十一
十一
波多江は両手いっぱいの資料を抱え、実験室のドアを肩で押し開けた。今日こそダイオウイカの行動パターンから、画期的な推進システムの...
「よう」
低い、しかし温かみのある声が響く。
ばらばらと、床に資料が舞い散った。
「か、風間少佐!」
波多江の声が、いつもより半オクターブ高い。
風間恒一郎少佐。第五潜水隊所属の潜水艦長。地上に姿を見せるのは数ヶ月ぶりだった。端正な顔立ちに、深く澄んだ瞳。その佇まいは、まるで深海からの使者のようだ。
「相変わらず、資料まみれか」
彼が微笑みながら、散らばった紙を拾い始める。
「あ、私が!」
波多江は慌てて身を屈める。手が触れ合い、彼女の頬が僅かに紅く染まる。
「ダイオウイカの件は、艦内でも話題になっていた」
風間は拾った資料をきちんと重ねながら言う。
「そ、そうですか?」
「ああ。さすが波多江博士、とみんな」
「博士じゃないです!」思わず声が裏返る。「まだ、その...」
風間は優しく笑った。その仕草に、波多江の心臓が一拍、跳ねる。
通常なら、風間少佐の実験室滞在は数日が限度だった。それでも波多江には、その数日が特別な時間だった。研究の話を真摯に聞いてくれる彼の姿。時折見せる、人間味のある困惑。そして、また深海に戻っていく寂しさ。
しかし今回、風間は戻らなかった。一週間が過ぎても、実験室に姿を見せ続けている。
(何か、あったのかしら)
波多江は何度も尋ねかけては、言葉を飲み込んでいた。
その日の午後、ダイオウイカ問題で全国を奔走していた榊原が実験室に戻ってきた。
「すでに来ていたか」
「お疲れさまです」風間は正確な敬礼を行う。「着任いたしました」
波多江の手が止まる。
「着任?」
榊原は疲れた表情の中に、微かな安堵の色を浮かべた。
「風間少佐は、君のお目付け役としてここで保安任務に就くことになった」
「え?」
波多江は風間を見つめる。彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「潜水艦の艦長から、保安官か」彼は自嘲気味に言った。「まあ、君のダイオウイカ強奪事件のおかげで」
「つまり」波多江の声が震える。「もう、深海には?」
「当分は陸上勤務だ」
実験室が静かになる。
波多江は複雑な感情に襲われていた。彼が側にいてくれることへの密かな喜び。しかし、彼の大切な潜水艦の職を奪ってしまったことへの罪悪感。そして...
「波多江君」
榊原の声で我に返る。
「は、はい!」
「次はもう、生物を勝手に」
「分かってます!」彼女は慌てて答えた。「でも、代わりに氷点下での圧力実験を」
「待て」
「深海の環境を再現するために、南極の氷を」
「波多江君」
今度は風間が、ため息まじりに、しかし確かな愛情を含んだ声で言った。
「はい...」
波多江は、ダイオウイカの方を見やる。巨大な水槽の中で、まるで彼女の心情を代弁するかのように、触腕が切なく揺れていた。
実験室の窓から、港に停泊する潜水艦が見える。そして、その傍らでは新たな保安官が、天才科学者の暴走を見守ることになった。瀬戸内海の潮風が、二人の新しい物語の幕開けを、そっと運んでくる。




