第94話 新しい先生
草の匂いがする。
土の匂いがする。
夜だ。頭上には星々が煌めいている。
どこかの草原を背負った開けた場所。
土の地面に横たえられた倒木にレンは腰を下ろしている。
目の前にはパチパチと爆ぜる焚火。
その火を挟んで向かい側にやはり倒木に腰を下ろしているザリオンがいた。
静かな夜であった。
「余はこの大陸の者ではない。隣の大陸の国で生まれた。広い草原ばかりの国であった」
ザリオンは静かに語り出した。
その話は有名でありレンも知っている。
草原の国から来た伝説の傭兵……ザリオン・ヴェゼルザーク。
「実の親の顔は知らぬ。育ての親である一人の男がいた。何故その男が余を育てていたのかは知らぬ。だが男と自分が血が繋がらぬ事は早くから男は口にしていた」
火を見つめながら話す老帝。
レンの知らないザリオンの話になった。
「つまらぬ男だった。必要最低限の事しか口にせぬ。笑った顔など見たこともない。幼かった余は男の関心を買おうとした事もあったが、すぐにそれは無意味だと気付きそれからは男と同じように交流は必要最低限に留めて暮らした」
……子供に関心を寄せない親。
それは……。
レンの記憶にファルメイアと話した時のことが呼び起こされる。
「男は幼い余に狩りの仕方を教えた。自分の食う分は自分で確保せよというのだ。また何年か過ぎると今度は戦い方を教えた。その国では男は年頃になると傭兵として身を立てる者が多かった。男が余にそうしろと言いたかったのかはわからぬが……余はそうするつもりだった」
目を閉じるザリオン。
己の過去を語る彼の表情からはいつものようにどんな感情も感じ取れない。
「男との生活は無味乾燥で苦痛であった。早く一人で生きていけるようになり、ここを出るのだと……そればかりを毎日考えておった」
この話をファルメイアは知っているのだろうか? とふとレンは考えていた。
もし彼女も知らないのだとすれば誰も知らないのではないだろうか。
その場合、自分だけがこの英傑の過去を知る者だという事になる。
「十四の時に余は男の下を離れた。挨拶もない夜逃げ同然でな。それからは色々な土地へ行き、様々な仕事に手を出した。主に荒事であったがな。外の世界は刺激と学びに満ち溢れており充実と高揚の中で瞬く間に月日は過ぎ去っていった」
育ての親との別離を語るザリオン。
一瞬だけ彼の表情になんらかの感情が浮かんだ気がした。
仄かな苦味のようにも寂寥にも見えた。
「結局あれこれやった結果、やはり自分に一番向いているのは戦いだと気が付いた。それからはひたすら傭兵だ。海を渡りこの大陸に来て聖王国に腰を落ち着けたのは、当時あの国が周辺どの国とも関係が険悪だったからだ。仕事に困らぬだろうと思ってな」
微かに笑うザリオン。
……乾いた笑みであった。
「今にして思えば……」
顔を上げてザリオンは夜空を見上げる。
「血の繋がらぬ年端も行かない幼子を飢えさせることもなく養い、生きる術を教えたのは紛れもなく男の愛情であったのだろう。だが余がその事に思い至ったのも……そもそもが男の事自体を思い出したのも、何十年も時が過ぎてからの事であった。そして気が付けば余も男と同じ我が子に語りかけぬ笑いかけぬ親になっておった」
ザリオンの瞳の中で炎が揺れている。
「余は自分の人生が正しかったとも間違っていたとも言う気はない。それは余以外の者が勝手に論じればよかろう。少なくとも余は自分の歩んできた道にある程度の納得がある。ならば、それでよい」
男は幼いザリオンに笑いかければよかったのだろうか。
ザリオンは子供たちに笑いかければよかったのだろうか。
……レンは思った。
それらはきっと答えのない事だ。
その正解のない道を歩むことが生きるという事なのだと目の前の老人は告げているのではないだろうか。
「余が変えたもの、余が繋いだもの全てが余の遺産だ。善きものも悪しきものもな。余ほど多くのものを変えた男も中々おらぬだろう」
それには……全面的に同意する。
ザリオンほど多くを変えた男は存在しないだろう。
