再びの春 花嫁のマカロン 1
土曜日の午後。
こんにちは、とリビングに入ってきた茉莉花がダイニングのテーブルを見て足を止めた。
「ふうちゃん、これどうしたの」
小首をかしげて風へ視線を向ける茉莉花に、風は眉間にしわをよせキッチンへ入った。
「食べてくれ、マリカちゃん。もうこの一週間、風がマカロンばっかり作って」
竜幸に言われて、茉莉花は表面にヒビが入ったピンクのマカロンを一つとって口に入れた。
「チョコレートのクリームがサンドしてある。わっ、おいしい。おいしいよ、ふうちゃん」
「あ、ありがとう」
風はぎくしゃくと返事をして、茉莉花のまえにミルクコーヒーを置く。
「でも、なんでマカロン? ホワイトデーは昨日だったよ」
そうだね、と風はうなずくと、またキッチンへそそくさと移動した。
「ほんとに、ふうちゃんどうしたの」
「それな。もうすぐ世話になっているケアマネが引退するんだよ。覚えている? ケアマネさんのこと」
竜幸に言われて、茉莉花が少し目を見開く。
「あ!」
茉莉花が小さく声を上げた。そういってから、数回首を縦に振る。以前耳にした、風と太田のことを思い出したのだろう。
「もういいから。そうだよ、太田さんへの贈り物にしたくて練習しているんだよ。うまくできないから」
さまざまな羞恥に耐え切れず、風は抗議の声を上げた。
「え、これで失敗なの? とってもおいしいよ」
茉莉花はさっそく二つ目を手に取り、さくっと噛んでうなずく。ついで、うんざり顔の竜幸もマカロンに手を伸ばす。
「表面にヒビが入っているだろう。表面が滑らかにできないと成功じゃない」
太田には、完璧な仕上がりのマカロンを贈りたいと、風は毎晩練習を重ねていた。
マカロンづくりにチャレンジして、風は初めてマカロナージュという言葉を知った。
深夜2時、風はマカロンのレシピと動画を見ている。
画面の真ん中のボウルではマカロンの手順が説明されながら、ゴムベラが動いている。
一度、泡立てた卵白をなぜか潰すように粉と混ぜこむ。その状態がマカロナージュだ。卵白の泡を押し潰す。そうしないと焼いたときに膨らみすぎた表面が割れてしまうのだ。
「難しい……よな」
風はマカロン作りを解説する動画を、ここ数日何種類も見ては、試作を重ねている。おかげで、今週のコーヒーのおともは失敗したマカロンばかりだ。
いまのところ、表面にできるヒビとの闘いが続いている。間に挟むガナッシュは自分でもうまくできていると思うのだが、マカロンはまだ満足する出来には至っていない。そんな試行錯誤を繰り返している。
風は夜番のとき、ベッドには入らず起きていることにした。
そして起きている間にできることをするようになった。
たとえば、調理の下ごしらえ。野菜の皮をむいたり、切ったり、下茹でをしてタッパーに詰め、冷蔵や冷凍をしておく。
料理にとりかかる手間が省けて、調理への億劫さが軽減される。
キッチンの隣は壁を隔てて、風の仕事部屋だ。仕事部屋には、朝番の凪か竜幸が休んでいるので、できるだけ音を立てないように静かに作業する。
ついでに菓子作りもするようになった。気分転換にちょうどいい。たとえば、いつでもお茶うけにだせるクッキーや、カップケーキ、パウンドケーキも焼く。プリンをオーブンで蒸し焼きすることもあるし、冷蔵庫にゼリーや牛乳寒を作って入れておく。
食事のあとに出される小さくて甘いものは、じわじわと疲弊したからだを優しく癒してくれる。
たまに風は、夜更けに一人口にすることもある。
おじいの声を聴き落とさないように、耳は澄ませている。風が庭の桜の葉や枝をゆするざわめき。たまに外を通る車や猫かなにかが庭を横切る音なども聞こえる。
