第57話 朝からうな重
早朝の帝城の廊下をほとんど走るような早足で進む者がいる。
三宰相の一人レナード・ウェザー。
彼の顔は青ざめており表情は引き攣っている。
足早に駆け込んだ場所は彼と同じ三宰相のゼムグラス・ヴェゼルザークの執務室だ。
「……陛下のお加減は!?」
「大丈夫だ。今は落ち着いていらっしゃる」
ノックも挨拶もなしに飛び込んできたレナードに疲れた顔のゼムグラスが答えた。
……昨夜の事だ。
カタン、とテーブルにグラスが倒れ中身が零れて広がった。
「む……」
グラスを倒したのは皇帝ザリオン。
夕食の席での事だった。
「いかんな。酔ったか……」
彼の言葉に周囲の侍従たちが顔を見合わせる。
誰もが視線で「酔うほど飲んでいないはずだ」と語っている。
「ぐ……」
皇帝の身体が斜めに傾き、彼はテーブルに片肘を突いた。
「……陛下!!」
侍従たちが一斉にザリオンに駆け寄る。
「騒ぐな。……少し眩暈がしただけだ」
ザリオンはそう言うが明らかに彼の顔色は悪く、呼吸も乱れている。
「とにかく、とにかくまずは御寝所へ……」
「ゼムグラス様を御呼びして参ります!」
左右を侍従に支えられながら席を立つ皇帝。
彼は特に文句も言わず、抵抗もしなかった。
…………………。
「医者はなんだと……?」
落ち着かない様子で部屋の中をうろうろと歩き回っているレナード。
「お身体が弱っているそうだ。ご病気の様子ではないと。薬は出してもらった」
「…………………」
ゼムグラスの答えに頭をばりばりと掻いたレナードがふーっと重たい息を吐いた。
「ともかく、まずはお見舞いを……」
「いやダメだ。病人扱いするなと御機嫌が悪くなる」
退出しようとしたレナードを止めたゼムグラス。
つまり彼がそういう目を見たという事だ。
長椅子に乱暴に腰を下ろすレナード。
彼は膝の上に両肘を置いて前のめり気味に猫背になる。
「……どうする?」
「ともかく、今はまだこの事は伏せておく。私とお前の胸の内だけに留めてな。口外はするな。……七将にも、他の者にもだ」
険しい顔のゼムグラスにレナードはうなずいた。
「私の兄にも、お前の妻にもだぞ! わかっているな!?」
抑えた声音ながらに強い調子で言うゼムグラスに額に汗を浮かべたレナードが再度うなずきを返すのだった。
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朝の光の眩しさに意識がゆっくりと覚醒していく。
南雲響が顔をゆっくりと上げると、そこは馴染みのない部屋であった。
(あ~そうだ。昨日はアタシはレンの部屋に泊まっ……)
「……!!!??」
ガバッと跳ね起きた銀髪の獣耳少女。
そうだここはレンの部屋。自分は……カーペットの上で寝ていたのか。
毛布が掛けてある。
……そして、部屋の主はやはり目の前の床で眠っていた。
二人の間には散らばった多数のカード。
(だああああああ!!!! やっちまった!! 夜中までカードで遊んでて寝落ちしたのかアタシは!!!)
紅蓮将軍ファルメイアへの揺ぎ無き忠誠心が評価され、ヒビキは月に一日だけレンの部屋でのお泊りが許可されていた。
つまり主人公認で色々致したとしてもお咎めのない日……の、はずだったのだが。
「朝になっちまったよ。あんだけ覚悟して……二時間かけて下着選んできたのに……朝に……うっうっ」
状況を見るに、レンは自分が寝落ちしてから毛布を掛け、そして自分だけベッドを使う事に抵抗を感じて同じく床で寝ることにしたのだろう。
さめざめと泣くヒビキであった。
ヒビキに起こされ目覚めたレン。
ヒビキは髪を整え身体を拭き、甲斐甲斐しくレンが身だしなみを整える手伝いをしてから朝食の支度を手伝うと言って部屋を出て行った。……泣き笑いの顔で。
レンも一通りの準備を終えてから部屋を出た。
「う……」
何故か、モニカとシルヴィアの二人がまるで彼を出迎えるように壁際に並んで整列している。
「レンさまぁ? 昨夜は随分お楽しみでらっしゃいました? ま、私が? 気にする事じゃ? ないですけども?」
薄笑いのモニカ。
ただその目は笑ってはいない。
「学生の内からあまり乱れた生活をするのは、姉さんどうかと思うわ」
指先で眼鏡の位置を直しながら静かな声で言うシルヴィア。
