秋の章 タルトタタン
「ふうちゃん、ここからいなくなるの?」
リビングにはリンゴの甘酸っぱい香りがしている。先にむいて切り分けられたリンゴにはピックが刺されてガラスの鉢に盛られている。茉莉花は、リビングのテーブルで課題のワークに取り組んでいたが、不意に風に尋ねたのだ。
「ん?」
茉莉花の向かいでリンゴをむいていた風は、手を止めて茉莉花を見た。竜幸が来てからすでに半月が過ぎたが、おじいはいまだ口数がすくなく、寝室で過ごすことが多くなった。今日も昼食後からずっと部屋にこもっている。
「まあ、約束はしたけどね。なんせ口約束だから」
「口約束なら破ってもいいの?」
「そのあたりは、お互いの信頼関係によるけど、竜幸さんと僕との間にはそういうのは無いし。証拠がないから、守らなくても別に」
法に触れるわけではない。その場合、またひと悶着ありそうだけれど。
「え、ふうちゃん、意外とワル」
「誉め言葉かな」
風は笑うと、リンゴの皮むきを再開した。茉莉花はピックをつまんでリンゴをかじった。
近所からいただいたリンゴが十個余り。どうするか考えて、コンポートのほかにタルトタタンも作ることにした。
「ふうちゃんもおじいも、いなくなったら、ヤダな」
「そう? 僕がいなくならなくても、茉莉花ちゃんのほうがいなくなるんじゃないかな。進学や就職で実家から離れるのは珍しくないことだよ」
そうかもしれないけど、と茉莉花は頬をふくらませた。
「ずっと、こっちにいたいな」
茉莉花は中学二年生だ。来年は三年生になる。高校卒業まであと四年と少しと考えると、本人もだが周囲の大人たちにも、あっという間に感じられるだろう。
「こればっかりは、分からない」
「ふうちゃん、その言い方、おじさんぽい」
茉莉花がからかうよう言うと、風にピックを向けた。おじさんぽいと言われて、風は「うっ」とうめいて両手で胸を押さえた。茉莉花がきゃらきゃらと笑う。実際、小さなピックで刺された程度には胸が痛む。まもなく三十になる風は、このままの仕事ぶりでいいわけがないと頭では分かっている。できればまたフルタイムで働きたいと思う。家庭を持つとか、それ以前に経済的に自立しないと先行き不安だ。
――なにもできなかった、自分の人生は無意味だったと思い知る。百年も。
三十年生きても、おじいの三分の一にも満たない月日だ。自分の寿命がいつまでなのかは分からないが、仮におじいほど生きるとしたら、果てしない長さに感じられる。
せめて、美味しいもの口にして、浮世の憂さを晴らせたらいい。
タルトタタンは、リンゴを使ったお菓子だ。上下逆さにするといった面白い作りの失敗から生まれたという変わり種だ。
リンゴが柔らかくなるから、おじいにも楽に食べられるだろう。竜幸のことですっかり気を落としてしまったおじいに、元気になって欲しい。
茉莉花も連日、自習してがんばっている。
「次のテストあたりで、十位に入れそうかな」
「うっ、まだまだ目標は遠いかな。でもがんばる。こないだ、ちょっと順位が上がったから」
風が教えてあげられるものなど、ほとんどないが家にいるよりこっちのほうが集中できるという。
それなら、まかせようと風は静かに見守っている。
「寒くない? エアコン入れようか」
風がリモコンを手に取って電源を入れた時、めずらしく固定電話がなった。
風はテレビ横にある電話まで行くとコードレスの受話器を取った。
『すみません、そちらは葛城さんのお宅でしょうか』
落ち着いたトーンの女性の声だった。聞き覚えの無い声に首をかしげながら風が、はい、と応えると女性が小さく息を吸うのが聞こえた。
『わたくしは木山と申します。たいへん不躾な質問で申し訳ございません、葛城謹吾さんはご健在でしょうか」
一瞬、市役所かどこからかの問い合わせかと思ったが、女性はさらに続けた。風の電話でのやり取りから尋常でないことに気づいた茉莉花が椅子から立ち上がって寄ってきた。
「実は、わたしの祖父が同級生を探しています。そちらの電話番号は、昔の同窓会名簿から見つけました」
そして、おじいの出身学校の名前を挙げた。つま先立ちで受話器に耳を寄せていた茉莉花が「えっ」と驚きの声を上げて両手で口を覆った。
『祖父は、同級生と話しがしたいと申しておりますが、なにせ年齢が年齢で、ご健在なかたを見つけられずにいたのです』
風は合点がいってうなずいた。
「たしかに、元気でおりますが。祖父と代わりましょうか」
相手の了解を得て、風がおじいを起こしに寝室へ行く前に、茉莉花が走り出した。
「おじい、おじいと会いたいって」
眠っていたおじいが茉莉花に肩をゆすぶられて目を覚ます。
「おじい、おじいの同級生のお孫さんから電話なんだけど」
おじいは、ゆっくりと風に顔を向けて眠たげに瞼を上げた。
事の次第をかいつまんで説明すると、おじいは右腕を伸ばしたので風は起き上がるのを手伝った。
それから子機を渡した。茉莉花はおじいと一緒にベッドに腰かけている。風も隣の自分のベッドに腰を下ろしておじいのやり取りを見見守った。
おじいは時折うなずいたり、いくつか質問をしたりした。話がひと段落着いたのか受話器がまた風に渡された。
『ありがとうございます。葛城さんがお元気で何よりでした。お互いに直接お会いするには、住んでいる場所が離れているので……』
「いや、わたしが行こう。そちらに。風、お願いだわたしを連れて行ってくれ」
おじいが受話器を耳に当てる風の肩をぐっと掴んだ。
「す、すみません。本人が直接会いたがっているのですが、おじいさまの施設はどこに……」
風が尋ねると、木山は風たちの住まいから百五十キロほど離れた市の名前を挙げた。風は思わず天井を見上げた。高速を使って、ゆっくり行けば大丈夫か。ギリギリの感じはするが、ここしばらくなかったくらい、おじいに力がみなぎっているように感じる。
「ご迷惑でなければ、そちらにお伺いしてもよろしいですか。もちろん、おじいさまの体調が許すのでしたらですが」
『ええ、もしもそうしていただけるなら、祖父もどれだけ喜ぶでしょう』
ありがたく木山の申し出を受けることにして、細かい段取りを話し合うことしばし。あっという間に、日取りが決まった。
電話を切った風はおじいを見た。おじいの頬はいつもより明るい色になっているように感じた。
「おじい、すごい。おじいの同級生がいたんだ」
百歳同志の同級生に茉莉花も興奮状態だ。風はおじいを連れていく段取りを考えた。
もう同級生と会うことはかなわないと諦めていたおじいに、いきなり扉が開かれた。
無事に会わせてあげられますようにと、風は祈った。