第32話 紅蓮将軍ですから
一人の少女が泣きながら広い廊下を歩いている。
ほんの幼い女の子だ。手にはウサギのぬいぐるみを抱いている。
「パパ……パパ……どこ?」
ぽろぽろと涙をこぼす少女。
彼女にとっては今いる場所は未知でありまた広大過ぎた。
幅広く奥深い廊下はまるでどこまでも際限なく続いているかのように見える。
「なんだ? 娘……お前は」
低い声がして少女が見上げる。
そこには大きな男が立っていた。
彼女のパパよりもずっと背の高いその男は大分白髪が混じった長い髪を背中に流した顎鬚の鋭い顔つきの男だった。
大きな男が片膝を床に突いて少女と目線の高さを合わせる。
「何故こんなところにいる、娘」
「パパが……いないの……」
しゃくり上げながら少女は辛うじてそれだけを口にする。
すると彼女がふわっと浮き上がった。
大きな男が彼女を抱き上げたのだ。
びっくりして目を丸くした少女の涙が止まる。
「父親の……パパの名はなんという?」
「……グランシス」
少女が父の名を告げると男の眉が訝しむように顰められた。
「グランシス? なんだあやつ、冴えない顔をしておるのに娘は可愛いな。そなた……母親似か?」
酷い事を言う男であるが、幼い少女はまだその意味はわからない。
彼女はきょとんとした顔で自分を抱く大きな男の顔を見ている。
多くの大人が威圧感を感じ畏れる顔である。
だが少女は不思議と安心できる顔だと思った。
そこに慌てた様子の文官の装束の中年男が姿を現した。
「イグニス!! ああ、イグニス……ここにいたのか!!」
慌てて駆け寄ろうとして文官は自分の娘を抱いている男の顔に表情を硬直させ、そしてひざまずく。
男が優しく少女を下ろすと彼女は小走りで父へと駆け寄った。
そして、彼女は背後の男を振り返る。
「……おじちゃん、ばいばい」
小さな手を恐る恐ると言った様子で振る少女。
「い、イグニス!!? いいかい、この御方はね……」
「グランシス」
慌てる文官を留める男。
「……子供につまらぬ事を言うな」
「は、ははッ……。申し訳ありません。妻が臥せっておりまして……家族も側にいてはならぬと。今日は私と離れないと言って聞かずに」
弁明する文官に男は「構わぬ」と短く答える。
「またな、娘」
そして父に抱き上げられた少女に向かって男は静かにそう言ったのだった。
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昼の日差しの心地よいテラスで皇帝ザリオンは盤上の遊戯に興じていた。
数種の兵種の駒を使い相手を王の駒を狙うゲームである。
彼と共に宅を囲み正面に座り相手を務めているのは深紅の髪の美少女だ。
「勝負事の最中に居眠りですか? 陛下」
目を閉じたまましばらく動かなかったザリオンにファルメイアがからかうように言った。
皇帝は開眼すると日差しが目に染みたのか眩し気に目を細める。
「いつであったか……ぬいぐるみを抱いて廊下で泣いておった娘がいたな。それを思い出していた」
「はいはい。私にも可愛い頃がありましたね~」
ファルメイアはおどけて大げさに肩をすくめた。
そして彼女はニヤリと笑うと自分の駒を一つ進める。
「そんな思い出に浸っている陛下に王手ですけど、どうします?」
「ぬ。……むぅ」
すっかり真っ白になった長い顎鬚を手で擦りながら盤上を凝視する皇帝。
やがて彼は投了するしかない事を悟る。
「……もう一局だ」
「いいですよ。これで私の三勝二敗ですね」
盤上を崩して並べ直す二人。
「最近は悩み事はないか」
駒を開始位置に並べながら皇帝が尋ねた。
「そりゃ色々ありますよ。責任のある立場ですから」
即答するファルメイア。
苦笑交じりの嘆息を添えて。
「……でも、大丈夫です」
続く彼女の言葉にザリオンは僅かに眉を揺らすと顔を上げた。
彼女は笑っている。
ただ可憐だったあの頃とは違う、確かな強い輝きを放つ笑顔だ。
「自分でどうにかします。……だって私、紅蓮将軍ですから」
「そうか」
目を閉じる皇帝。
「……では、お手並み拝見といこう」
そして老いたる帝王は穏やかに笑うのだった。
