秋の章 タルトタタンその後
おじいの同級生の木山氏は、風たちの家から150キロほど離れた海の近くの施設で暮らしているという。
半分は高速道路で移動できるが、残り半分は一般道だった。移動には、ゆとりをもって三時間と見積もった。
車の中には、おじいが無理無くすごせるようにと、海でも使った子供用の毛布を持ち込んだ。
小さめのおにぎりを何種類か作って、ほうじ茶を水筒に詰めた。あとは、薄く切ったリンゴ、皮をむいたみかんやチョコレートといったお菓子も少し。
「大移動だな」
早朝に見送りにきた風の父、凪があきれていた。凪にはこのまま留守番をしてもらうのだ。ちょうど土曜日でよかった。午後からは、いつもどおりにマリカが勉強に来るといっていたので、昼食は昨日の残りのカレーだ。多めに作っておいたので、温めて食べてもらう。
「それじゃ、行ってくる」
家を出たのは八時前だった。
それから風がハンドルを握ること、二時間を越えたころにようやく海が見えてきた。
「おじい、海だよ」
海にはいい思い出がないといっていたおじいは、海をじっと見つめている。
「そういえば、家族で海に行ったとき、寿さんがいつになく機嫌がよかったな。あれは、通信大学でレポートが高評価だったか」
不意に昔のことを思い出したのか、風も初耳のエピソードを口にした。
「日傘を差して、お気に入りの着物をきて」
青いインクのような海、白く波頭がたつ沖合。何かの養殖棚が浮かんでいる。
道路は海よりも高い位置にあって、見下ろすかたちになっている。国道とはいっても、広くない。風はスピードを落として、カーブだらけの道を進んだ。じき、カーナビが目的地に近づいたことを告げた。
「遠くまでご足労いただき、ありがとうございます」
電話で話した木山氏の孫、美幸が施設のエントランスで、風とおじいを迎えた。五十くらいの髪を栗色に染めた思ったより背の高いご婦人だった。
施設の職員の方たちも一緒に並んでいる。担当なんだろうけれど、もしかして、百才越えの同級生の再会という滅多にないイベントが発生するのを興味半分でみているのかもしれないけれど。
おじいは挨拶をすませると、ゆっくりと施設のホールへと移動していく。風がおじいの腕をとり、サポートする。レースのカーテンがかかった大きな窓辺に車いすに乗った男性がいる。彼が木山氏だろう。
「祖父はときどき、記憶があいまいになるときがあるので、驚かないでくださいね。ここ数日は体調がいいようです。葛城さんがお見えになると伝えましたら、とても喜んでいましたから」
美幸も風たちと一緒に木山氏のそばへと行く。
「おじいちゃん、葛城さんが来てくださいましたよ」
美幸が少し大きめの声で木山に声をかけると、うつむき加減だった木山は顔を上げた。分厚いレンズの眼鏡を押し上げ、木山氏はおじいをしばらく見つめた。また、おじいも同じようにしていた。
それからようやく、二人して「よう」とか「おお」とかもごもごした挨拶を交わした。
「木山。老けたな」
「同い年だろうが、か、葛城」
風はおじいを椅子に座らせ、木山氏と話をしやすくした。幸い、二人とも耳はあまり遠くないほうだった。それでも時おり声が大きくなったり聞き返したりしながら会話を始めた。
施設の職員がお茶を運んできてくれ、木山さん昨夜から楽しみにしてらしたんですよと、教えてくれた。風と美幸は二人から少し離れた位置のテーブルで見守った。
他の利用者も行き来するホールで、二人はぽつりぽつりと思い出話をしている。
「中学の同級生だそうですね」
「ええ、仲がいいというほど付き合いがあったわけではなかったみたいですけど、葛城さんは級長だったから、クラスのみんなへよく声をかけていたそうです」
へえ、と風は小さく声を上げたが、その後に教師になるほどの性格だ。よほど品行方正だったのだろう。
