十
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古びた会議室の空気が、重く沈んでいた。
榊原深海は中央の椅子に座り、周囲を海上自衛隊の制服組幹部たちに囲まれている。誰もが、この状況の異常さを理解していた。通常の査問であれば、もっと形式的な場で、もっと多くの書類と、もっと厳格な手続きがある。
「言い訳をしたまえ」
ついに一人が口を開いた。その声には、怒りよりも疲労が滲んでいた。
榊原は黙っている。今朝の新聞各紙が、一面で報じていた見出しが、頭の中で反復する。
『海自が世界最大級のダイオウイカを強制接収』
『研究名目の暴挙に国際的非難』
『防衛組織の越権行為』
「公式の査問というわけではない」別の、柔和そうな男性が促した。「真実を述べればいいんだ」
榊原は、数日前の出来事を思い出していた。
***
「次はおそらく...クジラですよね?」
霜島の声には、明確な懸念が含まれていた。
「それだけはなんとか阻止しなければならない」
榊原は強い決意を込めて言った。波多江の研究熱心さは理解できる。彼女の理論は正しく、その成果は革新的だ。しかし、ここで歯止めをかけなければ。
そう思っていた。
まさか彼女が、水揚げされた世界最大級のダイオウイカを、海上自衛隊の名を使って強制接収するとは。
***
「研究の必要性は理解できる」ある幹部が静かに言った。「だが、なぜダイオウイカなのか」
榊原は、波多江の興奮した声を思い出していた。
『深海生物の究極形態です!クジラは制止されましたが、これなら規模も同等で、しかも深海での圧力適応の完璧な実例が』
「報道では」別の幹部が資料に目を落とす。「研究者たちから『歴史的な標本』の横取りという非難が」
『でも榊原さん、このダイオウイカの筋繊維構造を見てください!人魚型推進システムの、まさに生きた実証例なんです!』
彼女の目は輝いていた。純粋な、研究者としての輝き。
「学会からの抗議も相次いでいる」誰かが疲れた声で言う。「『軍事研究への私物化』という批判も」
『この眼の構造!この腕の動き!ああ、42.3%どころか、100%の効率向上も夢ではありません!』
「言い訳を」先ほどの声が、もう少し優しく繰り返した。「何か、あるだろう」
榊原は、ゆっくりと口を開いた。
「彼女は...」
「彼女?」幹部たちの視線が集中する。
「天才です」
会議室が静まり返る。
「研究者として、最高の才能を持っている。しかし、それと同時に」
彼は言葉を選ぶ。
「制御不能な純粋さも持っています」
誰かが小さくため息をつく。
「実験室には今」柔和な幹部が尋ねた。「そのダイオウイカが?」
「はい」榊原は答える。「波多江君が、深夜も観察を続けていて」
***
同じ時刻、実験棟では。
「ほら見てください!」波多江が大きな水槽の前で目を輝かせている。「この触腕の動きの効率性!これを人魚型推進システムに応用すれば」
霜島は、マスコミへの対応に追われながら、彼女の歓声を聞いていた。
そして実験棟の外では、抗議と取材の人々が詰めかけている。
波多江だけが、まるで嵐の目のように、純粋な研究の喜びに没頭していた。




