夏の章 誕生日と海鮮ちらし
七月七日、おじいの101回目の誕生日が巡ってきた。
風はリビングダイニングを普段よりも念入りに掃除をした。数日前には訪問理容をお願いして、散髪と髭剃りをしてもらった。おじいには、新しいポロシャツとストレッチ素材のパンツを着せた。
「おじい、百一歳にはみえないね」
「そうだな、九九歳くらいに見えるだろう?」
いつもの定位置、縁側の籐の椅子でくつろぎ、軽口が出るくらい元気だ。おじいは、梅雨で雨が多い分、気持ちも落ち込みがちで食欲も落ちていた。風も竜幸のことがいつも気がかりだった。
タツユキからは音沙汰もなく、おじいの誕生日を迎えた。風は襟のあるシャツにアイロンをかけて、ぱりっとさせたシャツと新しいエプロンに身を包んでお客様をお迎えする。
ケーキを携えて、茉莉花の橋元一家がおじいのお祝いに駆けつけてくれた。
「おじい、お誕生日おめでとう」
ふだんから機嫌のいい茉莉花は、今日はさらに元気がいい。さっそく椅子に座ったままのおじいにハグする。
「ありがとうございます、美枝子さん、信夫さんも」
茉莉花の母親・美枝子は、風の従姉にあたるが年が20歳近く離れている。夫の信夫とは結婚以来ずっと円満だ。小柄なふたりは、いつも似通う服装でいる。今日はお揃いのTシャツだ。茉莉花は、普段より少しおしゃれして、チェックのワンピースを着ている。
「茉莉花ちゃんは、ごきげんだね」
「あのね、打ち上げでねカラオケ行ったの。わたし、歌がうまいねってほめられたんだよ」
ほめたのは、たぶん茉莉花が好意を寄せる先輩だったのだろう。茉莉花は鼻歌を歌いながら、小皿やグラスをセッティングするのを手伝う。
ごめんください、と玄関から声がした。風がリビングから声をかける。
「父さん、いらっしゃい」
風の父親、凪がリビングに顔を見せた。ふだんあげている前髪は下ろして、ラフなシャツとパンツ姿だ。
「お久しぶりです、謹吾さん」
風の父親の凪は、父親のことを名前で呼ぶ。そして昨夜電話であれほど言ったのに、残念なことながら手ぶらで来た。凪がおじいや橋元親子にひととおり挨拶が済むと、腕をつかんでキッチンまで誘導した。
「父さん、財布持ってきた?」
小声で尋ねる。凪は財布も持たずに出かけることがしょっちゅうで、なんならスマホすら持っていないこともある。
「う、うん」
「じゃあ、スーパーで飲み物買ってきて。車、使っていいから。ビール、350mlのを12本とジュースと……」
途中から、元来の下がり目がよけいに不安げに下がっていくのに気付いた風は、茉莉花に声をかけた。
「茉莉花ちゃん、うちの父と一緒にお使いに行ってくれないかな」
「うん、いいよ。凪おじさん、お供します」
茉莉花は元気よく挙手すると、凪についていった。
風は、橋元夫妻の手を借りてテーブルの上に料理を並べていく。
「ふうちゃんは、ほんとまめね」
従姉の美枝子も茉莉花と同じく、風のことをふうちゃんと呼ぶ。
「毎週金曜日にごちそうになってくるでしょ?」
「ごちそうだなんて、ただのカレーですよ」
「そんなことない。ふうちゃんから教わったデザート、茉莉花とふたりで作ってる。作りながら、いろんな話しができて助かってる。ありがとうね」
あまり気難しいことはないと思える茉莉花でも、両親との会話は小学生の頃よりずっと少なくなっているという。親には相談できないこともあるだろう。
「ここが、家でもなく学校でもない場所になっているみたい」
「息抜きになっているなら、ぼくもうれしいですよ。おじいとの二人暮らしだから、茉莉花ちゃんが顔を出してくれるの、楽しみなんです」
ほとんど来客のない家だ。金曜日に茉莉花が来てくれるのがアクセントなっているし、おじいも勉強を教えることが生きがいになっている。
風は、冷蔵庫に保管してあった雲丹やイクラ、むきエビ、細く切った鰻のかば焼きなどを取り出していった。
少し深さのある器に酢飯をよそい、海鮮をちらしていけばいいだけだ。別にとろろをすってある。
「信夫さん、すみませんが海苔を細長く切ってください」
茉莉花の父がキッチンばさみで海苔を細く切っていく。美枝子が海鮮を酢飯に散らしてく。作業は順調だ。
「ただいまっ」
はじけるような声がして、茉莉花と凪が帰ってきた。風は玄関のほうを見てぎょっとした。
「ちょっ、父さん……」
「ああ、みんなで食べたらいいかなって」
