再びの春 じゃがいものラザニア風ほくほくグラタン
おじいとの暮らしが再び始まった。
「すまん……」
深夜、おじいは隣のベッドで休んでいる風に小さく声をかけた。布団の中でまどろんでいた風は、はじかれたようにすぐ体を起こす。うっすらと寒さを感じ手足を動かしていると、意識は後からついてくる。
すぐにおじいのベッドの横に移動し、おじいが起き上がるのをサポートする。それから車いすへの移動、トイレへ連れて行くと、おじいはトイレの手すりにつかまって立ち上がるから、オムツを下げて便座に腰掛けるまでの一連の動作を風が手伝う。
オムツに用を足してもいいのだ。けれど、本人が動けるうちは、トイレで自力に用を済ませたいと思うのはおじいの自尊心を守るためだし、運動機能が衰えないようにするための訓練でもある。
そんなトイレのサポートが夜の間に二回か、三回。
風と父親の凪は、交代でおじいをサポートする。おおむね四日ごとに風と凪は【夜番】をすることにした。夜の時間帯、おじいがトイレに行きたいとき、すぐ対応できるように夜、となりのベッドで待機するのだ。
そのため、風の仕事部屋を整理し、折り畳みのベッドを入れた。【朝番】のほうは夜にこちらで休む。もちろん【夜番】のとき、昼間に部屋を暗くして眠ることができる。
おじいを家で看るにあたり、風と凪は市の介護勉強会に何回か参加して、介護の仕方を学んだ。起き上がること、車いすに座ることを手伝うことに、こんなに苦労するとは。勉強会へ出るまで、大変さを二人は知らなかった。今は要領が掴めたといっても、それなりに力が必要だ。やせた老人とはいえ、筋力があって動くことのできる五十キロと、そうでない五十キロは全然違う。
深夜の介護をおじい自身が遠慮して、水分を控えようとする。でもそれは体に良くない。きちんと水分は摂ってほしい。なんども三人で話し合いをした。おじいにはできるだけ「ふつうに」過ごしてもらいたい。
おじいをディサービスに送り出したあと、夜番の側は休憩に入り、朝番は部屋やふろ場、トイレを掃除して食事の用意をしておく。
先に風が夜番を担当した。今は凪が夜番をして、ようやく一セット目が終わる。
今日は、おじいが帰宅してから初めての日曜日だ。おじいはいつもの縁側の籐椅子に座り、昼食後の昼寝をしている。
凪は包丁を持ったままで、大きいあくびをした。
「昼は昼で、やることが多いもんだな」
凪は風とキッチンで話をした。
「食事を作るには、買い物へ行かなきゃならないし、なんならそれを買うお金を下ろしに行く時間も必要だ」
隣でじゃがいもの皮をむいていた風もうなずく。
「洗濯機をセットして洗って、干して、取り込んで畳んでしまって」
凪は玉ねぎの皮をむく、ため息ついでに愚痴をこぼすと、風が続ける。
「ごみを出すにも、分別しなきゃならないし、その前にはゴミ箱にセットする市専用のごみ袋に名前まで書かないといけない。細かな作業があるよ」
おじいの家がある自治体は、ごみ袋にフルネームを書かないと収集してもらえない。ルールが厳しいのだ。
「ふつうに暮らすって、とんでもなく労力が必要だな。それなりに家事をしてきた方だと思っていたけど、とんだ思い違いだった」
凪はさらに大きなため息をついた。それに、二人とも一週間を過ごして疲労がじわじわと体に来ている。まだ、たった七日なのに。
「一人きりで介護している人は、どれほど大変だろうな。日曜日だからって、休めないし」
風は凪の様子から、過去の認識が更新されているのだろうと感じた。風も同じ思いだった。家事は簡単ではない。終わりのない労働だ。そして介護もそうだ。いつ終わるのか分からない。
太田に、おじいは自宅に戻るべきなのだと、強く願って話したが、現実は甘くない。
「ところで、こんなに長いあいだ家を空けてもだいじょうぶ? 母さんひとりにして」
「……大丈夫、だと思う」
「なんだか、心もとないな。父さんは」
凪は、実父の世話は嫁にはやらせず、自分でやると言ってきた手前、家へ帰りづらいのだ。やる、といった割に、三日を過ごしてすでに疲れ切っている。
「おたがい、大変だったら家に戻って休ませてもらおうよ」
「風、おまえも実家に泊まるっていうのか」
「もしものときには、ね」
風が実家を出てから久しいが、こうなったら使えるものは使わせていただこうと腹をくくった。
「さてと、今日は茉莉花ちゃんが来るけど、何を作るんだ」
「じゃがいものラザニア風ほくほくグラタン」
