冬の章 コンビニのパン、甘いパン
日が傾くころ、風はおじいの家に戻ることにした。
「オープンサンド、ごちそうさま。じゃ、また」
ほろよいの凪に見守られ、風が玄関で靴を履いていると、寝ていたはずの夏樹が紙袋を持って現れた。
「これ」
ずいっと出された紙袋を風は両手で受け取った。中をのぞくと数個のフォトスタンドと瀬戸物焼きの小さな人形や置物といった雑貨が入っていた。
「リノベの時の」
母に言われて風は思い出した。おじいの家をリノベするとき、片づけた荷物の一部だ。保管場所が足りなくて、実家に預けたものだ。いいかげん、持って帰れということだろう。
「ありがとう」
風はいつもよりも深く、両親に頭を下げて家を辞した。
おじいの家までの道々、風は返された雑貨をどこに飾るか考えた。玄関の靴箱の上、リビングの本棚の隙間、固定電話の横……首をひねって風は考えていたが、無理に全部おかなくてもいいのだという、当たり前のことに気づいた。
家に帰ったら、中身を確認しておじいに飾りたいものを選んでもらおう。風は、マフラーに鼻先まで埋め幹線から脇道にへ入った。今年の冬は雪が少なめで、道路が圧迫されないので助かる。それでも遠くに見えるスキー場には、ナイターの照明がきれいに並んで点いている。
足元にはもう暗さがわだかまっている。街灯がぽつんぽつんと灯るなか、風は歩を早めた。遅くならないように、茉莉花を送っていかなければ。
桜の木の向こう、明るい窓のおじいの家を目にすると、どこかほっとする。
玄関のドアノブに手をかけ、「ただいま」と言おうとした風の背中に何かがのしかかった。
「ただいま」
いきなり背後から肩を組まれて前のめりになった風には、リビングとの仕切りの引戸が開くのが見えた。
「明けましておめでとー、マリカちゃん」
「あっ」
茉莉花が息を飲むのが風にはわかった。そして、いきなりの侵入者が誰なのかも。
「竜幸さんっ」
「おお、風。今年もよろしくな。マリカちゃん、これお年玉」
風が体を起こして竜幸の腕を振りほどく。茉莉花の後ろについてきたおじいが苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「じいさんも、今年も元気だな。これ、届いていた」
と、おじいの顔色など気にせず、竜幸は年賀状の束を手渡した。
「勝手に入ってこないでくださいって、あれほど」
「今日は風と一緒に入ってきたじゃないか、悪い?」
「よくはないです」
風がマフラーを外して、ようやく靴を脱ぎ、紙袋を床におろす。
「……もう、入ってくださいよ。そこにいられても邪魔です」
言われて竜幸は、にっと笑う。今日も金と赤の糸で派手な花が刺繍されたスカジャンを着ている。正月からめでたいことだ、と風は半分呆れつつリビングに入った。
「茉莉花ちゃん、お留守番ありがとう。夕飯前に家に送るから」
風が声をかけたが、茉莉花は今一つ反応が薄かった。竜幸から渡されたお年玉の袋の厚さに戸惑っているようにも見える。
「これ、うちの母から」
追加でお年玉を渡されると、茉莉花の頬がさらに赤みを増す。
「ありがとう、ふうちゃん……と、タ・タツユキさん」
タツユキさんと呼ばれて、竜幸がまるで孫から礼を言われたように顔をほころばせた。竜幸の無邪気な笑顔なんて数十年ぶりに見たかも、と風は少なからず驚いた。もしかして、竜幸は親戚にお年玉を渡すのは初めてのことなのかも知れない。
「おじい、夕飯は」
おじいにはなしかけて、風はぎくりとした。椅子に座ったおじいの顔色が青い。
「おじい」
手元のハガキに視線を落としたまま、おじいの体が小さくふるえていた。ハガキをのぞくと、そこには秋に会った木山氏が亡くなったことが記されていた。風はハガキをおじいの手から思わずひったくった。差出人は、木山氏の孫である美幸からだった。ハガキには、木山氏はおじいと再会して新しい年を迎えずに亡くなったことが丁寧な文字で書かれてあった。
「……死んでしまったのか」
呆然としてつぶやくとおじいは両手で顔を覆った。おじいは、木山氏と春に桜を見る約束をしていたのだ。もうその約束はかなわない。おじいは胸に手を当てたまま体が徐々にかしいでいった。
「おじい!?」
おじいは胸に手を当て苦し気に顔をゆがめる。風はおじいの体を支えた。
「竜幸さん、おじいが」
茉莉花と談笑していた竜幸は、風のもとへと駆け寄ってきた。
「救急車呼んで」
「ちょ、ちょっと待て、どっち? 110? 119?」
「119だよ、タツユキさんっ」
茉莉花がおじいの肩を抱いて叫ぶ。竜幸は、そうだ119とぶつぶつ呟てようやくスマホを操作する。
