再びの春 桜とふきのとうの天ぷら 2
四月の最終日曜日、葛城家ではささやかなお花見会が開かれた。
桜は満開を迎え、ほのかな芳香が狭い庭に流れた。風は縁側の掃き出し窓を大きく開けた。よく晴れて日差しが暖かい。
凪と竜幸が庭に椅子を数客と小さなテーブルを出して、場のセッティングをした。
「天気が良くてよかった。これなら、おじいもあまり寒くない」
お昼前から、ゆるゆるとお花見が始まった。
凪は昼食まで休むと言って奥の部屋に行ったし、茉莉花は午前中は部活だ。竜幸はリビングのテーブルでノートパソコンを開いて、阿附て急ぎだという仕事をしている。
「コーヒー飲む?」
風は料理の仕込みをいったん休んで、二人分のコーヒーを淹れた。お茶請けにはいつもの小さなクッキーに、今日は桜餅も添えた。いわゆる関東風の桜餅で、道明寺とは違って桜色の薄い餅で餡をくるんだものだ。
「ちょっとずつ食べて」
「わかってるって」
おじいは黒文字で小さく切ると、口に入れた。
「桜の香りがほのかにする。うまいよ」
「母さんからの差し入れ。あとから来るって言ってた」
母は母で、洗濯を済ませてから寄らせてもらうと言っていた。母が洗濯を担当してくれるおかげで、風たちの家事への負担が減って助かっている。
「あー、ずるい。桜餅、俺にも出してくれよ」
竜幸がパソコンの画面から顔を上げて風に抗議する。はいはい、と風はおじいのとなりから腰を上げると、竜幸にお茶と菓子を提供した。
「台所から、いいにおいがするな。炊き込みご飯か」
「たけのこご飯を炊いている。それで稲荷ずしを作るんだ。あとは、ふきのとうの天ぷらと……」
「バッケか。よくあったな」
おじいはふきのとうのことを、ばっけと言う。地元の言葉だ。
「竜幸さんが、こないだ出張先から買ってきてくれて」
「ばっけだけじゃないだろ。チョコレートも、羊羹も買ってきたんだから」
竜幸はお茶を飲んで、風に抗議する。蟹も買ってきてもよかったのにと風は胸の中でつぶやく。竜幸はさすが甘党、すでに桜餅は皿の上から消えていた。
「チョコレートは昼ごはんが終わったら、デザートに出しますよ。頑張って仕事を終わらせてください」
そう風が励ますと、竜幸は満面の笑みでうなずいた。風は「手伝ってもらうので」という言葉はあえて言わなかった。
「これ、全部作るのか? こんなに料理を作っても、おじいには食べきれないだろう」
竜幸が冷蔵庫の扉に貼られた、今日の献立を指差す。
献立のメモには七品書かれてある。
こごみのクルミ和え。わらびと油揚げの炒め煮。たけのこご飯の稲荷ずし。錦糸卵のうな丼。ばっけみその田楽。菜の花の辛し和え。そして、ふきのとうの天ぷらだ。
「おいしいものを少しずつ食べてもらうんだ。料理は下ごしらえを昨夜からしてあるから、そんな手間じゃないよ」
「で、俺が今すり鉢ですっているのが、こごみに合わせるクルミなのか」
脇の下にちょうど挟めるくらいのすり鉢で、竜幸はクルミをすりつぶしている。
「早くに作りおきすると、水っぽくなるから」
そうか、と竜幸は素直にすり鉢を抱えてすりこ木を動かしている。聞きなれない声がして、リビングを見てみると、縁側に腰掛けた近所の老人がおじいと話し込んでいた。
「竜幸さん、おじいのところにお茶とお菓子を持って行って。お客さんが来てた」
長い冬が終わって、ようやく迎えた春だ。家に閉じこもっていた年配者たちも外に出てきている。近所とはいえ顔を合わせることのなかった同士が、久しぶりに会ったのだ。話も弾むだろう。
竜幸がお茶を配膳して戻ってくると、早口で興奮気味にまくしたてた。
「あの爺さんは八十だってさ。でも冷静に考えたら、あの人が生まれた時にはおじいは二十歳だったんだな」
話を聞くに、どうやらおじいの教え子だったらしい。
同じような爺にみえても、すげえ年の差だよな、とだいぶ失礼なことをいうと竜幸はすり鉢の作業を再開した。僕が生まれたとき、竜幸さんは三十くらいでしたよ、と風は言いそうになったが発言は控えた。
「そういえば、おじいが竜幸さんは自分と同じくらい長生きするんじゃないかって言ってましたよ」
竜幸はもうすぐ還暦のはずだが、見た目だけなら四十代といっても通じるくらいだ。風の父親のほうが年下だが、ふたりの見た目年齢は逆転している。竜幸はどうも老けにくいようだ。
「あー……ほどほどでいいけどな」
あまり興味なさそうに竜幸がぼそりとつぶやいた。風は続けて尋ねた。
「じゃあ、幾つくらいがいいんですか?」
「……九十九とか」
