再びの春 おひな様のカップ寿司
おじいは退院した。二月の二十日を過ぎても、帰宅を渋っていた。そんな中で、風はおじいにスマホで動画を見せた。
『やっほー、おじい元気ですか? 茉莉花です。あのね、おじい聞いて。ついに学年十位に入ったよ。理科は、なんと百点取れました!! おじいがいつも教えてくれたおかげです。おじいと会いたい。またお話したいよ。帰ってきて。おじいの家で待ってるからね』
茉莉花は失恋の痛手を乗り越えて、なんとついに学年十位になったのだ。スマホ欲しさからとはいえ、茉莉花の日々の努力を知っている風は、手放しで拍手喝采を送りたいと思った。
「そうか、頑張ったんだな」
おじいは感慨深げに動画を見つめていた。そうして、ようやく家に帰ることに同意したのだ。
ひ孫のお願いは効果が絶大だな、と風は思った。孫と息子のお願いはイマイチ効果がなかったが。
「アスファルト、敷いたのか」
三月三日の月曜日、おじいは家に戻ってきた。
家に到着して、おじいは驚きの声を上げた。介護タクシーから降ろされたおじいの車椅子を凪が押す。
「家の中まで段差なしで入れるようにしたから」
風が先導して玄関の扉を開ける。外から玄関、玄関から中のフロアまで車椅子でスムーズに移動できる。家の中はもとからバリアフリーだ。トイレも風呂の脱衣場も広めに作っておいて正解だった。
室内に落ち着いてから、風と凪とで打ち合わせをした。
「おじい、以前にも話したけど、これから週五回ディサービスに通ってもらうよ。日中はそちらで過ごして、夕方からはぼくと父さんとで交互におじいのお世話をするから」
週五回という言葉に、おじいはあらためて驚いたのだろう、一瞬だけ目を見開いた。夕方からは、といっても朝はもちろん、おじいを送り出すまでにも準備が必要だ。食事や投薬や洗顔歯磨き、それから着替え。
凪は、介護休業を申請して受理された。
「あいわかった。ありがとう、手を尽くしてくれて。どれくらいになるか分からないが、お世話になります」
おじいは凪と風に頭を下げた。どれくらいになるか、の言葉に風は一瞬体がゆらいだ。
おじいの年齢と体力を思えば、数ヶ月単位かも知れないが、それこそ数年かも知れない。
「そんなことない、当たり前のことだから」
凪はいつものように、ゆったりとした話し方で返事をした。
当たり前、当たり前のことがどれほど大変なことか、風はまだ体験をしていなかった。それは凪も同じだ。いくらケアマネの太田が計画を立ててくれたといっても、実行するのは風と凪の親子だ。
「風の仕事も、邪魔することになるな」
「ぼくも、介護休業がとれたんだ。大丈夫だよ」
風が務める会社は四国の愛媛にあるのだが、一度もそちらへ出勤はしたことがない。風が採用されたのは正社員でということだったので、しっかりした福利厚生が使えたのだ。
「疲れていない? 少し横になる?」
風の問いかけに、おじいは小さく息を吐いた。
「休ませてもらっていいかな。久しぶりに外へ出たら疲れた」
「そうして。お昼には茉莉花も来るから。ひな祭りだし、ちょっとしたご馳走を準備してあるからね」
「そりゃ楽しみだ」
凪がおじいを寝室へ移動させた。おじいのベッドは介護用に変えてある。前よりも手すりが増えて車いすからの移動が楽になると思う。
お昼近くになって、部活帰りの茉莉花がジャージ着でやってきた。
「おじい、お帰りなさい!」
茉莉花は息を弾ませて来るなり、おじいの首に飛びついた。
「お、茉莉花、ただいま」
おじいは薄く涙を浮かべて茉莉花をハグした。茉莉花もジャージの袖口で目元を何度もぬぐった。
「はい、はい。感動の再会してるとこ、申し訳ないけど、茉莉花は手を洗ってきて」
そうだね、と茉莉花ははにかんだ笑みを風に見せると洗面所へ行った。
「よかったね、おじい」
「そうだな、もう会えなくてもおかしくなかったからな」
おおげさな、とは風は思わなかった。たぶんおじいは、元日の苦しげに倒れた姿が茉莉花が見た最後の自分にならずに、安堵しただろう。
「さて、父さんは手伝って」
風はエプロンを身に付けると、大き目の盆にかけてあったラップを外した。盆には直径七センチほどのカップがたくさんならべてあった。透明なカップには、酢飯とさまざまな具が入っている。
わずかなご飯の間には、甘辛く煮た椎茸の薄切りか鶏肉のそぼろが挟んである。上には蒸しエビ、カニのみをほぐしたもの、炒り卵、小さく切ったウナギのかば焼き、いくらなどが飾られてある。これならおじいもスプーンで食べられるし、こぼす心配も少ない。
「わあ、ふうちゃん、すごい。天才」
手を洗ってきた茉莉花が凪を手伝って、小皿や箸を並べてくれる。
「お吸い物は、はまぐりだよ。ひな祭りでもあるからね」
料理のほとんどは昨日のうちに準備しておいたので、並べるだけで済む。
「風、四人分にしては多いんじゃないか」
おじいがテーブルいっぱいの料理を見て首を傾げた。
「ああ、もう一人くるから、たぶん」
おじいと風が話していると、玄関が開く音がした。おじいがリビングと玄関を隔てる引戸を見る。
「おじい、退院おめでとう!」
「タツユキさんだ」
今日も真っ赤な派手派手なスカジャンを着た竜幸がやって来た。
「おお、マリカちゃんもいたのか。これ、お土産」
