再びの春 ホットケーキの作り方
「やっほー、見て! スマホ、ようやく来たんだよ」
茉莉花が元気よくリビングに入ってきた。
「ほら、ほら、おじい写真撮らせて」
茉莉花はおじいにスマホをむけて、ピースしたおじいの姿にシャッターボタンを押す。
「ありがとう、おじい」
と、一連の動作を終えて、茉莉花はリビングの静り具合にようやく気づいたように、口をつぐんだ。
「どうかしたの? ふうちゃん、元気ないよ」
ぼんやりとした表情で椅子に座ったまま動かない風を見て、心配そうに茉莉花は声をかけた。
ふだんの風なら、茉莉花が来るとすぐにお茶かコーヒーを出してくれる。それが今日は椅子から立ち上がりそうもない。
「そっとしといてやれ。風は今日、大変だったんだ」
竜幸が茉莉花に小声で一時間ほど前の出来事を、かいつまんで教えてた。
「そっか……うん、失恋、つらいよね」
「そんな元気な声で言われても」
風はテーブルに突っ伏してしまった。
「じゃあ、わたしがホットケーキ焼いてあげるから、元気出して」
それは、茉莉花がおやつに食べたいからだけでは、と風は思ったが、風が止めるまもなく茉莉花は部活のジャージのままでキッチンへと移動してしまった。 あとは、勝手知ったる他人の勝手で、キッチン奥のパントリーからホットケーキミックスを持ってきた。
「茉莉花ちゃん、ホットケーキを一人で作ったことって」
「ない。けど大丈夫だよ、いつもふうちゃんが作るの見ていたから」
それは、ほんとに見ていただけで、ことホットケーキに関しては茉莉花は食べる専門だった。
風の一抹の不安をよそに、茉莉花は冷蔵庫から卵と牛乳を取り出すと、ボウルに材料を全部入れて泡立て器で混ぜる。しかし、ときおり小さく粉の煙があがるし、そのタイミングで茉莉花が、あっとかえっとか悲鳴にも似た奇声を上げる。
ますます不安になった風は、伸び上がってキッチンをみようとした。工程は進み、 フライパンを電磁調理器にセットし、焼きに入ったようだ。最初こそバニラのいい香りがしていたが、風がやきもきしている間に、焦げくさいにおいに変わった。
「ふうちゃん、ぬ、ぬれぶきんってどこにあるのっ」
茉莉花のあせった声に、風もあせる。
「ふきんを水で濡らせば、ぬれぶきんだよ」
風はあわてて立ち上がると、茉莉花のもとへ行った。 フライパンの中のホットケーキは見事に焦げ茶色だった。そのくせ、半分に割ってみると中は生焼けだ。
「ごめんなさい」
しょんぼりと茉莉花はうなだれた。
「あやまることないよ。よくある失敗だから。ぼくが作ろうか」
「ううん、わたしが作る。作り方、教えて。いつまでもふうちゃんにだけ作ってもらうわけにいかないもの」
前だったら、風にバトンタッチしていただろう。ようやく念願のスマホも手に入ったのだ、スマホで遊んでいてもおかしくないのに。茉莉花なりの風への思いやりなのかもしれない。
「うん、わかった。やり方さえ覚えれば、最高のホットケーキが焼けるよ」
風は、茉莉花に作り方を伝授した。フライパンは熱くしすぎないこと。フライパンから煙が上がるようなら、熱しすぎ。中火よりちょっと低くしてゆっくりじっくり火を通すこと。表面にぷつぷつとたくさん泡ができてからひっくり返すこと。
「そうすれば、生焼けは防げるよ」
「ほんとだ、きつね色に焼けてる」
ひっくり返したケーキを見て、茉莉花が歓声を上げる。
「それで、フライパンが熱すぎるようだったら、ぬれぶきんにあげて、いったんフライパンの温度を下げる」
そうすれば、こげこげの出来にはならない。
「うん、これならやれそう。ふうちゃんは、座ってていいよ」
座ってて、といわれても不安が先立ち、風はとりあえず洗い物などしながら、茉莉花の隣にいることにした。
「ふうちゃん、ホットケーキが自分で作れるって、ステキなことだね」
「そうだね」
「食べたいときに、焼けるんだもん」
ふふふっと笑った茉莉花は、鼻をくんくんと動かして、いいにおいと言った。こんどはバニラの甘い香りがキッチンを満たす。茉莉花は要領を掴んだようで、つぎつぎと黄金色のホットケーキを焼いていく。
「幸せだなあ」
と、口にしてから茉莉花は、はっとしたようにして風をみた。
「ごめん、ふうちゃん失恋したばっかりなのに、幸せとか言っちゃった」
ターナーを上げたり下げたりして、茉莉花が風にわびた。
「いいよ、いいよ、そんなに不幸でもないし」
