冬の章 オープンサンド
新年。1月3日、風は実家へと向かって歩いていた。
昼食を済ませてから、午後一時過ぎに行くと元日におじい宅へ挨拶に来た父には伝えてあった。
元日のお昼に、茉莉花の一家と父の凪との六人でささやかな新年会を開いた。新年会というよりは、ちょっとした昼食会だった。茉莉花の両親は、おそろいのフィッシャーマンズセーターを着てやってきた。茉莉花は白のブラウスにチェックのスカート、水色のモヘアで編まれたカーディガンを羽織っている。
風の手作りしたおせちは好評だった。ことに黒豆が。たくさん作ってしまったこともあり、茉莉花と凪の自宅用にと、お土産にといくらか配った。
実家用に昨夜はケーキを焼いた。年末に茉莉花と練習して上達したロールケーキをプレーンとココアの二色を作って用意しておいた。
ロールケーキと言えば、一昨日会った茉莉花にブッシュドノエルはどうしたのかと風は尋ねた。
「部活のみんなで食べたよ。みんなね、それぞれ作ったお菓子を持ち寄ってクリスマス・パーティーしたの」
ずいぶんと、可愛らしいことをするものだと風の頬は緩んだ。
「ふうちゃん、クリスマスケーキはあくまで予行演習なの」
茉莉花は棚から食器を出しながら、小声で風に話した。
「は?」
「きたる二月に備えての、予行演習。みんな真剣なんだよ」
二月、といえばなんでしょう? と皿をかかえて振り返った茉莉花は風に謎かけをする。ああ、と風が理解した時に真剣なまなざしの茉莉花はゆっくりとうなずいた。
「わたし、勉強していて分かったの。物事には準備や練習が必要なんだって。きちんとした準備は結果に結びつく。だから、来月に向けて少しずつでも練習していこうって去年の秋くらいから思ったの」
「そう、でしたか」
風はなんだか口ごもってこたえた。バレンタインなど、ほぼ無縁で過ごした男子校育ちの風には、二月のイベントにかける女子の意気込みなど知る由もない。
「また、お菓子作りの練習に付き合ってね」
茉莉花はにこりと笑うと、皿をテーブルセッティングしている母親のもとへと運んでいった。
これは、とうぶん週末にはお菓子の試作になんどもチャレンジすることだろう。
そんなこんなの新年会で、茉莉花はおじいと風、凪の三人からお年玉をもらい、満面の笑みを浮かべていた。あれはきっとイベントへの軍資金になるのだろう、と風は密かに思った。
実家へ顔を出すのは、去年の正月以来だ。歩いていける距離にあるのに、微妙に会話のかみ合わない両親を見るのがなんとなく居心地が悪くて、極力足を向けずにいる。父の凪は去年の竜幸とのいざこざの後、たまにおじいへと顔を見せるようになった。月に一度くらいは風たちと夕飯を食べる。しかし、母親はおじいのことを訪ねるわけではないので、風はほんとうに顔を合わせる機会がない。
そんなことを考えているうちに、実家へと到着した。透かし模様のある門扉を開けて、飛び石を伝って玄関まで来ると、呼び鈴を押す。
扉に飾られた新年のリースを見上げている間に、家の中で人が移動する音がして、玄関の扉が開く。
「いらっしゃい」
迎えに出たのは、父の凪だった。一昨日も会ったけれど、実家で見る父親は余所行きの顔をしていない分、少し老けて見える。
なんとなく曖昧に頭をさげて、家に入ると、住んでいるときには気づかなかった「家のにおい」がする。少し甘い線香みたいなにおいだ。
「これ、作ってきた」
ロールケーキの入った紙袋を凪に渡すと、凪は嬉しそうに微笑む。と、その後ろにワイングラスを口に付けたままの、母の夏樹が立っていた。
「かっ、母さん」
夏樹は風と目が合うと、グラスを一気にあおって赤ワインを飲み干した。肩にかかる、ゆるいウエーブのかかった髪に、襟ぐりのゆったりしたニット。中肉中背で、風の両親も茉莉花の両親のように二人して似ているといえば似ている。
「わたし、あしたから仕事なんだけど」
「うん?」
夏樹は市役所勤めの公務員なので、四日が仕事始めだ。わかり切ったことを言う母に風は靴を脱ぐ手を止めて動向を伺った。
「これ、マリコちゃんへ」
マリコって誰? と思っているとお年玉用のポチ袋が風の目の前に出された。ポチ袋には少女向けアニメのキャラクターが描かれている。
「マリコちゃんじゃなくて、茉莉花ちゃんだよ」
あら、そう? と夏樹はそのまま踵を返してリビングのほうへと戻っていく。
「酔っぱらって名前まちがえちゃったみたいだね」
凪はそう言ったけれど、風はだいたい察しがついている。母は茉莉花の名前を正確に覚えていないのだと。いや、それ以前に覚える気もないのだと。
「姉さんたちは?」
「昨日挨拶に来たよ。風も来ればよかったのに」
「いやあ……」
「お年玉、ありがとうって言付かったよ」
風はうなずき、あとはうやむやにして済ませた。凪は深くは聞いてこなかったが、風は姉の夫である義兄が少し苦手なのだ。甥っ子はかわいいと思うけれど、義兄同席で会う気にはなれない。甥っ子用のお年玉は元日に凪に託しておいた。
義兄は真面目過ぎるというか、四角四面というか。今会えばきっと、仕事のこととか、おじい亡きあとのこととか、果ては結婚の予定とかを質問される。そういった質問を突っぱねることが苦手な風は、極力義兄を避けているのだ。
――母さんに似ている?