「それと、ジンシチロウ様から色々と届いているから。鰻と大蒜と山芋と蛇の生き血……なんだか精のつきそうな物ばかりよ。誰宛とは言われてないけどレンにだと思うから大半貴方が処理してね」
「生き血!?」
目をむくレン。
その彼の頭が後頭部から何かでスパーン!と勢いよく叩かれた。
「!?」
驚いて振り向くとファルメイアがいる。
何やら手製のハリセンを持って。
「ファルメイア様……?」
何やら不機嫌な様子の主人。
「どすけべ」
端的に罵倒する彼女に「でもあなたが許可を出したのでは」と視線で訴えるレン。
……ついでに言うなら自分は何もしてない。
「わかってるわよ。でもこういうのは理屈じゃないの」
どうやら声に出さなくても伝わったようだ。
そこにエプロンと三角巾を着けたヒビキが微妙な笑顔でやってくる。
「朝メシ……いえ、朝食の支度できてますよ~。うな重で~す」
彼女に促され一同が食堂へと向かう。
「朝からうな重か~」
何とも言えないモニカの呟きが印象深い朝であった。
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同時刻。
天魔七将ヴァジュラ邸。
トントンとヴァジュラの私室の戸がノックされる。
彼は床に敷かれた獣の毛皮の上で身を起こした。
この部屋には立派なベッドがあるのだが彼は滅多にそれを使う事はない。
竜化した部分が布団を傷めるというのもあるのだが……そうでない頃から彼はこうして眠ることが多い。
その方が落ち着くのだという。
「入れ」
「しっ、失礼しますぅ~」
ヴァジュラが言うと扉が開いて何やらふにゃふにゃした声が聞こえた。
メイドのマーニーが入ってくる。
瞳が大きく丸い眼鏡を掛けている褐色の肌のメイド……ヴェータ人である。
「だ、旦那様ぁ~坊ちゃまが、坊ちゃまにまた例の症状が~」
「……!」
ヴァジュラの瞳が揺れる。
「学園に連絡を……今日は休ませる」
「わ、わかりましたぁ~。はひぃ~」
彼女の語尾の何だかよくわからない鳴き声のようなのは結局なんなのかヴァジュラにもよくわからない。
多分よくわからない鳴き声のようなものなんだろうと思う事にしている。
ここのところは安定していたのに……複雑な心境のヴァジュラだ。
しかし今はまず学園で症状が出なかったことを不幸中の幸いとするしかない。
そうなった時は職員の手を煩わせることになる。
「お、お父様……」
扉の陰から顔を僅かに覗かせたシエン。
何故か彼はそこから室内に入ってこようとはしない。
躊躇うように室内の父の様子を窺うだけだ。
「お父様、ごめんなさい。……最近は安定していたのに。私……私、オレ、またこんな……」
「お前が謝る事ではない」
淡々と返答するヴァジュラ。
こういう時、言葉に感情を乗せる事のできない自分を歯痒く思う。
だがこればかりは自分でもどうしようもない。
……笑い方も、泣き方も。
そして誰かに掛ける優しい言葉も。
全て無くしてしまった。祖国を捨てたあの時に。
持っていくことができたのは怒りだけだ。
その怒りも十四年前の戦いで燃え尽きた。
今はただ乾いた荒野に吹く風のような心境があるのみだ。
「休め。すぐに良くなる」
「はい。お父様……失礼します」
ぱたぱたと遠ざかっていく足音を聞きながらヴァジュラは自分の右手を見た。
恐ろし気な黒い鉤爪の付いた鱗の並んだ右の腕。
この手ではもう我が子を撫でてやる事もできまい。
悲しいでもなく、寂しいでもなく。
……その事がただ、虚しい。
……………。
ぱたぱたと廊下を小柄な足音が進む。
その音は普段の彼のそれとは違い明らかに軽い。
(うう……久しぶりにこうなっちゃった。どうしてだろう。最近は大丈夫だったのに)
足早に自室に向かうシエン。
彼は自分の身体を両手で抱くような姿勢でうつむいている。
(確か……レン先輩の事を考えていたらビリビリッときて、それで……)
はぁっ、と盛大なため息をつくシエン。
(まったく、何でだよ! レン先輩の事考えてたら普通はあっちになるはずだろ!? オレは、強くてカッコいいあの人みたいになりたいんだから……)
この状態は……落ち着かない。
なんだかあちこち柔らかいし頼りない感じがするから。
でも早く治さないと学園にも行けない。
(お父様は特殊な病気だから根気強く向き合っていこう、って言ってるけど)
とにかく寝てしまおう。
病気ならばまずは栄養と睡眠のはずだ。
そう思いながら自室の扉を開くシエンであった。




