冬の章 二月のチョコレートブラウニー
二月が来た。
寒さのただなか。風はひえきった室内で鼻が冷たくて目を覚ます。そんな朝は、しみじみと、おじいを入院させておいてよかったと思う。
おじいは、少しずつ回復傾向にあった。日々のリハビリで、立ち上がりくらいならできるようになった。洗濯物を取りに、週に二回ほど風が面会に行くと、病院での出来事を話してくれる。
毎日出されるジュースが飲みきれないこと、リハビリの若い男の先生がみんなにとても人気があること。
「前よりも、声に張りがあるんだ。それに声そのものも大きくなってきたし」
「元気になってきたんだね」
茉莉花は小麦粉をふるい終えて、風のほうを見た。
「いつ帰ってくるの?」
「それは、まだ未定だけど」
歯切れの悪い答えしか返せないのは、家の周りの整備が終わっていないからだ。猫の額ほどの庭だけれど、アスファルトを敷き、車いすで家に上がるためのスロープをつける工事をしなければならない。雪があると、作業がしづらい。
「もうちょっと、暖かくなってからかな」
それでも、病院へいられる期間は二か月間だ。どんどん過ぎていく。ケアマネの太田とも話し合いを重ね、使える補助は使おうと、スロープ工事の申請をしたところだ。
「……ふうちゃん、さんおんとうってなに? うちにある?」
「え、ちょっとまって、そのレシピ、ほんとにチョコレートブラウニー? ていうかなんで先に小麦粉だけふるっちゃうの」
風が焦って茉莉花から本をとりあげて確認する。たしにかチョコレートブラウニーの作り方が載っている。奥付を見ると、発行されたのはなんと昭和だ。
「昭和六十四年二月って」
「昭和六十四年は一月で終わりだろう。異次元からきた本か?」
窓際の籐の椅子に座って、チェスの対戦をしていた竜幸が声を上げた。
「お母さんから借りてきたんでしょう、茉莉花ちゃん」
凪がゆったりとした声で話しかけると、茉莉花はうなずいた。
「ママの本棚にあった本なの」
たしかに、本に載っている写真もイラストもどこか古めかしい。風はレシピの材料を見た。
「三温糖とくるみは無いなあ……父さんと竜幸さん、ちょっとスーパーまで買い物してきて」
「えー、今いいとこなんだけど」
竜幸が口をとがらせると、凪が無言でうなずく。
「ふたりとも、午前中いっぱいかかっても勝負がつかないよ。ほら、行ってきて」
竜幸と凪はチェスをしていたが、腕前はいたって素人同士。ルールもよくわかっていないようで、二人の手元にはルール説明のコピー紙がある。勝負をつけようにも、どうなったら勝負がつくのかもイマイチ不明なままで迷走しているようだった。
「わたしも行く」
茉莉花はエプロンを外すと、ようやく立ち上がったおじさん二人についていく。
「余計なもの、買わないでいいからね」
「風は母さんみたいだな」
竜幸の茶化す声に、うるさいです、という前に三人は出かけて行った。
風はため息をつくと、コーヒーを淹れてキッチンの小さな丸いすに腰をおろした。
おじいと再びこの家で暮らすために、ケアマネの太田とは相談を重ねている。
住まいの改善点や受けられる補助金や介護サービスのことなど、以前にまして手厚く教えてくれる。ただ、前のような親しさはない。
話し合いの終わりに、風が手製の菓子を出しても今ではお行儀よく「召し上がる」。もうはしゃいだりはしない。
それは、太田がおじいを施設に入れることを考えては……と言ったときからだ。
とりみだして怒鳴ったことを思い出して、風はコーヒーカップをぎゅっと両手で握った。
今ならわかる。誰だって、おじいの年齢と体の具合を考えたら、施設を勧めるだろう。ながい付き合いの太田はまっとうな選択の説明をしただけなのだ。
風は、太田は在宅での介護に賛成してくれると思っていたのだ。心情をくみ取って、風の意見を聞き入れると思っていた。今となれば、それはある意味、風の思い上がりだった。自分は、太田の特別になっていると勘違いしていたのだ。
「そんなわけあるか、ただの顧客とケアマネジャーだ」
風は両手を頬にあてた。それに、太田は三月で仕事を辞め、おそらくは結婚する。転職するわけでも引越しをするわけでもない。
「じぶんは、駄目だな」
仕事のことをきちんとしようと思って、伊東に連絡をしたときのことを思い出した。
おじいのこともあるので、仕事を辞めようと思ったのだ。
それで伊東にネット会議を申し込んだら……。
「おじいさまのこと、大変でしたね」
相変わらず顔出しをせずに伊東は答えた。
「それで、祖父が退院したら介護に前よりも手がかかるので、仕事を整理させていただこうと」
「整理といいますと?」
心なしか伊東の声がふるえているのに、風は首をかしげて続けた。
「すみませんが、辞めさせていただき……」
と、風が説明したら、画面の向こうで何かが倒れるような音がした。それきり伊東からの反応が無くなった。
「伊東さん?」
風の呼びかけにしばらく無音だった。さすがに心配になったころ、不意に音声が戻った。
「あー、野間です」
「野間さん、お久しぶりです」
若手で髪を派手な赤に染めた野間がカメラの向こうで手を振った。なんだか作り笑いのような、ひきつった笑顔だ。
「カメラ、オンにしたんですね。伊東さんは?」と風が尋ねると「あー、いま別件の電話が入りましてー」
そちらの対応をしているとのことだった。なんだか歯切れが悪い。
「あのですね、葛城さんはうちの社員なわけで、有休もあるので、そちらを使っていただいてですね」
つまりは、辞めずに働いてほしいということだった。
「葛城さんの仕事は、丁寧で定評があるから、辞めてほしくないんですよ。みんな」
みんな、のところをなぜか力づよく野間は言った。
風は、まさか引き止められると思っていなかったので、どこか拍子抜けした。
それでも、大した仕事量はこなせなくなるということは、きちんと伝えて通話を終えたのだった。
「まあ、ちゃんと合意してもらっただけでもいいか」
風の考えがまとまったころ、玄関の開く音がした。三人が帰ってきたのだ。
「風、ただいま。お昼はなんだ」
茉莉花と二人きりにならないためのことだが、なぜか毎週竜幸はやってくる。
そして、茉莉花は想像通り二人のおじさんにお菓子の材料や、おやつをレジ袋ぱんぱんに買ってもらったらしく上機嫌だ。
「お昼は、炊き込みご飯です」
それから卵焼きとほうれんそうのおひたし、じゃがいもと玉ねぎの味噌汁。いたって平凡な献立だ。
それでも、ひとりだとあまり料理をする気にならないから、食卓を囲む誰かがいることはいいことなのだろう。
「じゃあ、ご飯食べたらチョコレートブラウニー作るからね」
茉莉花が買ってもらった材料をキッチンに持ってきた。
さて、茉莉花のチョコレートブラウニーは意中の人を落とせるだろうか。
「ご飯食べたい人は、協力して」
風は、味噌汁の鍋に火を入れた。
チョコレートブラウニーは、もう一話。