太田が葛城家にやってくる最後の日が近づいている。以前のような親しみを込めた会話はなくなった。太田は介護予定表を提示し、事務的な説明にとどまる。最後に出される風お手製のお菓子も、やはり無言で口にしてあとは静かに帰るだけだ。
「太田さんとのミーティングが終わったら、イチゴのショートケーキを出そうと思っているんだ」
最後は、シンプルなケーキをごちそうしたい。イチゴは春らしさを感じられるし、いいと風は思う。
「わたしも作りたい!」
茉莉花が元気よく手を上げる。
「よし、じゃあおじさんと材料を買いに行くか」
竜幸が誘うと、嬉々として立ち上がった茉莉花は、竜幸とリビングから出ていく。
「ちょっ、竜幸さん。茉莉花ちゃんを甘やかすなって、美枝子さんから言われてるって」
茉莉花の母親からの苦言を伝えたところで、どれほどの効力があるだろう。風の言葉など二人には聞こえなかったようだ。
「まあ、イチゴを買ってきてくれるならいいか」
夕食の仕込みに取り掛かると、家の奥からがたがたと音がして、寝ぼけ眼の凪が現れた。
「うるさい……もうちょい静かにしてくれ」
夜番の凪は、風の仕事場で寝ていたのだ。
「ごめん、騒がしかったね。ねえ、父さん」
「ん?」
「土曜日はどうしたって、にぎやかになるから家に帰って休んだ方がいいんじゃないかな」
おじいの家と凪の家とは、徒歩でも十分程度の距離だ。そちらには、風の母しかいないので、はるかに静かでよく眠れると思う。凪はふらりとテーブルにつく。
「そりゃそうだが」
凪は頬杖をついたままで、あくびをした。風は二人分のコーヒーを淹れると、凪の向かい側に座った。
「夏樹さん、こういっちゃなんだけど、家事はあまり得意じゃないだろう」
できないことはないけれど、得意ではないのは分かっている。高校時代の風の弁当は、最初こそ夏樹が作ったが、毎朝五時起きで取り掛かっても、七時になっても終わらない。結局、風と凪と交代で三人分の弁当を作った。ボタン付けは母に頼むより自分でやったほうが早いと、風は自分でソーイングボックスを持ってきた。
「それで、こっちの分の洗濯物をするんだけど、バタバタしてうるさいんだ。たぶん掃除をしていると思うんだけど。気になって眠れない」
なんとなく察するものがあって、風はうなずいた。それなら、こちらで休むのがまだ良いのかもしれない。
「なるべく静かにしたいけど、土日は来客が多くて。明日から、夜番が交代だから」
「まあ、そろそろ起きるつもりだったけど。おじい、帰ってくる時間だろう」
時計を見上げると、もう四時近くなっていた。そろそろおじいがデイサービスから帰ってくる。
「夕飯、作らないと」
「今夜の献立は、なんだ? 昨夜あたりから、なんだかいいにおいがしていたけど」
「圧力鍋で豚の角煮を作っていたんだ。箸でもほろほろって崩れるくらいの」
前夜から圧力鍋で角煮を作って、そのままにして味をしみこませていた角煮がある。皿にホワイトソースを流して角煮を盛る。周りには茹でたほうれん草を添える。会社員だったころに、同僚といった店で出された料理を真似て作ってみることにしたのだ。
土曜日は茉莉花と竜幸が顔を見せることがあるから、二人分多く作っている。残ったら残ったで、日曜日に食べればいいのでかまわないのだ。
それから冷凍のカリフラワーと人参の温野菜サラダに、なめこの味噌汁。あとはひじきと竹輪の煮物かな。風は頭の中で冷蔵庫の在庫を思い浮かべて献立を組み立てていく。
それじゃあ、と風が椅子から立ち上がったところで、玄関先からにぎやかな声がする。茉莉花と竜幸が戻ったようだ。
「ふうちゃん、イチゴ買ってきたよ」
「買ってもらったよ、だろ」
風があきれがちに言うと、茉莉花が罪のない笑顔を風に向ける。