「茉莉花ちゃん、毛布持ってきて」
泣きそうな顔をした茉莉花はうなずき、寝室へ走る。119につながると、風は竜幸のスマホを渡してもらい、詳しい住所やおじいの症状を伝えた。
「道、入り口わかりづらいので人を立たせますから」
立たせますからのくだりで、竜幸が自分を指さすので風はうなずいた。
「懐中電灯、玄関にありますからそれ持ってください」
風は竜幸のスマホを返すと、自分のスマホで実家へ電話をかけた。
真っ青な顔のままのおじいに、風と茉莉花は声をかけ続けた。サイレンの音が遠くから聞こえた。
おじいは今夜はこのまま入院、と決まったのは病院へ搬送されてから四時間後だった。すでに十時を過ぎている。
夜の総合病院の救急外来の待合室は、思いのほか込み合っている。受け入れ患者数を表示する電子掲示板には20を超える数字が出ている。ついさっきも救急車のサイレンを聞いた。
「ありがとう、大変だったな」
風の父親、凪が風をねぎらった。橋元家には茉莉花の迎えだけお願いした。親戚一同病院へ押し掛けるわけにはいかないからだ。
「ううん、それよりおじいの病歴とか書いてくれてありがとう。助かったよ。また今度教えて。メモにまとめておく」
そうだな、と凪はうなずいた。治療を受けるために、おじいの生年月日はもとより、病歴も詳しく書かなければならなかった。風は救急隊員におじいが百一歳であることを伝えた時の、彼らの驚きと一瞬の沈黙が忘れられなかった。そんな高齢ならば、といった一瞬の空気感。
「竜幸さんも、ありがとう。車で迎えに来てくれて助かりました」
凪と夏樹が竜幸に礼を言って頭を下げた。
「二人とも、明日から仕事だろ。もう帰って休まないと」
風が両親に声をかけると、ふだんから口数の少ない母の夏樹はさらに無言になり、凪の下がり眉の間にはしわが寄った。
「あ、俺が送っていくから」
竜幸が小さく手を挙げた。
「すみません、お言葉に甘えます」
凪と夏樹が竜幸の声に従い、受付から帰っていった。三人を見送ると、風はもう一度処置室へ入っていった。
広い空間にカーテンで仕切られたベッドが五台、搬送された患者が寝ている。おじいは奥のベッドで眠っている。心電図の波形がおじいの心臓が動いていることを教える。
風はベッド横の丸椅子に座り、おじいを見つめた。
こんなに老けていただろうか。いや、もう齢百を越しているのだ。ここで処置されている誰よりも年上だ。
ぽつん、ぽつんと点滴のしずくが落ちている。
これからおじいは病室に移るという。入院の手続きをしていただきますので、とさっき看護師から告げられた。
風は小さくて節くれだったおじいの手を、そっと握った。
結局、それらか入院の手続きの書類をすべて書き終えて説明を受けると、さらに一時間が経過していた。
病室のある四階から一階のロビーに降りると、竜幸がソファに座りスマホを手にしていた。
「風、お疲れさんだったな」
「待ってなくてよかったのに」
「タクシーで帰るつもりか。かなりかかるぞ。送ってく」
車のキーホルダーを人差し指でくるんと回して竜幸は立ち上がった。風は重い溜息をついて、竜幸の後にしたがった。時間外受付の自動ドアが開くと、一気に冬の冷気に体が包まれる。見上げると、雪が降っていた。駐車場内のオレンジ色の明かりが雪で滲んで見える。
風は足を動かせなかった。オレンジ色の明かりが滲むのは、泣いているからだときづくまで時間がかかった。
「帰ろうぜ、ほら」
竜幸が風の首にマフラーを巻いて、背中を二回軽くたたいた。
「あ、ああ」
駐車場から車までの短い間に、頭や肩に雪が積もった。
家に戻ると、すでに日付が変わっていた。朝には、入院に必要なものを持ってまた病院へ行かなければならない。
送ってくれた竜幸は、風に早く休めと言ってコンビニのレジ袋を渡して帰っていった。レジ袋のなかにはパンと牛乳が入っていた。
夕飯を食べずにいたことを思い出した風は、牛乳をマグカップに入れてレンジに入れた。パンはコロッケパンとソーセージパン、それから。
「甘いパン」
スライスした山型パンの間に甘いマーガリンと表面に砂糖入りのさらに甘いマーガリンが塗られている菓子パンだ。疲れた時には、甘いのがいいんだと竜幸が言っていたような気がする。
電子レンジが立てる音を深夜にひとりで聞く。
雪は降り続いている。
風はキッチンに立ったまま、甘いパンをかじった。
救急搬送から入院手続き、ほんとに時間がかかるよ。
甘いパンは、工藤パンのイギリストーストです。
工藤パンは青森のパン屋さん。最近こちらでも見かけます(おもにコンビニで)。