竜幸は茉莉花に福寿草と糸水仙の寄せ植えを渡した。とたんに、水仙の香りがして一足早く春の香りがした。
「竜幸、おまえ懲りずに……」
「おじい、竜幸さんにはおじいが倒れた時も、そのあともいろいろと手伝ってもらってたんだ」
「そうそう」
竜幸が得意げにうなずく。
「不本意ながら」
つづけた風の憎まれ口に、竜幸は白目をむいて舌を出す。それをみて、おじいはあきれるし、茉莉花は笑った。
「まあまあ、竜幸さんもみんなも座って、ご飯にしようよ」
凪が声をかけると、各々席に着いた。
「今日も手の込んだ料理を作ったな、風は」
竜幸は毎回毎回、風の手料理をほめる。ほめるのはいいが、よからぬ提案など安直にするので、風はつい警戒してしまう。
「見た目よりも簡単だから」
蛤のお吸い物もそれぞれに配り、ささやかな昼食会を開いた。
ちいさなカップに入った寿司は、それぞれに具がちがい、いくつでも食べられそうだった。おじいも大好きなウナギのかば焼きや、いくらののったカップの寿司を食べた。
「やっぱり外のご飯は美味しいな」
おじいが一人で食事できること、食欲があることに風はほっとした。病院に入院中は、食事の介助も受けていたと聞いていた。食事用のエプロンを買ってきてほしいと言われた時には、パッケージのイラストに驚かされた。長いエプロンの裾が食事を乗せた盆の下に敷かれ、こぼしても大丈夫なように描かれてあったのだ。入院前には、おじいは一人で食べられた。そう思うと、風はつらかったのだ。
けれど、今日の食事風景を見て安心した。少なくとも、今は大丈夫なのだ。
食事がおわり、風はデザートをガラスのボウルから取り分けた。
スポンジの台に桃のゼリーがのっている。生クリームで飾られたデザートは、桃の節句にふさわしいものだった。
「これは、なに?」
茉莉花は風が皿に取り分けたお菓子を手渡されて、まじまじと見つめた。
「トライフルだよ」
「え、これもトライフル? こないだのとだいぶ違うけど」
風はうなずいた。それから凪に手伝ってもらって紅茶を準備した。
「こっちもトライフル。トライフルはフリースタイルだから、こんな感じのもあるんだ。生クリームで飾った分、ケーキみたいだよね」
ふーん、と茉莉花はためつすがめつお菓子をみていた。
「あらためて、おじい、退院おめでとう。茉莉花ちゃんは学年十位おめでとう」
おじいは、みなのかおをぐるりとみわたして、頭を下げた。
「ありがとう。家周りのリフォームまでしてくれて、ほんとうにありがとう」
「ちょ、おじい」
風は思わず小さくさけんだが、おじいはなかなか頭を上げない。
「父さん」
すぐ隣に座る凪がおじいの肩をだいた。
「迷惑をかける。おまえたちの手を煩わすのかと思うと……」
「そういうのは、いいんだ」
凪が静かな声で応える。おじいがようやく顔をあげた。おじいは苦しげに眉を寄せていた。
「ちゃんと考えてのことだし。また父さんと暮らせるのもいいと思ってる」
しんみりとした空気のなかで、竜幸が突然声をあげた。
「え! 凪、ここにすむのか? ついに別居か!」
「人聞き悪い。住むっていうか、こっちに泊まることが増えるって意味だよ」
「そ、そうか」
半分、浮かしていた腰をおろして、竜幸はため息をついた。
「竜幸さんも、住みたかった? おじいのお世話メンバーになる?」
風は冗談めかして竜幸に話しかけると、竜幸がうなずいた。
「メンバーになるよ」
「え?」
竜幸以外全員の声がそろった。
「毎日は無理だけど、来られるときには来るよ」
「いや、仕事があるだろ。一応、社長みたいなことやってるわけだし、不動産屋の」
凪の声に、竜幸は首を横に振って考えを変えそうもない。
「竜幸さんって、社長業だったのか」
「驚くの、そっちかよ。まあ、そういうことだからよろしく」
風の余計な一言に竜幸は苦笑いを浮かべて、トライフルを口に運んだ。
「おじい、わたしも来ていい? また理科を教えてほしいんだ。三年生になっても勉強がんばるから」
かいがいしい茉莉花の表情に、おじいのこわばっていた顔も柔らかくなる。
「それは、かまわんが。風、わたしがディサービスに通うのは、何曜日なんだ」
「月火、木金土」
風は指を折って数えながら答えた。それを聞いておじいはうなずく。
「じゃあ、日曜日の夕方になるけどいい? 新年度になったらまた違ってくるけど」
「かまわんよ」
おじいの瞳に生気が宿ったように風には思えた。茉莉花が日曜日に来るなら、また夕食を多めに作ればいいことだ。
「そうだ、茉莉花ちゃんのスマホは?」
風が尋ねると、茉莉花はとたんにしゅんとしてしまった。
「わたしが欲しかったスマホ、入荷待ちなの。今、スマホ契約する人が多い時期でしょう。欲しかった色がなくて。月末あたりには来るはずなんだ」
ちょっと唇を尖らせて、茉莉花は足をぶらぶらと揺らした。それは辛いだろうな、と風は茉莉花の皿にお代わりのトライフルを乗せた。
「まあ、張り切りすぎずにいこう」
凪が紅茶のカップを静かに傾けた。そうだ、張り切りすぎずに。たぶん、長丁場になるのだろう。
「お代わり、まだあるよ」
風はみんなに声をかけた。
ほんとはひし形のお寿司にしようと思ったのですが、たまたまスーパーで小さなカップに入ったお寿司を見て、こっちのほうがいいーーーとなり、変更しました。