日ごろから、常識がイマイチと思っている母と似て、会いたくない人を極力避けることに気づいて、風は若干複雑な気分になった。
リビングに入ると、夏樹が手酌で引き続き赤ワインを飲んでいた。テーブルには、どちらが用意したものか、料理が並べられている。ガラスの鉢に盛られた黒豆は夏樹の前にある。
夏樹はフルーツフォークで黒豆を刺して、ワインのつまみにしている。
「甘いのとワイン、合うの?」
風が脱いだオーバーをソファの傍らに寄せて座ると、向かいの夏樹は無言でうなずいた。
「夏樹さん、風の黒豆ほとんど一人で食べちゃって。そこにあるので終わりなんだ」
凪に言われて、夏樹は少し眉根を寄せた。
「風」
「なに?」
「次はもっと作って」
「あ、はい」
夏樹はグラスに残ったワインを飲み干すと立ち上がった。
「寝る」
「あ、はい」
微妙にふわふわした足取りで、夏樹はリビングから出で行った。
「黒豆、残して」
去り間際、夏樹は凪に声をかける。凪はうなずいて寝室へ引っ込む妻を見送った。
「母さんさ」
「ん?」
凪はキッチンから運んできた皿をリビングのテーブルに置く。見た目も華やかなオープンサンドだ。
「あんなんで、市民課の部長補佐とか勤まるの?」
素直な疑問を風は口にした。
「無口だから?」
「うん」
風はカッテージチーズとキャビアが乗ったオープンサンドを手に取った。
「余計なことを言わないから、いいみたいだよ」
エプロンを外した凪は、夏樹が座っていた場所に腰をおろした。凪はビールのプルタブを引いて、数口飲んでから何かに気づいたように顔を正面にもどした。
「風も飲む?」
ふつう、客に先に聞かないだろうか。まあ、客といっても風は遠慮のいらない息子だが。
「いい、帰ってから買い物へ出掛けるかもだから」
「そうか、すまない。おじいは?」
「茉莉花ちゃんが勉強がてら、おじいと留守番してくれてる」
正月三日から、茉莉花は勉強している。年が明けて今年度のテストはあと二回。スマホを許可される上位二十番のため、何がなんでも順位を上げたい茉莉花は準備に余念がない。
「それはありがたいな」
凪はゆっくりとビールを飲んだ。風はビールの代わりにコーヒーを自分で入れて、料理をつまんだ。
「父さん、ときどきオープンサンド作るよね」
「調理が簡単だし、見映えもいいし。謹吾さんがよく作ってくれたんだよ」
へえ、と風は小さく返事をした。おじいの得意料理だったとは初耳だ。
「おととい、風が作っていた料理。久しぶりに食べたよ」
「おだまき蒸し?」
凪はうなずいた。おだまき蒸しは簡単に説明すると、うどんの入った茶わん蒸しだ。茶わん蒸しより食べごたえがある。
「懐かしい寿さんの味だった」
「……あれね、おばあちゃんが使っていた料理の本の通りに作ったんだ」
種明かしをした風に凪が、驚いたように背中を預けたソファーから体を起こして、また寄りかかる。
「そうか。寿さん、あんまり料理は得意じゃなくて、でも研究熱心だから本の通りに作ったんだな」
凪は愉快そうに笑った。風は懐かしいおふくろの味の思い出をぶち壊しにしたような気まずさを感じた。
「気にするな。実際、謹吾さんもわたしも嬉しかったわけだし」
そうだ、と凪は体を起こしてサイドボードの引き出しから封筒を取り出した。
「これ。少ないけど、おじいとの生活の足しにして欲しい」
テーブルの上に置かれた封筒は、それ相応の厚みがあった。
「いいよ、そんな」
「いやよくない。きちんと夏樹さんとも話し合って決めた。今現在、おじいの介護をしているのは風だ。子どものわたしは何もしていない。だからせめてもの気持ちなんだ」
いつになく、真剣な眼差しの父親に風は気圧された。
「介護っても、おじいはまだ手がかからないよ」
「二十四時間一緒にいて、食事や身の回りのことをするのは、りっぱな介護だよ。いつもありがとう」
凪は風へ深々と頭を下げた。
「父さん、いいからそういうの! 頭をあげて」
「うん、でもな風。何か心配ごとや不安なことがあったらいつでもいいなさい。すぐ駆けつける。介護休暇だって取れるから」
そういってもらえるなら心強い。
「風はりっぱで我が子だと信じられないよ。料理はうまいし気配りもできる」
あまりに褒められ照れくさい。
「も、いいからそういうの。三十路手前の息子に、恥ずかしい」
「三十路だろうが、なんだろうが、おまえは永遠にわたしの息子だろう?」
かんべんして、と風は両手で顔を隠した。赤くなった耳までは隠せなかったが。