再びの春 桜とふきのとうの天ぷら 1
朝、小鳥の声が聞こえるようになった。吹く風はまだ冷たいが、梅がようやく咲き始め、春が来たことを知らせる。
最近のおじいは、朝の目覚めがゆっくりになった。一年前なら、風よりも先に起きてコーヒーを淹れていることもあったのに。
「おじい、ごはん多かったかな」
「いや、そんなことはないよ」
気づけば、食事の量も少しずつ減っている。今朝も小振りの茶碗に盛ったごはんを三分の一ほど残していた。まだおかずと味噌汁を完食しているから、よしとすればいいのか。風は眉間に寄せたしわをおじいに見せないように背を向けた。
「風、ケアマネさんに話して欲しいんだが」
食後、薬を飲み終わったおじいが、片づけをする風に声をかけた。
「なに」
「デイサービスの回数を減らしてもらえないかな。最近どうも、疲れやすくてな」
「……うん、わかった。相談してみる」
このごろのおじいが疲れ気味なのは感じていた。デイサービスから帰宅すると、夕食までベッドで休んでいることがほとんどだ。
トイレへ行ける回数もここにきて減ってきている。夜の排泄はほとんどがおむつ頼みだ。
少しずつ、少しずつ、弱っていっている。それは否定できない。
「そうだ、おじい。桜が咲いたら、お花見しようって茉莉花が張り切っていたよ」
「それは楽しみだな。今年もなんとか、桜までたどり着けそうだ」
「来年も、たどり着けるよ」
風は食器をシンクへ運んだ。来年の桜はおじいを待ってくれるだろうか。
桜のつぼみは、もうすぐほころびそうだ。おじいは、秋に再会した同級生のことを思っているのだろうか。桜を見る約束がかなわなかった人のことを。
終わりなくめぐる季節も、最後があるのだ。誰にも。
風は食器を洗って洗いかごへあげていった。
デイサービスのことで、新しいケアマネに風は電話をした。
「最近、疲れるらしくて。ええ、それでデイサービスの回数を減らしてもらえないかと」
太田の後任は、茉莉花の母親くらいの女性だった。藤田という前髪にだけ白髪が目立つ女性は、ベテランらしかった。
でしたら、と藤田は明後日の面会を申し出たので、昼番の風が対応することになった。今日は水曜日で元からおじいのデイはお休みだ。明日の通所は休むことにして、金曜日に藤田と話し合うことになった。
「いま、謹吾さんの介護は、お二人で?」
「たまに、もう一人が来てくれているので、三人です」
そうですか、と藤田はバインダーのノートにメモを取る。藤田は度のきついメガネを押し上げ、しばし黙った。
「葛城さん、非常に言いづらいことですが」
「はい」
「おそらく、この先、謹吾さんの食欲は緩やかに減退していくと思います」
藤田にそう言われても、風は素直に首肯できなかった。返事のないことで察したのか、藤田は風に疑問を投げかけた。
「風さんは……おじいさまが今後食欲と元気を取り戻し、以前のようにご自身の足で歩くことができると思っていますか」
風は返答に詰まった。
「それは、無理ですよね」
風はなんとか答えを口にした。藤田は風をまっすぐに見てうなずいた。
「無理なんです。もとには戻りません。そして衰えていくのが、自然です。謹吾さんの年齢を考えれば」
残念なことに、と藤田は顔をわずかに伏せた。
「延命治療については、すでに話し合われているのですね」
年の初めにおじいが入院した時に、それは親族とおじい本人とで話し合い決めてあった。
「延命はなしでということで合意がとれています。おじいは、百歳すぎまで生きたのだから、十分だと言っていました」
そうですか、うなずくと藤田はおじいの資料を行きつ戻りつページを繰った。
「通所は減らしましょう。それでですが、ショートステイを使われてみてはいかがですか。いくら介護を三人で回しているといっても、葛城さんたちにもお休みは必要です。幸い、利用登録は澄ませていますから」
「あの、でも、もしよそに預けることがストレスで、祖父の体調が悪くなったら」