風は力なく笑ったが、気持ちはだいぶ落ち着いてきた。
黙って座っているより、やはり手や体を動かしたほうが気が休まる。
「あのね、ふうちゃんはいつも幸せをくれてるって思うの、わたしやみんなにね」
「ん?」
「美味しいごはんやお菓子を食べながら、怒る人なんていないよ。おいしいね、おいしいねって笑顔になるもの」
不意に風は胸を衝かれた。
――葛城さんのおうちにお邪魔するのが楽しみでした。
風のあずかり知らぬところで、太田は苦労していたとしてもおかしくない。社会人なのだ、悩みや職場での軋轢の一つや二つ、あっただろう。
そんなとき、自分とおじいのところで一息ついていたのなら。
太田の幸せに、いくらか寄与できただろうか。
「ふうちゃん?」
茉莉花に名前を呼ばれて、風は頬に涙が流れているのに気付いた。
「やっぱり、座ってて! お願いだから、無理しないで」
「ううん、いいよ。ここにいるほうが、なんだか気が安らぐ」
風は涙をぬぐうと、コーヒーミルで豆をひいた。
おじいが言う。自分は妻を幸せにしてあげられただろうか、と。その意味が初めて風に実感として伝わった。
彼女を幸せに、できていただろうか。
「まいったな、涙が止まらないや」
太田は幸せになる、きっと。自分の手の届かないところで。それでいいのだと思った。
竜幸がボックスティシュを風に差し出す。風はありがたくいただいて、鼻をかむ。
ホットケーキはどんどん焼きあがる。きつね色の丸い形が積み重なる。
「幸せだね」
風はホットケーキの厚みを指で計ると、ボックスティシュを竜幸に渡した。
「おまえ、えらいよ。二十歳すぎた男が人前で泣けるなんてな」
「馬鹿にしてません?」
「してねぇよ」
竜幸は風の頭を少し撫でた。風は遠い昔を思い出した。竜幸が幼い自分をかわいがっていたころのことを。
近くの公園で、いつまでもブランコから降りない風につきあって、夕方遅くまでいてくれたこと、両親がいい顔をしなかった、駄菓子屋へ連れて行ってくれたこと。そんなことを思い出した。
「そろそろ届くかな」
竜幸がぼそりとつぶやいた。
「え、何が?」
風が聞き返すと、竜幸は意味深に笑った。
「夕飯が」
何も覚えがない風は首をひねった。
「夕飯なら、仕込みはしてあるんだけど。豚の角煮丼」
竜幸が眉間にしわを寄せて、風を見つめた。
「おまえ、自分が失恋するってわかっている日の晩飯、準備してたのか」
「うん、たぶん作る気も起きないくらい落ち込むだろうから準備した。とりあえずおじいと父さんには食べさせないと駄目だから」
竜幸は眉間を指でもみつつ、ため息をついた。
「そんなのなあ、気にしなくていいんだよ」
そういわれても、と風が応えると呼び鈴が鳴った。
「来た来た」
竜幸は玄関へと行ってしまった。
「ねえ、ふうちゃん。角煮丼、食べたい」
ホットケーキを焼き終えた茉莉花が、恥ずかしそうに頬を染めて風にお願いした。
「いいよ、もちろん」
やった、と茉莉花が小さくジャンプした。茉莉花とホットケーキをテーブルに運ぶと、リビングの引戸が開いた。
「こんばんは」
「母さん」
なぜか、そこに風の母、夏樹が立っていた。その後ろに二段の寿司桶を抱えた竜幸がいる。
「お鮨、特上。頑張ったんでしょう、今日。安心して、お代はお父さんとワリカンだから」
そう母が話す間に、寿司桶が並べられた。ネタが見るからに上等だ。うにや数の子、いくらの軍艦、マグロはもしや大トロか。風はつばを飲み込んだ。
「マリコちゃんも、食べて行ってね」
「母さん、茉莉花ちゃんだよ……」
風は、いつまでも茉莉花の名前を覚えない母にあきれながらも、さっきまでの悲しみから、食欲のほうへ簡単に意識がシフトしてしまった自分に苦笑した。鮨から目が離せない。我ながら現金だ。
「すごーい、ごちそう。でも、ふうちゃんの角煮丼もお願い」
言われて風はようやく体を動かした。電磁調理器の端に置いておいた鍋に火を入れた。そのうち、夜番の凪も起きてきた。
鮨と角煮丼、それからホットケーキが並んだ食卓を見て風は一言もらした。
「なんだか、カオスだな」
「でも、おいしそう」
茉莉花が満面の笑みで、小さめのどんぶりを両手で囲う。寝ぼけ眼の凪、お茶を配る夏樹、おじい用にはちらし寿司が注文されていた。
「食べましょう」
夏樹が静かに宣言するように、食事の開始を告げた。
そこからは、みんなが笑顔だった。
残り二話です、たぶん。