一
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「人魚型戦術車両だと?」
榊原深海は、目の前の設計図を何度も確認した。だが、机上に広げられた青写真は、確かに人魚の尾ヒレのような推進装置を持つ潜水型戦術車両を示していた。
「はい」霜島理人は、やや誇らしげに頷いた。「本省からの新しい指示です。陸上自衛隊のSCTV開発に対抗する、海上自衛隊独自の」
「バカげている」
「えっ?」
「物理法則を無視したファンタジーだ」榊原は眉をひそめながら、青写真の端にメモ書きされた推進力の計算を指さした。「この推進システムでは、深海での圧力に耐えられない。第一、人魚型という発想自体が」
「いいえ、そうとは限りません」
突如、明るい声が会議室に響いた。全員が声のする方を振り向くと、窓際で巨大なロボット工学の洋書を抱えた若い女性が立っていた。波多江瑠璃だ。
「波多江君」榊原は溜息をつきながら言った。「今日の会議は機密扱いで」
「ああ、すみません。でも、ドアが開いてたので」波多江は屈託のない笑顔で一歩前に出た。「それに、人魚型推進システムについて、面白い理論があるんです」
彼女は抱えていた洋書をどさりと机に置き、ページをめくり始めた。その仕草は、まるで宝物を披露する子供のようだった。
「ほら、ここです。深海生物の推進メカニズムに関する最新の研究」彼女は目を輝かせながら説明を始めた。「実は、人魚型というのは、深海での効率的な推進を実現する可能性のある形状なんです。特に、圧力勾配を利用した」
「待て」榊原は彼女の早口の説明を遮った。「その本は確か...」
「ああ、『深海生物に学ぶ次世代推進理論』ですね」波多江は嬉しそうに答えた。「アメリカの」
「それは去年絶版になったはずだ」
「はい。だから古書店を100軒ほど回って」
会議室が静まり返った。
「100軒...」霜島が絶句した。
「正確には112軒です」波多江は誇らしげに言った。「秋葉原から始めて、最終的に見つけたのは長崎の」
「波多江君」榊原は額に手を当てながら言った。「君は先週、重要な実験データの解析を任されていたはずだが」
「あ、それは終わってます」彼女はスマートフォンを取り出し、画面をスクロールした。「夜中に終わったので、その後古書店巡りを」
「夜中?」
「はい。寝てる場合じゃないですから」
再び沈黙が訪れた。霜島は困惑した表情で榊原と波多江の間を見つめ、やがて小さな咳払いをした。
「その、波多江さん」彼は慎重に言葉を選びながら話し始めた。「確かにその理論は興味深いですが、予算と時間の制約を考えると」
「大丈夫です」波多江は両手を広げ、まるでプレゼンテーションを始めるかのような仕草をした。「私、シミュレーションも作ってきました。使用するのは、この本のアルゴリズムと、先週解析した深海圧力データと、あとはスーパーマーケットで買った」
「スーパーマーケット?」榊原と霜島が同時に声を上げた。
「はい。イワシの切り身のデータも必要だったので」
会議室の空気が凍りついた。波多江だけが、相変わらず明るい表情で、分厚い洋書のページをめくり続けていた。
榊原は深いため息をつきながら、窓の外を見た。呉の海軍工廠跡地に建つ研究施設の窓からは、穏やかな瀬戸内海が見えた。その波間に、かすかに人魚の影を見たような気がして、彼は思わず目を閉じた。
こうして、海上自衛隊史上最も突飛な、そして奇妙な開発プロジェクトが始まった。誰も予想だにしなかった形で。




