第44話 蛇と糸
逃走を図ったヒビキ。
彼女はどんどん人気のない方へと向かっていく。
人のいる側に逃げれば巻き込んでしまうかもしれない。
それを恐れてより襲撃者にとっては有利な環境の場へと逃げ込んでしまう彼女であった。
背後からどんどん迫ってきていた殺気が消えた。
そう思った次の瞬間、彼女の足に無数の裂傷が刻まれる。
「……ッ!!!」
悲鳴を噛み殺しながら地面に倒れ転がるヒビキ。
そのままその回転の勢いで身を起こす。
構えた太刀の切っ先の向こう側に迫ってくる黒衣の鬼人がいた。
「ま~お前さんはよく頑張ったよ~。苦しまずに死なせてやるからな~」
緊迫感のない喋り方がこの男の特徴だ。
だが言葉とは裏腹に攻撃は容赦なく冷酷で正確。
ギルド最強の始末屋ラセツ。これまで数多くの仕事をこなしてきた殺しのスペシャリストである。
「そらっ!!」
振るった腕の周囲に微かな煌めき。
「…………!!」
横に身を投げ出すようにして辛うじて致命傷を避けたヒビキ。
身体に無数の傷を付けられ血を流しながらも彼女は未だに抗い続ける。
(壊れかけた片足でよくやる……)
感心するラセツ。
片足が上手く動かなくても残りの四肢をフル稼働して必死に彼女は攻撃を凌いでいる。
……それに、その目だ。
未だに彼女は絶望していない。生きることを諦めていない目だ。
(なるほどなぁ~。こりゃ殺しとかなきゃいかんわ~。生かしといたらこの娘、きっと相当な使い手に育つだろうなあ~)
だが将来性が無限であっても現時点では双方の実力差には残酷な隔たりがある。
もう……後ほんの数手で彼女の命運は尽きる。
その最後の一糸を放とうとラセツが構えたその瞬間であった。
「おォォォい……」
「!!!!」
地獄の底から響いてくるかのような低い声。
その男は突然そこに現れた。
亡霊のように。
そしてまたその面相も……亡霊じみて毒蛇のようで髑髏のような……。
「てめぇが来るのかよ蛇骨ゥ!! あぁ面倒臭ぇぇぇ!!!」
不意に至近に表れた白い道着の男にラセツは身体ごと向き直った。
顔色の悪いげっそりと瘦せこけたぎょろりと目の大きな男……紅蓮師団副長ミハイル・ミュンヒハウゼンがそこにいた。
「学園の帰り道で女生徒襲ってんじゃねぇですよ~この不審者がぁ!!」
「てめぇはサビ残でやれる相手じゃねえんだよ~! ふざけたタイミングで出てきやがってぇ~!!」
抜き放ったサーベルでミハイルが突き掛かる。
手首を振動させ激しく波打たせた刀身が無数に分裂したようにいくつもの刺突を生んだ。
迎え撃つラセツが両手を振るう。
先ほどまでの余裕の振る舞いではない。全力の糸が縦横無尽に虚空を駆け巡る。
「蛇咬剣!!!!」
「斬糸・獄門!!!」
両者の秘技が交差する。
互いに無数の傷を負って血飛沫が茜色の空に舞った。
(クソがッッ!! やっぱり生き死にだ!! ……こっちはそんなギリギリの勝負しに来たんじゃねえんだよ~!!)
