な開発プロジェクトが、今までの自衛隊の常識を覆すものになるかもしれないと、直感的に理解していた。


それが良いことなのか悪いことなのか、まだ分からない。ただ、目の前でイワシの解析に没頭する波多江の姿に、かつて自分が持っていた純粋な情熱を見た気がした。


「霜島君」


「はい?」


「予算会議の資料、私も手伝おう」


「えっ、でも」


「波多江君の理論を、彼らに分かるように翻訳しないとな」


波多江は、濡れた白衣のまま、満面の笑みを浮かべた。そして、新しいイワシのパックを取り出しながら言った。


「あ、そうだ。実は、イワシの他にサバも買ってあって」


「波多江君」榊原と霜島が同時に声を上げた。


こうして、海上自衛隊史上最も濡れた、そして生臭い予算会議の準備が始まった。

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