凪は一抱えもあるスイカを買ってきた。凪が下げたビールとジュースの他にも、茉莉花はアイスやお菓子がぎっしりと入ったレジ袋両手で持っている。
「茉莉花、叔父さんに何買わせているの」
「ああ、いいんですよ。茉莉花ちゃんとはたまにしか会えないし。何かしてあげたくて」
風は父親からスイカを手渡されてめまいがした。どうしてこの人は、なんていうか常識とか心遣いとかそういうのが苦手なんだろう。茉莉花は冷凍庫に手際よくアイスクリームを詰め始めている。
風は海鮮丼を橋元夫妻に任せて、スイカを半分に分けて、キューブ型に切るとガラスのボウルに盛りラップをかけて冷蔵庫へ入れた。食後までには少しは冷たくなるだろう。
「父さん、皿と箸を並べて」
父は器用とは言えないので、茉莉花と一緒にテーブルのセッティングをお願いした。親戚一同で準備するさまを、おじいは柔和な笑顔で見ている。
去年のおじいの100歳の誕生日には、もっと親類が集まったが、今回は近場にいるものたちだけが集まった。遠方の親類とはふだんからあまり行き来がないから、付き合いが薄い。橋元家と風の実家は歩いてもこれる距離だ。とはいえ、風の母親は欠席だ。
—-また喧嘩でもしたのかも知れない、と風は思った。
両親の不仲は今に始まったことではなく、風が子どものころからだ。父と母は気が合わない。休日の過ごし方でも意見が割れる。出かけたい母と、家でのんびりしたい父と、毎回の小競り合いがある。
いっそ分かれたほうがいいのでは、と思うのだが風がおじいのところへ来て、その前に姉が嫁いでいったため、今は二人で暮らしている。
結婚に向いていないのは、両親譲りかもしれない。と、風は勝手に思った。風自身も、婚約までした相手がいたが結局は解消しておじいの家で同居することになった。
実家に帰って両親と住むには、心が疲れすぎていた。絶えず小さなが衝突あり、母の不機嫌と父の戸惑いの中に身を置くのは無理だったのだ。
茉莉花の両親のように、にこやかに過ごせる相手と巡り合えたらいいのに。なんとはなしに、ケアマネの顔が浮かんだが風はあわてて首を横に振った。
テーブルには、海鮮ちらしと夏野菜の揚げびたし、ローストビーフ、吸い物には茗荷を入れた。それから、枝豆や小さめにカットした茹でトウモロコシ。食後のデザートのケーキとスイカは冷蔵庫で冷やしている。おじいが食べやすいよう、ちらしにはとろろが添えた。
なごやかに乾杯が行われて食事が始まった。おじいを挟むようにして左右に風と凪が座り、向かい側は茉莉花の両側に両親が座った。ふだんのおじいを見ることのない凪は、おじいの一挙手一投足にどこかハラハラと落ち着かない視線を送った。
「凪、そんな心配そうな顔をするな。落ち着いて食え」
「う、うん」
返事はするものの、おじいが箸でつまんだ茄子やオクラを落とすたびに、凪はうろたえる。いっそ、滑稽なほどに。
「凪おじさん、落ち着いて。ゆっくりとだけど、おじいは一人で食べられるよ」
茉莉花に言われて、凪はうなずいてグラスのビールを一気にあおった。
「ちょっ、父さん。あんまりお酒強くないんだから」
「叔父さん、むかしから変わらないのね。銀行の支店長さんなのに。いつもどこかちょっと不思議」
美枝子が凪に話しかけると、凪は顔を赤くして頭をかいて、ありがとうという。
「ほめてない、ほめてない」
風が父をいさめると、おじいが続ける。
「支店長は年功序列でなっただけだろう」
「もう十年ほどになりますが、謹吾さん」
父も一応応戦するが、風は正直言ってなぜ父親が支店長になれたのか疑問でしかない。家では母親に押されっぱなしで、自分の意見ひとつ言わない父なのだ。
それでも、大人数で囲む食事は楽しいものだった。料理はみなの腹におさまり、バースデーケーキも冷やしていたスイカもきれいに消えた。残りのスイカは、橋元家へ渡して、六時前に茉莉花たちが家路についた。
「父さんは、もうちょっと酔いを醒ましてから帰った方がいいよ。送るからね」
「しっかりしろ、凪」
おじいにどやされながら、凪は眠そうに椅子の上で体を揺らした。
キッチンはみんなで協力して片づけ終わっていたので、風は人数分のコーヒーをドリップした。少しは凪の目覚ましになるだろうと、カップを用意した時、不意に玄関が開く音がした。
「いい香りがするな」
振り返ると、竜幸がリビングにいた。