冬の章 パウンドケーキとミルクティー
おじいはしばらく様子を見るため、入院することが決まった。
木山氏が亡くなったという知らせは、おじいの心臓へ負担をかけた。そして寝込むことは、おじいの筋力をうばっていった。今は移動に車いすを使っていると看護師から知らされた。
「葛城さん、だいぶ体調が安定してきましたよ。起き上がって食事ができています。つぎ、食事のとき用のエプロン、お願いします。ドラッグストアで売っていますから。早めに」
入院して五日ほどたったときに、看護師から伝えられた。
「百一歳でしょう。とてもお元気、といったら失礼ですね。でも、受け答えもしっかりしているし、ちょっとずつ体も動かせるようになってきますから」
はい、と風は返事をして洗濯物を受け取った。感染病対策の観点から、入院すると患者とは直接会えない。看護師からおじいの様子を聞いていると、看護師が話を切って、ちょっと待っていてと場を離れて行った。廊下に立っていると、おじい担当の看護師がやってきた。背の低い、眼鏡をかけた女性だ。
「ケアマネさんと今後のことについて、話し合いましたか」
身長差のある風を見上げ、少し威圧的な話し方をする。
「はい、ええ」
「ご存知かと思いますが、ここにいられるのは二週間程度です。退院後は別の病院へ転院するか、入所できる施設を探すか、自宅へ帰るかですが。いずれの方向でお考えですか」
おじいが今いる病院は、救急患者が長くいられるところではないのだ。
「まだ決まってなくて」
風がはっきりとしない答を返すと、看護師はそうですかと眉を寄せた。
「早めにお願いしますね」
そう言い置くと、看護師は去っていった。風もおじいの洗濯物の入った袋を下げてエレベーターへ行く。人気のない小さいホールで待っているとじき、エレベーターが到着して扉を開く。
風が乗り込むと『扉が閉まります』と無機質な声と共に扉が閉まっていく。扉が閉まります。おじいの人生も終わりなのか。扉が閉まります。
風はエレベーターの角の壁にもたれて、うなだれた。
ケアマネジャーの太田とは、おじいが入院してすぐに家に来てもらった。風と、風の父親の凪の三人で話し合った。
「謹吾さんのお年で、車いすを使うということになれば、ご自宅でみるのはしょうじき大変だと思います。施設を探すのが賢明かと思いますが」
「そんな、長く生きて最後の最後に家から出されるなんて……!」
思わず腰を浮かした風を凪が制した。
「わたしも、できれば父はこの家でみたいです。ヘルパーさんとか公的な援助が利用できればいいのですが。わたしも介護休暇は使えますし」
凪は銀行から直接来たので、スーツ姿で髪も整えてある。ふだんより、頼りになりそうないでたちではある。
「……少しでは足りませんよ。毎日のことです。どれくらい続くのか分かりませんから。ヘルパーを頼めるのは日中だけですし、人手がたりなくて、毎日とはいかないのが現状です。食事の用意から、オムツの交換、床擦れ防止の体位の交換、それに洗濯そうじ……これ以外にもやることは、たくさんあります」
風は愕然とした。おじいが自力で歩けていた今までと、まったく違う。改めて言われたら、ぐうの音も出ない。
「いくらお父様に介護休暇があるといっても、風さんが若くて体力があるといっても、大変です。お二人とも、仕事を手放すことになるかもしれないのですよ」
ふだん見る太田とは違った。声を低めに、目を伏せがちにしている。手は指を組んでいる。
よくできましたのスタンプを取り出したり、風お手製のケーキに目を輝かせた太田とはまるで別人だ。
「めぼしい施設が空くまで、転院できる病院で待機することが最善かと思います。病院内にある医療相談の窓口で、転院のことを相談してみてください」
あくまで家には帰れない方向で話す太田に、風は両ひざを手で掴むしかできない。
「わたしは、葛城さんがおじい様のことをとても丁寧に大切にみてきたことを知っています。ご家族で、というのも分からなくはありません。けれど、もういちど皆さんで話し合ってください」
太田は、風と凪に頭を下げた。太田が言わんとすることが、風にも分からないではない。
「それと、こんな時に申し訳ないのですが、わたしは三月いっぱいで退職します」
え、と風は思わず声を上げてしまった。太田が頬をかすかに染め、眉をきつく寄せて唇をかんでいる。その表情をみて風は事情を察した。
「こちらにいる間は、謹吾さんのお力になります」
太田は顔を上げると、はっきりとした声で二人に伝えた。
凪は太田が去ったあと、二人分のコーヒーを淹れた。