「木山の祖父は、なんていうか問題児というか……」
途中で話を切って、美幸は苦笑いして見せた。
「犬を学校で飼ったり、燕の巣を壊そうとした先生を殴って謹慎処分を受けたり。窓から出入りする、早弁する、果ては足りなくて体育の時間に抜け出して教室へ戻り、人様の弁当を食べる……みたいな」
だいぶワイルドな学生だったらしい。風はあきれて自然と口が開いてしまった。
「その後、祖父は獣医師になりました。葛城さんは、海兵の学校へ行かれたとか。エリートですね」
「あ、エリート……そうなんですか。僕はそのへんあまり詳しくなくて」
陸軍と海軍の区別も分からない風は頭をかいた。
「祖父は獣医師として、戦地では馬たちの世話をしたようですが多くは語りません」
「うちもそうです。祖父は海に投げ出されて命拾いしたことくらいしか、家族には話しませんね」
戦争の生き証人たちは、口を閉ざしたままこちらから去るのだろうか。
「百年も生きるなんて、どんなでしょうね。木山は、一日一日過ごしていたら百年経ったといいますが」
「祖父は長生きすることは罰みたいなものだと僕にいいますね」
おじいは苦海を泳ぎ続けている気持ちなのだろうか。年々重くなる手足で、まだ向こう岸までたどり着けないと、焦燥感に駆られながら。
美幸は空の紙コップを指でもてあそびながら、風に笑いかけた。
「祖父は、今生きていることは、こちらにいることを許されていると言いますね。何に許されているのかわたしには分かりませんけど。天からでしょうか。むろん、命が終わることは負けでもなんでもない、当然のことだろうとも」
許されている、その言葉に風は目の前で固く閉じた扉がぱっと開くように感じた。長寿を否定的にとらえがちなおじいよりも、木山氏のほうがどこかあっけらかんとしていて、しっくりと腑に落ちる。
「なんだか、いいですね」
風も美幸に笑いかけた。手の中の紙コップの中にお茶はもうないけれど、たしかにお茶が入っていた紙コップは残っている、というような。
「祖父の残りの日々が、生きていてよかったと思えるようにしたいと思っています」
「わたしも、そう思っています」
美幸と風は、二人の百年を生きた人が並ぶ姿を今少し見守った。
風たちが自宅に帰り着いたのは、夕方すぎで日はとうに落ちていた。おじいは疲れたからと、早々にベッドにもぐりこんでしまった。驚いたことには、風のベッドには凪が寝ていた。
「どういうこと?」
一人ダイニングのテーブルで勉強をしている茉莉花に風は尋ねた。
「あのね、タツユキさんが来たの」
えっ、と驚きの声を上げる風に茉莉花はうなずいて見せた。それで、と続ける前にキッチンから昨夜焼き上げて置いていったタルトタタンの皿を持ってきた。
「なんだか二人で、タルトタタンをたべちゃったの」
茉莉花が見せた皿のうえには、ケーキがほんの二切れほどしか残っていなかった。風は、ぴしゃりと額を手でたたいた。
「甘党だから、父さん。もしかして、竜幸さんも甘党だった?」
「うん、そうみたい。ふたりでどんどん食べちゃった。それで、タツユキさんが風にはカフェでもやらせたらいいんじゃないかとか言って、凪おじさんが冗談じゃないとか返事して」
ほんと、冗談だと祈るしかない。風は、ふらふらと椅子に座った。茉莉花が淹れてくれたコーヒーをごちそうになって人心地ついた風は今日の出来事を思い返していた。
帰りの車中のおじいは、ここ最近見せることのなかったリラックスした様子でシートに収まっていた。
「お互いに体調がよければ、桜を見ようと話していた。あそこの施設の周りの木は桜だそうだから」
「それはいいね」
おじいが生きる目標を持てたことが、今回の最大の収穫だろう。
「さて、茉莉花ちゃんと父さんを送っていこうか。タルトタタンの残りは持って行って」
茉莉花は嬉しそうにうなずいて、テーブルの上のテキストやノートを片付け始めた。