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早朝の草原に一人立つ男がいる。
その男は大柄な体躯に濃い灰色の毛の狼の頭部を持つ獣人である。
筋骨隆々なその身体もまた獣毛に覆われている。
簡素な革鎧に身を包み巨大な鉄塊を括り付けた鉄の棒を片腕で振り続けている。
その鍛錬はそろそろ二時間近くにもなる。
「ご精が出ますね……将軍」
獣人に声を掛けて近づく者がいる。
狼の男は鉄塊を振り回す手を止め声のした方を見た。
黒い鎧姿の銀髪の若い男が右腕を地面と平行に胸のやや下に付けて頭を下げる帝国軍式の礼をしている。
「ルキアード殿か。野営地までいかがした」
ルキアード・ヴェゼルザークは金剛将軍ガイアードの長男であり、金剛師団の副長である。
厳つい父に比べすっきりと整った細面の青年だ。
そして狼の獣人は彼の父と同じく天魔七将『狼牙将軍』ダイロス。
彼の率いる狼牙師団は現在帝都から600kmほど西方のこの草原地帯で演習中であった。
「ガイアード将軍の命によりお酒と食料を運んでまいりました。師団の皆様でお召し上がりください」
にこやかに言うルキアード。
父に比べ彼は柔和で人当たりがいい。
「そうか。それはかたじけない。御覧のような場所で大したもてなしはできぬが何か用意させよう。こちらへ」
訓練用の鉄棒を肩に担ぐとダイロス将軍が草を踏んで歩き出す。
「お邪魔してしまいましたか」
「いいや。そろそろ切り上げる時間だった」
首を横に振ったダイロス。
無骨で愛想というものが欠落している男だが実直な人柄で彼を知る周囲の者たちからの信望は厚い。
「辛くはないのですか?」
「鍛錬は己を見つめ、向き合う時間だ。辛いと思ったことはない」
彼の性格そのものであるかのような落ち着いた堅苦しい口調で言うダイロスであった。
四半時の後に野営地中央に設置されている革製の大型のテントの中でダイロスとルキアードは卓を囲んでいた。
木製の椀で乾杯を交わし互いに喉を潤す二人。
「父はいずれ御爺様……陛下の後を継ぎ帝国の民を導いていく立場にならんとしております。その時は是非に将軍にもお力添えを願えればと」
空になった将軍の椀に酒を注ぎながら言うルキアード。
「うむ。かねてより約束しておる通り、その時はこのダイロス……必ずやガイアード殿のお力となろう」
うなずく狼頭の将軍。
……この男、ダイロスがガイアードの味方をするのにはある理由がある。
数年前の事だ。
ダイロスの妻が難病にかかり生死の境を彷徨ったことがあった。
その時、ガイアードが手を尽くして探してきた医者と薬のお陰でなんとか妻は一命を取り留めることができたのだ。
その事を深く感謝し恩義に感じているダイロスは皇位継承問題ではガイアードの味方をすると決めているのであった。
無論それは単なる恩返しだけではなく、彼の目から見て次代の皇帝としてガイアードが問題のない人物であると評価している故のことでもある。
ガイアード陣営に取っては宰相ゼムグラスと並ぶ継承戦の貴重な味方の一人であった。
現時点ではガイアード支持の姿勢を明確にしている唯一の天魔七将でもある。
その為こうして彼は息子を派遣し関係の確認と強化に努めているわけである。
「こちらからもお願いいたす。その時はどうか……強大で、そして民が心穏やかに過ごせる帝国を築かれますよう」
「父の目指しているものはザリオン陛下の治世です。大丈夫ですよ」
今現在も大陸各所で戦争は起きている。
帝国が大陸を完全に制覇するための戦争である。
だがもう大陸には帝国と互角の勝負ができる勢力は存在しない。
唯一帝国と比肩しうる強大な軍事国家トリーナ・ヴェータ皇国が十三年前に滅亡しこの大陸の運命は決定付けられたのである。
あとは時間の問題だ。
いずれ帝国は完全に大陸を掌握するだろう。
その時に民が平穏に暮らせることがこの狼頭の将軍が軍を率いる理由であった。
「出来うるならばザリオン陛下に完全に帝国の名の下に統一された大陸をお見せ致したいが……」
椀を傾け、そう言ってダイロスは深く息を吐くのだった。




