太陽神殿
クッションも無い荷馬車の荷台に乗せられ、海辺の神殿らしき所に着いた時、リリーはもう水も喉も通らず、気力だけで意識を保っている状態だった。
建物から、見たことも無い服を着た男が出てきてリリーを不躾な視線で観察する。
後から出てきた若い男はリリーに気付くと慌てた様子で駆け寄ってきて、「大丈夫ですか?!」と共通語で聞いてきた。
――大丈夫な訳ないじゃない――
心の中で返事をしてリリーは意識を手放した。
☆☆☆☆
目が覚めると柔らかい所に横たわっていて、知らない男が心配そうな顔をしてこちらを見ていた。
「お目覚めですか。
眠ってらっしゃる間、むせないように口を湿らすことしかできなかったのですが、お水は飲めそうですか?」
ここに着く前は馬車の揺れが気持ち悪すぎて水も飲めなくなっていた。
欲しくはないが、無理にでも飲まなければ。
リリーが頷くと、男は水差しからコップに水を入れ、リリーの背を支えて水を飲ませてくれた。
喉を湿らせる程度は飲み込めたが、身体を起こしているのも辛く、また眠ってしまった。
眠りは浅く、短時間で目を覚ます度に男が少しずつ水を飲ませてくれ、何回目かの時に、白い粉の乗った皿を出されて
「これは塩なのですが、舐められそうですか?」と言うので、少し舐めたら、ほんの少し体調が上がった気がした。
2日かけて普通に水が飲めるようになると、男が野菜を裏ごししたスープを持ってきて飲ませてくれた。
この辺りでやっと話す元気が出てきたリリーは、一体ここはどこなのかと聞いた。
「ここは、西の岬の太陽神殿です。大神官様があなたをここに連れて来るようお命じになり、このようなことになりました」
太陽神殿……どうしてそんなところに?
リリーがいた泉の神殿の祭神ラトナは、かつて太陽神の妻だったと神話で語られている。
海の悪魔に騙された太陽神が嫉妬に狂って女神の森を焼き尽くしたため喧嘩別れしたということになっており、それぞれの神を祀る神殿に一切交流は無い。
太陽神と豊穣の女神ラトナが仲良く人間に恵みを与えていた時には1つの神殿に祀られていたのに、2柱の神の夫婦喧嘩で分裂したという伝えもあるが、本当だとしてもはるか昔のことで、今更蒸し返して敵対するには交流が無さすぎる。
泉の神殿では、太陽神を騙した海に関する物は禁忌で、女神の依り代である神女は太陽が出ている時間は活動しない。
まさか最近それを知って腹を立てたとか無いわよね?
体力が落ちている上に意味の分からない状況に置かれ、リリーは男の存在を忘れて長々考え込んでしまった。
気が付くと男は居なくなっていたから、リリーはまた眠った。
「おはようございます。食欲はいかがですか?」
朝、男の声で目が覚めた。
眠っている女性に近付くなんて非常識だと思うが、敵に回して危害を加えられてはたまらない。
「おはよう。食欲が出てきたわ。」
無難に答えると、男は穏やかな笑みを浮かべて
「では、そろそろ噛んで食べるものにしてみましょうか。具材を柔らかく煮たスープがありますので。」
と言って、パンとスープを持ってきた。
スープには柔らかい蕪や玉ねぎが入っていて、噛まなくても口の中で溶けていくようだ。
「パンはまだスープに浸して召し上がった方が良いかもしれません。」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる男の気遣いに心が落ち着いて、本当に少し食欲が出てきた。
太陽神の神殿の食べ物を口にしてしまって、若姫としてどころか巫女としてさえラトナの神殿に戻れなくなったというのに。
パンとスープを食べ終えると、男が野草茶を持ってきて、
「少しお話ししてもよろしいでしょうか?」
と聞くので、許可を出した。
少しの時間なら座っていることもできるようになったので、聞くことにした。
男は太陽神殿の下級神官で、名前はルカ。
太陽神殿には男しかいないから、リリーの世話はルカがすることになったと、すごく申し訳なさそうに言っていた。
リリーをここに連れて来たのは儀式の為だと聞いているが、詳しいことはルカにも分からないそうだ。
若姫として女神ラトナについて神話・儀式・関連情報を深く学んできたが、太陽神殿から儀式の手伝いを頼まれるような心当たりはない。
しかし、太陽神殿側になにか事情があって泉の神殿に依頼したいということなら、前向きに検討できたはずだ。
リリーが来られたかは内容次第だが、真っ当な申し出であれば中級か上級の巫女を確実に出向させられた。
若姫の祈祷会のスケジュールを把握する情報力があれば、そのくらいはわかるはずなのに、打診すらないまま若姫を拉致したということは、ろくでもない目的に違いない。
本当は神女を連れてきたかったのに、不可能だと悟って標的を変えたのではないだろうか。
リリーは冷や汗が流れるのを感じた。
体力が回復したら、なんとしてもここから逃げないと命が危ない。
無理にでも食事を食べて、ルカに気を許した振りをして情報を集めよう。
リリーはベッドの上で足を動かすことから始めて、1人こっそり歩行訓練をした。
食事は海産物が盛りだくさんの普通食になった。
海老や蟹は姿を見てしまうと少し怯むが、味は美味しい。
しっかり食べて体力を付けて、ラトナタの家族の元に戻るのだ。
雑談を通してルカともすっかり打ち解けた時、ルカに歩行訓練を勧められた。
実はスクワットや腹筋・背筋のトレーニングをして、泉の神殿にいた頃より逞しくなっているくらいなのだが、ルカはそれを知らない。
筋トレの成果がバレないように、恐る恐るといった風情でルカに掴まって立ち上がり、よろけながら数歩歩いてみせる。
ルカは安堵したような笑顔で「良かった!歩けそうですね。よろしければ散歩をしてみませんか?」と言った。
いずれ脱出経路を考えるために頼もうと思っていたことをルカの方から提案してくれた。
「わたくしがお支えするので、足元に気をつけてゆっくりまいりましょう」
ルカにしっかり腰を支えられて部屋を一歩出ると、立ち止まって
「リリー様、あちらが出口です。行きましょう」
神殿の正面出入口を教えられる。
出てみると、周りに何も無い一本道だけがあった。
「正面の出入口は見晴らしの良い一本道に出ます。」
「海側の裏口も見てみましょうか。」
ルカは海ではなく裏口を見せるようなことを言う。
裏口は船着場のすぐそばで、食品などの搬入口になっているそうだ。
「ここから小舟を漕いで浜沿いに行くと、漁師の集落があります。集落と反対側に行くと、あの岩です。それ以外の方向は小舟では陸まで辿り着けない大海原です。」
「太陽神テト様が海に帰る場所として、私達はあの岩を神聖視しています。」
ルカの話を聞きながら、リリーは考える。――逃げるとするなら、夜の間に一本道を走るか、船を漕いで集落に隠れるか――……どちらも逃げられる気がしない。
「そろそろお疲れでしょう。部屋に戻りましょうか。」
ルカに言われて、また腰を支えられて歩く。
部屋に戻ってベッドに横たわり、リリーは絶望を噛み締める。
図らずもルカが逃走経路の全貌を見せてくれたが、逃げてもすぐに見つかってしまうのは火を見るより明らかだ。
もしかすると、逃げても無駄だと示すためにわざと見せたのかもしれない。
神殿の周りが草すら生えていない岩場と海だから、神殿から丸見えになってしまう。
夜中に危険を冒して脱出しても、一本道と集落を捜索されれば隠れる場所は無い。
本当に絶望しかないじゃない。
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