「いちばんのネックは、おじいが自力で歩くのが難しくなったことだね」
風はカップを受け取り、うなずいた。
「ここを建てるときに、一応はバリアフリーを意識して建てたけど」
風は家の隅々まで頭の中で点検した。室内はいいのだ。トイレも車いすで入れるよう、大きめに作ったし、室内は基本的にはバリアフリーだ。
問題なのは、庭のことだ。
たとえば車を降りてから、車いすで移動するとなると未舗装の庭は移動が困難だ。でも、それは庭に板を敷いたりすることで、解決できるだろう。その前に除雪だろうけれど。
「おじいの入院費、父さんが支払うから。請求書が来たら、まわしてくれ」
「え、そんな」
「あたりまえだから、風が気にすることはないよ」
凪がコーヒーを口に運ぶ。お金もかかることなのだ。風一人ではどうにもならない。この先、こんなことがもっと増えていくんだろう。
コーヒーはいつもより苦く感じた。
後日、風と凪は太田のアドバイスに従い、おじいが入院している相談窓口へ行った。
「葛城さんの場合ですが、提案としては、今現在車いすをお使いですから、リハビリ目的で転院するということは可能ですよ」
いきなり自宅へ帰るのではなく、リハビリをして筋力を養ってみるのもひとつの手段だと、若く色白の看護師が説明した。
「たとえば、長く歩くことは無理でも、立ち上がりや車いすへの移動が自力でできるなら、ご家族の負担も減ります」
説明されて、確かにと風と凪はうなずいた。
「それに、冬の間は暖かい病院で過ごすのもいいかと思いますよ。二か月も過ごしたなら、筋力もつくでしょうし、春になります」
言われれば、確かにそうだ。いくら寒くないようにと暖房に気を付けても、病院ほど室温を一定に保ったりはできない。
「ここから、A病院かB病院へなら転院できますよ」
風と凪は説明をうけ、転院の手続きをした。
「おじい、転院してどう?」
茉莉花がいつものテーブルで教材を広げている。すでに一月も下旬、茉莉花は二月の期末試験に向けて、日々勉強に余念がない。
「前の病院では、ほとんど寝たきりだったけど、今は毎日リハビリしているし、四人部屋だからにぎやかみたいだよ。前より、はっきりしゃべれるようになってよかった」
そうかーと、茉莉花は頬杖をついて風を見た。風は茉莉花用に作っておいたパウンドケーキとミルクティーを出した。
「それで、ね。当分はこの家はぼくが一人だから。茉莉花ちゃんが出入りするのはちょっと」
「え! どういうこと?」
茉莉花の素直なの問いかけに、風は腕組みをして天井を見上げた。なんと説明すればいいものか。
「うーん、世の中は変に考える人がいるわけで……二人きりってのは、よくない」
「よくない?」
「今日はいいんだよな、俺がいるから」
窓際、いつもおじいがいる場所に陣取った竜幸が声を上げる。
「あなたは、黙っていてください」
風はそれでも、竜幸のまえに茶菓を供した。竜幸はおじいの病状を聞きに押しかけてきたのだ。
「とにかく、二人きりってのを邪推する輩がいるから」
「マリカちゃんが、ここに来るのは何曜日?」
竜幸が空になったケーキの皿を風に渡しながら言った。風はお代わりを催促されて竜幸の図々しさにあきれながらも、ため息をついてケーキを切った。
「今は、土曜日と日曜日」
「なら、マリカちゃんはうちの人とくればいい。都合がつかないときには、俺が来るよ」
「ちょっとまって。竜幸さん、仕事とかどうなってんの?」
風がお代わりを渡すと、竜幸はあっという間に平らげた。ほんと、甘党だよ。竜幸のチンピラ風の見た目からは想像もつかない。以前聞いたら、やはり下戸だった。
「俺の仕事は、どうにでもなるさ。それに、まっとうな人間は土日が休みだろう?」
まっとうに見えない竜幸が言うと、悪い冗談にしか聞こえない。
「あ、ありがとう、タツユキさん!! あのね、ふうちゃんとケーキを作る練習もしなきゃならないの。だから、ここの家には来たいの」
ケーキを作る前に勉強も、だろう。風は無言で突っ込みを入れた。
「と、いうわけだから。ああ、風は気遣い無用だからな。食事も菓子も作らなくていいからな」
本心と反対のことを、しゃあしゃあという竜幸に風はこめかみをもんだ。
「ふうちゃん、ケーキおいしいよ。ミルクティーも」
無邪気に笑う茉莉花にはかなわない。風もテーブルについた。
クルミ入りのパウンドケーキは甘さが控えめ、ミルクティーには砂糖を入れた。まだまだ気は抜けないが、今は一息つこう。
母が介護施設へ入所しました。
子供ではないので、さびしいとは思いませんが、もう母は父と暮らすことも、猫と暮らすこともないのかと思うと切ないです。