「一才しか違わないじゃないですか」
風があきれて言うと、竜幸が眉間にしわを寄せて抗議した。
「百までとか、無理無理。おじいみたいに、ボケもせず、体の自由がほどほどに利くならいいけど、ベッドに寝たきりとかなったら、生きているっていえるか」
「そりゃまあ、確かに。楽しみは少なさそう」
反論はできかねる風は歯切れ悪く、揚げ物の準備を始めた。
おじいのようにボケもせず、自分が生きた百年を忘れることなく生きるのは、それはそれで酷なことかもしれない。
「だから、百までは生きなくていい。生きる自信がない」
ごりごりとクルミをする手を止めずに竜幸が言う。
「おじいだって、自信があって百過ぎまで生きてきたわけじゃないですよ、きっと」
生きる期限を決められるわけではないし、人は自分がいくつまで生きるかなんて、分かるはずもない。
風の高校の同級生も、何人かすでに欠けていると友人から伝え聞いた。
「献立はおじい中心に作ったんだけど、それだと物足りないだろうと」
風が下味をつけていた鶏肉に片栗粉をまぶしていると、おじい、ただいま! という元気な声がしたかと思うと、玄関を開けて足音がキッチンに駆け込んできた。
「おなかへったー!! あ、カラアゲだ」
キッチンに顔を出した茉莉花は風が揚げる唐揚げに目が釘付けになった。風が竜幸に視線を送って無言でうなずく。
「ああ、マリカちゃん用ね」
さっそく揚がった一個目に茉莉花はかじりついた。
「あちあちっ!」
足踏みしながら、茉莉花は唐揚げを食べる。
「髪型が変わって大人びたかなと思ったけど、まだまだ子供だな」
「えー、ポニテ、みんなに好評だよ」
三年生になって、髪型を二つ結いからポニーテールにした茉莉花は、外見の変化ほど中身は変わっていない。
「それより、手を洗ってきてよ」
風に促されて、茉莉花は洗面所へ手を洗いに行った。
「風、これくらいでいいのか」
竜幸はペースト状になったクルミを風に見せた。風はうなずいてすり鉢を受け取った。
昼ごはんの準備は、茉莉花も参加して手際よく進んでいった。
それぞれの料理を小鉢や平皿に小分けしたが、おじいの容器は更に小さく、ほんの一口くらいの分量にした。もちろん、お代わりの分もきちんと取り分けてある。
「お稲荷さん、おいしそう」
炊きあがった竹の子ご飯を甘辛く煮た油揚げに詰める作業は、茉莉花が担当した。そうしている間にも、ときどき唐揚げをつまむので、唐揚げの山は徐々に低くなっていく。
「茉莉花ちゃん、口を動かさないで手を動かして」
風に注意されて、はーいという呑気な返答をする。竜幸は、こごみのクルミ和えを小鉢に少しずつよそっていった。
「こごみを食べるのは、久しぶりだな」
「今は産直へ行けば、山菜も手に入れやすいから。タラの芽はまだ出てなかったけど」
風が入れ替えた油でふきのとうを揚げる。ほんとうはタラの芽もあればよかったのだが、季節がまだ早かった。
「旬のもの、食べられるのは贅沢だから。見ようによっては、すごいご馳走だと思う」
「そりゃそうだな」
竜幸が薄焼きの卵焼きを慎重に細く切って、錦糸卵を作っている。おじいの好物のうなぎと合わせて、小鉢の中に細切りのうな丼を作るのだ。
「夏樹さんは後から来るのか」
包丁を使うさまが板についてきた竜幸が風に聞いた。
「母さんはもうじき来る頃だけど。何か料理を持ってくるかな。なくてもいいけど。父さんは起こして顔くらいは洗わせないと」
「ふうちゃん、わたしの作ったデザートはママが持ってきてくれるって」
茉莉花が稲荷ずしを作り終わり、手を洗っている。風は、器によそった分からテーブルに並べてくれるよう茉莉花にたのんだ。
「マリカちゃんの作ったデザートって、なに?」
「それは、まだ内緒。楽しみにしてね」
茉莉花は去年一年で、料理の腕がだいぶ上がった。今では時々お菓子を作って、部活の終わりにみんなと食べたりしているようだ。食卓に自分が作ったもの以外のものが並ぶのは嬉しいと風は思った。茉莉花は鼻歌を歌いながら、料理をテーブルに並べた。
準備が整ったあたり十二時を回って、風の両親と茉莉花の母親もおじいの家に集まってきた。
満開の桜がほろほろと散る。
「一本しかないけど、きれいね」
「一本しかないから、よけいにきれいに見えるのかもね」
母親の言葉に茉莉花が応える。おじいはそんな二人を見て、目を細めた。
「さあ、いただこうか」
おじいの短い挨拶ともつかない言葉で、食事が始まった。
「桜とふきのとうの天ぷら」は次回の3までです。