もしも、それがもとで命を縮めることになったら、と風の胸の中に不安が生じる。
「いままで、ずっと風さんはみてらしたのですものね。前任者からの申し送りからも、風さんが家事一切もふくめておじい様のことを手厚く介護されてきたことが十分に伝わります」
風は瞬間、目から涙が落ちるかと思った。誰かから褒められたくて祖父と同居していたわけではない。けれど、祖父との暮らしの内情をきちんと理解してくれる人がいるのだ。
太田がどんな申し送りをしたのか、風には知る由もないが、後任の藤田に伝えてくれた。
「おじい様の介護がまだどれほど続くのか、私どもにもわかりません。長丁場を予想した時、介護する側が倒れては元も子もありません。風さん、風さんたちの健康を守ることは、おじい様をないがしろにすることではないんですよ」
藤田が言うことはもっともだ。それでもまだ、風は首を縦に振ることはできなかった。
「父たちとも話し合いをしたいです」
風はうつむいて答えた。じぶんの指先がとても冷たくなっていることに気づいた。
父親の凪とも話し合ったが、結局はショートステイーへ預ける決心がつかなかった。おじい本人にも聞いてみたが、いろよい返事ではなかった。
「わがままを言って済まない。できればこの家にいたいんだ」
おじいがそういって頭を下げた。そうまでする百歳越えの老人の意に反することはやはり出来ない、という結論に至る。いままでは、どちらかといえば家族に迷惑をかけたくないというのが常だったおじいが家にいることを望む。わがままをあまり言わずに来たおじいなのだ。
それを思うと、ほんの数日であってもよそに預けることは躊躇われた。
「風、外に連れて行ってくれないか。今日は晴れて暖かいから、外に出てもいいだろう」
おじいが風に声をかけた。おじいは、結局デイサービスを五回から四回に減らした。今は、月火木土に変えた。
「桜はまだだけど」
風はおじいに上着を着せ、毛糸の帽子を頭にのせた。風邪をひかせないよう、気を付けなければならない。リビングから庭に出ると、あたたかな日差しがあふれていた。
「家の中よりも外のほうが暖かいな」
おじいは眩しそうに空を見上げた。風は庭の桜の木の下に、おじいの車いすを押していった。桜の木は、蕾がゆっくりとふくらんできている。この時期の桜は、蕾だけでなく木の枝もほのかに桜色に染まっている。
「桜の花が見られそうでうれしいよ。風や家族のみんなの手を煩わせてしまっているが」
「そんなの気にしないで」
「でもな、三人とも目の下の隈が濃くなってるのを見るとな」
風は思わず自分の顔を手でなぞった。鏡がないのだから見えはしない。けれど、そんなに疲れた顔をしているのだろうかと自信をなくす。
おじいの前では、変わらずにいようと意識しすぎているせいだろうか。
「そんな顔するな。桜が咲いたら、花見をするんだろう。楽しみだよ」
うん、と風はうなずいた。花見の献立を考えてはいる。けれど、おじいはどれほど食べられるだろうか。
「リクエストしてもいいかな。鰻が食べたんだ」
「鰻? 細かく刻んでもいいかな」
「それは任せるよ」
そうか、鰻か。おじいの好物だ。ひつまぶしみたいにするか、卵焼きの芯にしてう巻きにしてみるか。
それから、春らしい食材も使いたい。
風が献立を考えていると、おじいから小さく笑い声がもれた。
「風は料理のことを考えているときが、いちばん楽しそうに見える」
「そりゃ、食いしん坊に囲まれて生活していればね」
しょうじき、おじいと暮らすようになってから、料理のレパートリーも増えた。ふだんの料理からデザートまで。ここに同居を始めてから、ずいぶんと作ってきた。
「一食一食が楽しみだよ」
おじいが微笑む。風はおじいとあと何回食卓を囲めるだろうかと考えていた。
たとえ食欲が落ちても、おいしいものを少しずつ食べてもらえたらいいと風は思った。