三月に入ったとはいえ、まだまだ夜は冷える。ホワイトソース、じゃがいも、ミートソースと重ねて層にして、チーズを散らせばコクが出て美味しい。ミートソースはひき肉だし、グラタンは、おじいにも食べやすい柔らかさだ。
「風は、ほんとうに気が利く」
そんな会話をしていると、玄関のチャイムが鳴った。茉莉花がくるにはまだ早いが、誰だろう。父さんが出るよ、と言って玄関へ向かったがすぐに悲鳴に似た声があがった。
「夏樹さんっ」
「え、母さん?」
風も思わず声を上げる。縁側でうたた寝していたおじいの足が、びくんっと動いた。
「こっちのことは、気にしなくていいからって言ったじゃないか」
ずんずんと大股で家に入ってきた風の母、夏樹は追いすがる凪を振り切りおじいの前に立った。
「お久しぶりです、お義父さん」
夏樹は静かにおじいに頭を下げた。
「ああ、お久しぶりだね、夏樹さん。わたしの百歳の誕生会以来かな」
「すみません、生憎とこちらの家が苦手で」
あちゃーと風は額に手をのせて目をきつくつぶった。
「今回、わたし、お義父さんの介護は不要と凪さんに言われました」
「うん、そのようだね」
そうだよ、心配しなくていいよ、と凪は夏樹に言うのだが、夏樹はいまだ無視を決め込む。
「ですので、風の手伝いに来ました」
「は?」
風の口から間の抜けた声が出た。
「風の手伝いをする。洗濯か掃除っ!」
風の方を見て言い放つとすぐ夏樹は貧血を起こしたように、ふらついた。あわてて夏樹を凪が支えた。
「一気にしゃべるからー!」
夏樹を後ろから支えた凪が声をかける。
「母さん、無理しないで。ふだんろくにしゃべらない人が」
風もキッチンから出て母のそばへ駆け寄った。
「と、とにかく、掃除か洗濯なら」
凪の手をやんわり払って夏樹は姿勢を正す。
母の言葉に風は吹き出す。掃除か洗濯の限定ですか。もっとも、夏樹は料理があまり得意とは言えないので、正直と言えば正直なのだ。
「ありがとう、母さん。助かるよ」
夏樹の決意は固いらしく、きりりとしたまなじりも凛々しく……というか緊張しているのだろう。
「まずは、お茶を飲んでよ。それからすることをお願いするから」
夕飯は、プラス一人前だなと風は材料が足りるか頭で計算した。
「こんにちは!」
夏樹が来てから間もなく、茉莉花の元気な声がチャイムと同時に玄関からしてきた。
「介護の講習、受けてきたからな」
なぜか竜幸が茉莉花と一緒にリビングに現れた。
「そこでタツユキさんに会ったの」
茉莉花は部活のバッグやラケットを下ろすと、お茶を飲んでいる夏樹を見て、目を丸くした。
「こんにちは、マリコちゃん」
「母さん、違うって。茉莉花ちゃんだよ」
名前を間違えられて、きょとんとする茉莉花の後ろの竜幸がさらに驚いている。
「え、凪の奥さん、なんでここに」
「竜幸さん、こんにちは」
ティーカップを置いて、夏樹は挨拶をした。これと言って話は弾まない。気まずそうにしている茉莉花の前にミルクコーヒーを置く。
竜幸にはコーヒーと焼いておいたクッキーを出した。
「竜幸さん、講習を受けてきたんですね」
「そう、これで俺もルーティーンに入れるからな」
得意げに胸をそらす竜幸は、今日はブルーのスカジャンだ。
「ありがとうございます、心強いです。母は、掃除と洗濯を引き受けてくれるそうなので……といっても毎日じゃないでしょうけど」
「毎日するわ」
「いや、それ無理だから。できる範囲でいいよ。竜幸さんも。仮にも社長業しているわけだから、そのへんは調節しながらお願いします」
意気込む二人を風はなだめながら、凪も加えて今後のことを打ち合わせた。
「今日は何だかにぎやかだね」
いつもの縁側のスペースで、おじいに勉強を教わりながら茉莉花が笑った。
「ほんとに、こんなにぎやかな日曜日は久しぶりだよ」
つられておじいも笑う。
二人を見ていると、以前に戻ったような気がする。でも、そうではないのだ。
「さ、そういうわけだから。みんなで協力してやっていこうよ」
とりあえず、凪には休んでもらって、夏樹には洗濯を頼むことにした。風は竜幸をキッチンに引っ張ってきて、調理の助手をしてもらう。
「俺、包丁なんて持ったことないぞ」
「それはよかった。これから覚えていくといいですよ」
「その笑顔、わざとらしいぞ、風」
「わざとですから」
軽口を叩きながら、二人で調理をする。それぞれの役割を果たしながら日曜の午後は進む。
まるで乗り合わせた舟のように。
次回「花嫁のマカロン」




