第59話 全てを怒りで
「お話したことがございますが。自分は皇国の三等神民……奴隷階層の出です」
語り始めたヴァジュラ。
彼の口調は普段同様に淡々としていて抑揚がない。
トリーナ・ヴェータ皇国にはかつての聖王国以上とも言われる厳格な身分制度が存在していた。
貴族の一等神民、平民の二等神民、そして……奴隷の三等神民だ。
巨大な聖なる御山ロカ・アウロカを数百年の年月をかけ階段状に開拓し作られた神都パーラディカ。
最上段は皇宮があり貴族たちの住居があり、二段目には平民の市街があり、地上部には奴隷の暮らすスラム街が広がる三層構造の都市。
奴隷の大半は三層で生まれて三層で死ぬ。他所へ移る自由もない。
ヴァジュラは三層で毎日同胞たちがゴミのように死んでいくのを見て育った。
「妹がおりました。幼いころに親に捨てられた自分にとってこの世でただ一人の家族でした」
ヴァジュラの妹はマリーシャと言った。
彼よりも四つ年下で、草花を愛する優しい性格の少女だった。
だが生まれつき肺が悪く頻繁に臥せっていた。
ヴァジュラは奴隷としてはましな稼ぎを得ていたのだが、そのほとんどは妹の薬代に消えた。
妹の存在だけが彼の全てであった。
「ほとんどの一等二等の神民は奴隷を使い捨ての道具と思っておりましたが、中にはほんの一部自分たちにも優しく接してくれる御方もおりました。自分と妹のいた孤児院に寄付を下さっていた篤志家のご息女のサルラーマ様もその御一人でした」
皇国でもかなり上位の貴族である家の娘であったサルラーマ。
彼女は人格者であった親の影響で奴隷に対する偏見を持たなかった。
幼いころから孤児院へは何度も足を運び、ヴァジュラ兄妹とも兄弟のように育った。
成長してからも交流は続き、ヴァジュラは彼女のおかげで極一部の奴隷にしか許可の下りない上層への出入りの権利を得てそこで仕事をすることができた。
やがて彼女は若き神皇に見初められ皇妃となった。
妃となってからも彼女はヴァジュラを気にかけてくれ彼は奴隷としては多い稼ぎを維持することができた。
「兄さん、いつも……ありがとう」
病床でほほ笑む妹にヴァジュラも微笑みを返す。
苦しいが穏やかな生活。
……だがそれは突如として暗転する。
ヴァジュラに薬を売っていた二等神民の男が突然大幅な値上げを要求してきたのだ。
「ほぼ三倍……こんなに用意できるはずがない!」
「嫌ならいいんだぜ? こっちも別にお前だけと商売してるわけじゃない。他を探すんだな。俺みたいに奴隷相手に取引してくれる優しい奴がいればいいがな?」
小太りの中年である薬売りはそう言って鼻で笑った。
確かに男の言う通りに奴隷相手にまともな商売をしてくれる相手はほとんどいない。
平気で騙してくる。
金を払えばちゃんと品物を寄越してくるだけでもこの男はかなりマシな部類と言わねばならないのだ。
司法も奴隷相手だとまずまともに取り合ってはくれない。
肩を落として去るヴァジュラを見ながら薬売りの仲間の男が声を掛ける。
「おい。……いいのか?」
「ふん、構やしねえよ。野郎、生意気に奴隷の分際で上層に出入りしてるって言うじゃねえか。せいぜい搾り取ってやるさ。どうせ死んだって奴隷だ。誰か悲しむような奴もいねえよ」
薬売りはそう言って下卑た笑みを見せるのだった。
元々、妹の薬代は稼ぎをギリギリまで圧迫していた。
三倍にされて生活が立ち行くはずがない。
それでも最初の月はヴァジュラは身体を壊す勢いで働き、何とか金を作る事ができた。
だが次の月になり彼は完全に行き詰った。
手当たり次第に仕事を請けて仲間の仕事が減った為に同じ三層の住民たちからも白い目で見られ始めていた。
薬が買えなくなり一月が過ぎ、二月が過ぎ……マリーシャの病状は徐々に悪化していった。
ある夜、ヴァジュラは密かに上層に来ていた。
サルラーマに金を借りようとしたのだ。
彼女に借金する事はこれまでも何度も考えてきた。
だが、返せる当てがまったくないのだ。返済ができない事は目に見えている。
善意に甘えて金を借りそれを返さない自分を見て彼女がどう思うだろう。
そしてそれで凌げるのは薬一回分だけなのだ。
そう考えてできずにいた。
……だがもう限界だった。
目の前の一回分の薬をどうにかするしかない。
そこまで彼は追い詰められていた。
サルラーマは話を聞くと即座に彼に金貨の入った袋を持たせた。
何故もっと早く相談しなかったのだと泣きながら彼女は怒っていた。
それを手にして彼は下層へと走った。
ヴァジュラを出迎えたのは物言わぬ冷たい骸となった妹だった。
彼は間に合わなかったのだ。
……何故だ!!