牽制の為の糸を放ち、ミハイルの足が止まった隙にラセツは大きく後方に跳んだ。
「手ぇ出しておいて仕留め損なうのは初めてだしよ~……仕事で血ぃ出したのも数年ぶりだぜ~。あぁ、面倒臭ぇぇぇ」
そして恨み言を残して暗殺者は跳躍し建物の向こう側に姿を消した。
「何だアイツ……若さがねぇなぁ若さがよぉ。お仕事はもっとハツラツとやんなきゃな~? まぁ、ボクちゃん今おサボりで来てるんですけどもぉ」
軽口を叩きながらサーベルの血を懐紙で拭って鞘に戻しミハイルはヒビキに歩み寄る。
「紅蓮師団のミハイルちゃんですよ~ん。一つヨロシクぅ。ちっと待ってなぁ今怪我の面倒見てくれる奴呼ぶからなぁ」
懐から小さな筒を取り出して付いている紐を引くミハイル。
すると筒から小さな花火が上がって上空でポンと弾けた。
何かの合図のようだ。
「紅蓮師団……ファルメイア様の。危ないところを本当にありがとうな。助かったぜ……」
足を負傷し立てなくなっているヒビキが座り込んだ姿勢のまま頭を下げた。
「ああ、アンタもこんな怪我して……」
「あぁ、こんなん何でもねえよぉ。もう塞がりかけてる。後で困るようなもらい方はしませんのでぇ」
事も無げに言ってミハイルは自分の身体の傷を見る。
彼の言うとおりにもうその傷はどれも赤黒く血が固まって出血は止まっているようだ。
……自分は技とも呼べない攻撃でやられる寸前だったのに、あの恐ろしい糸の奥義に晒されていながら。
目の前の男の実力に戦慄するヒビキである。
「お礼ならレンちゃんに言ってやってよね~ん。俺ぁヒマしてたら頼まれたんで来ただけだからさぁ。……まあ近くで飯食ってたから危うく間に合わんトコだったけどそこは内緒にしといてチョーダイ」
「レンが……。そっか」
ジンシチロウの護衛がこの日外れることを聞かされていたレン。
彼は暇を持て余している(ように見える)ミハイルに前日からヒビキの護衛に行って欲しいと頼んでいたのだ。
痛みに表情を引き攣らせながらもはにかんだチハヤ。
そんな彼女たちの元に紅蓮師団の救護兵たちが駆け付けてきた。
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暗殺者ラセツによるヒビキの襲撃とその失敗から一週間ほどが過ぎた。
……彼女はあれから登校してきていない。
後遺症の残るような負傷は無かったと聞かされているが……心配で落ち着かない日々を送るレンである。
そしてその日、紅蓮将軍ファルメイアは玉座の間で皇帝ザリオンに謁見していた。
「……巡察の旅か」
皇帝は静かな低い声で言う。
玉座に座る彼の前には片膝を突いてファルメイアが頭を下げていた。
いつものように皇帝の傍らには宰相ゼムグラスが控えている。
「はい。慰安を兼ねてあちこち回ってこようかと。……ここの所色々ありましたので」
「ふむ……」
紅蓮将軍の言葉にザリオンは何事かを考えているかのように顎に手を添えた。
「よかろう。行ってくるがいい」
「ありがとうございます。陛下にはちょっと寂しい思いをさせてしまうかもしれませんが……」
ファルメイアの軽口に困ったやつだという様にため息をついたゼムグラス。
もう諦めてしまったのかいつもの叱責はなかった。
「小娘が抜かしおるわ」
ザリオンはただ穏やかに笑うのみである。
こうして皇帝の許しを得た紅蓮将軍は帝都を離れることになった。
「数ヶ月……ですか?」
尋ねるレンに主人がうなずく。
「そうよ。あんたは休学。場合によっては留年させちゃうけど、来るでしょ?」
「行きます」
迷わずに答えたレン。
この巡察行が持つ重要な意味を彼は知っている。
炎に包まれ終焉を迎えた故郷……シンガン。
街と共に消えた大切な人々、そして思い出。
惨劇を企み引き起こした首謀者に繋がる証拠を集める為の旅だ。
恐らくはかなりの権力者であろうと思われる黒幕。
例えその正体が判明したとて万人に示せる証拠がなければどうしようもないのだ。
自分たちだけがそれを知っていて制裁を加えてもそれは私刑になってしまう。
最悪の場合は罪を負うのはこっちだ。
……聞かされてはいないがレンは何となく主人にはもう黒幕の目星が付いているのではないかと思っている。
それは構わない。
レンに対するマイナスの感情で情報を伏せるような人ではない事はもうわかっているから。
今自分が集中するべきはヒガンの事だ。
道中で妨害に現れる可能性もある。
……その時、自分はどうするのか?
どうしたいのか?
その事をもう一度自分の中ではっきりさせておかなくてはならない。
あの炎の夜に始まったレンの……。
獣の耳の復讐者の……最後の旅が始まろうとしていた。