繋いだもの、変えたもの……レンもその一人だ。
ザリオンがいなければ今自分は何をしていただろうか。
滅びることもなかった故郷で暮らしていただろうか。
考えても仕方のない事だとは理解しつつも、それを思わずにはいられない。
死んでしまいたいと思うほどに辛い事もあったが、それでも今の自分は幸せであると思う。
その幸せをくれた紅い髪の彼女を想う。
その彼女と引き合わせてくれたのもザリオンであると言えるかもしれない。
「歩みを止めるな、レンよ」
老人のその一言を最後に周囲は光に包まれていった。
………………。
目覚める。自らのベッドの上でゆっくりとレンは身を起こした。
すっきりとした目覚めだ。
起き抜けだが頭は冴えている。
着替えて早朝の仕事へ向かう。
今日は少しだけ……いつもより前向きになれそうな気がする。
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その日は学園で週一の朝礼のある日であった。
講堂に集められた全校生徒。
そして今、皆を前にしてシフォン学長が登壇した。
「おはようお前たち。自分を磨き続けているかい? 日和った生き方してるんじゃないよ」
これはこのファンキーな老婆のお決まりの挨拶だ。
「今日はお前たちに新しい導き手を一人紹介する」
……そして、彼女が壇上に姿を現した。
スーツ姿のスタイルのいい美しい女性だ。
ヒュウ、と誰かが口笛を吹いた。
「柳生キリコだ。研究者であり医師でもある。彼女には講義と養護を担当してもらうよ」
紹介されたキリコ教諭が一歩前に出ると頭を下げた。
「よろしくお願いします。皆さんの学びと成長のお手伝いができる事を嬉しく思います。仲良くしてくださいね」
そう言って微笑んだキリコ。
知的で涼やかな面持ちの女性だが笑うと愛嬌がある。
それだけではなく……何と言っていいのか、容姿以上に惹き付けられる何かがある。
何となく鼓動が早くなり落ち着かなくなるレンであった。
「よっしゃ俺は怪我するぜ」
早速余計な発言をしているライオネットが周囲の女子生徒たちから微妙な目で見られていた。
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その日の放課後。
レンがお迎えのマーニーにシエンの付き添いを引き継ぐ為、彼と一緒に校内の廊下を歩いていた。
すると前から白衣の女性が来る。
今日一日は校内の噂をほぼ独占していた新任教師……柳生キリコだ。
「さようなら、キリコ先生」
「さようなら。また明日ね」
挨拶をするレンたちに対してキリコも笑顔で挨拶を返す。
そして……。
「……あら?」
「?」
キリコのその一言にレンとシエンは足を止めた。
見ると振り返った彼女がシエンを見ている。
「…………………」
「どうかしましたか……?」
レンが声を掛けるとキリコはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、なんでもないわ。ごめんなさいね」
そう言って柔らかく微笑んで彼女は歩いていく。
「ヴェータ人が珍しかったんでしょうか?」
シエンも不思議そうな顔をしていた。
…………………。
柳生キリコは今歩きながら物思いに耽っていた。
(珍しい。魂の陰陽がちょうど均等)
先ほどのヴェータ人らしき少年。
(あの魂の波長は確か、皇国の……)
……しかし、そんな事があるのだろうか。
あの血筋は絶えたと聞いているが。
(いずれにせよ、そっちは私の研究対象ではないからどうでもよいのだけどね。……『黒色卿』が探していたわね。見かけたら教えて欲しいと)
足を止めて窓の縁に手を置く。
(どうしましょう? そこまでする義理はないのだけど)
見つめる外の景色を先ほどの二人が歩いていく。
(……いいわ。わざわざこちらから連絡を取らなくても。機会があればで。赴任したばかりの職場を荒らされるのも愉快な気分はしないしね)
そう結論付けてキリコは目を閉じ、そして窓辺を離れ再び廊下を歩き始めるのだった。