「ケーキは、食後に作るけどいい?」
もう夕食を作る時間だ。ケーキ作りはそのあとだ。茉莉花はうなずくと、風と一緒に料理をするためキッチンへ入った。
「竜幸さんも、手伝ってよ」
へいへいと気のない返事をして、いまだ寝ぼけ眼の凪と向かい合わせに座ると、スマホを触りだす。
「そういえば、スマホ。そろそろ届いた?」
「来週には来るはずなんだ」
頬を明るく染めて茉莉花が返事をする。楽しみスマホ・楽しみスマホと節をつけて、袖をまくる。いつの間にか、茉莉花はいっぱしの風の助手に育っている。
「あのね、昨日先輩からバレンタインのお返しもらったんだ」
「よかったね」
うん、誠実な対応ができる子でよかったと風はうなずく。
「先輩、高校受験にも合格して、春から彼女さんと同じ高校なんだって」
茉莉花は冷凍庫からカリフラワーと人参を出すと、耐熱ボウルに両方を入れた。
「すんごいニコニコしてたよ。ふった女子が目の前にいるんだから、ちょっとは遠慮してよと思うくらいに。でも、よかった。わたしもなんだか笑っちゃったよ」
「そうか」
つくづくえらい、と風は思った。がんばって告白した茉莉花も、気持ちを受け止めてきちんと対処したその先輩も。
「これは若さによるエネルギーの差だろうか」
思わず小さくつぶやくと、茉莉花が振り向く。今夜は茉莉花の勇気をほめたたえて、ケーキを作ろうと思った。幸いというか、さきほどつやつやのイチゴを四パックも買ってきたようだから。
「ふうちゃん、野菜はどうするの」
「ラップして、レンジで温めて」
準備を進めていると、おもてで車が止まる音がした。
「あ、おじい帰ってきた」
「竜幸さん、迎えに出て」
手のすいている竜幸におじいの迎えを頼む。リフォームしたおかげで、車いすのおじいはスムーズに家に入れる。竜幸がおじいの車いすを押してリビングに入ってきた。
「おかえりなさい」
三人分の声がおじいを迎える。
「ただいま。おや、茉莉花、土曜日だけど来れたのか」
「うん、卒業式も終わったし、部活もちょっと少なくなったんだ」
そうか、そうかとおじいは相好を崩す。
「風、マカロンはまだ成功しないのか。おまえの好きな太田さんにプレゼントするんだろう」
もう観念するしかないと風は思った。自分の恋心がこうまで家族親族に知れ渡っている状態はいかんともしがたいけれど、受け入れるしかないと。
「今夜は豚の角煮です」
話題をそらそうと風は唐突に献立を宣言した。
すると、呼び鈴が鳴って玄関が開く音がした。
「洗濯物、持ってきたわ」
ばね仕掛けのように跳ね起きると、凪は玄関へ飛んで行った。
「母さん、一緒にご飯食べて行ってよ」
ホワイトソースを加熱していて鍋から離れられない風がキッチンから声をかけると、両親が何か会話をしている。少し長めのやり取りの後、夏樹は凪と一緒にリビングへ入ってきた。
「ごちそうになってかまわないの?」
「いいよ、多めに作ってあるし。ひとりだと、あまり料理も作らないでしょう、母さんは」
そうね、と母はうなずく。夏樹は食事にあまり重きを置かないから、ほっとくとおにぎりを食べて終わりになるのは目に見えている。
「座って待ってて。お父さん、お茶を出してくれる?」
夏樹はみなに頭を下げてから椅子に腰を下ろすと、テーブルの菓子を見た。
「マカロン、仕上がりはまだなのね。太田さんのご引退に間に合うの」
ん? と風は鍋をかき混ぜる手が止まった。なぜ、母が太田のことを知っているのだろう。父の凪を見ると、すっと視線をそらした。
「だって、風の好きな人でしょう」
ここにいる全員に知れわたっている。……受け入れるしかない。
風はそっと目を閉じた。
エピソード、入りきりませんでした。
なぜ、どうして。