血の涙を流しながらヴァジュラは怒った。
何故妹は死ななければならなかったのだ。
あんな心の優しい娘が、若くして、何故。
一等神民の子であれば戯れに散在できる程度の金がないが為に。
許さん。
この国を許さん。全て破壊する。
歪んだ構造に支えられたこの皇国をいつの日かこの手で滅ぼす。
それを誓って彼は国を脱出した。
その日、サルラーマの下へ金貨の入った袋が届けられた。
結局彼が使わなかった金の入った袋。
袋にはボロボロの紙片が添えられていた。
『ありがとう。さようなら』そこには走り書きでそう記されていた。
「…………………………………………」
ヴァジュラの話を黙って聞いている二人。
ザリオンは表情を変えずに、ゼムグラスは何度もハンカチで涙を拭っていた。
「……そして自分は陛下に拾って頂きました」
「うむ」
その時の事はザリオンも覚えている。
『貴方の為にこの命を捧げましょう。ですから、どうか……皇国を攻める時は自分を先陣に』
そして皇国に滅亡の時がやってきた。
難攻不落の神都パーラディカを攻略する方法をもたらしたのは皮肉にもかの国から脱出してきた多くの元奴隷たちであった。
能力のある者一切の出自は不問……その帝国の情報が流れると三層で暮らしていた多くの才覚ある者たちが逃げて帝国へと向かったのだ。
神都で暮らしてきた彼らは神都の弱点や有効な攻め方を熟知していた。
自分たちが足蹴にしてきた、虐げてきた者たちの逆襲で皇国は滅亡した。
炎に包まれた皇宮の廊下を部下を伴って進むヴァジュラ。
有力者らしき人物を捕えたとの報を受けての事だった。
捕えられたのは皇妃サルラーマであった。
竜化が進み異形と化した彼を見て彼女は泣いた。
「ヴァジュラ……貴方は。それほどまでに怒ったのね。それほどまでに嘆いたのですね」
「サルラーマ様。自分の力で御身お一人であれば逃がして差し上げられます。どうか一緒に来てくださいますよう」
ヴァジュラの言葉に泣きながらサルラーマは首を横に振った。
「いいえ。いいえ、ヴァジュラ。私が逃れてきたのはこの子を何とか生かしたかったからです。この子をどうか……お願いします」
皇妃は眠る赤子を彼に託した。
「私は戻ります。私は皇妃……神皇様とこの宮殿を捨てて逃れる場所はありません」
彼女は燃え盛る炎の中を戻っていった。
そして滅びる国と、焼け落ちる皇宮と運命を共にした。
「自分は連れ帰った子を自分の子として育て始めました。あれには自分の事を戦火の中で拾った子だと説明してあります」
「よくわかった。大儀である」
そう言ってからザリオンは天井を仰ぎ見た。
「最後の神皇バーラヴァの妃か。バーラヴァは中々の男だったそうだな」
「はい。上級民の激しい反対にあいながらも少しずつ身分制度の撤回を進めていたそうで。バーラヴァ神皇が十年早く生まれていればまだ皇国は健在で我らと戦い続けていたかもしれないと言われております」
うなずくゼムグラスが言葉を続ける。
「武器を取っては無双の英雄王。天魔七将とも何度も戦い何度も退けてきました。最期は……」
「ギエンドゥアンか」
皇帝の言葉にうなずくヴァジュラとゼムグラス。
ヴァジュラはあの日の記憶を思い出す。
炎の向こうに消えたサルラーマ。
赤子を抱いてそれを黙って見送る自分。
……そして、彼女の消えた方から入れ違いになったように姿を現した者がいた。
「ええいクソッ!! なんじゃアイツ!! バケモンみたいな奴だったわい!!!」
現れたのはギエンドゥアンだ。
満身創痍といった様子で血だらけの彼。
千切れた自分の左腕を右手でぶら下げて持っている。
その時はヴァジュラは彼がやられてきたのだと思った。
だがそうではなく、ギエンドゥアンは神皇を仕留めた帰りだったのだ。
『この傷は酷いな!! 瀕死だぞ!!』
すれ違いながら彼は叫んだ。
自分の隊で手当てをさせようとヴァジュラが彼を呼びとめ振り返った時……。
「ン? 何かね? ヴァジュラ君。……ほぉ、可愛い坊やじゃないか。ベロベロバァ~」
まったくの無傷の彼が、そう言ってヴァジュラの腕の中の赤子に舌を出してあやしているのだった。




