第30話 一度きりの約束
時は数日前に遡る。
帝城ガンドウェザリオス内、宰相レナードの執務室。
この部屋の主、三宰相の一人レナード・ウェザー……彼は細面で整った顔立ちの中年男性である。
帝国の政治の中枢にいる権力者にしてはやや繊細そうな面相か。
栗色の長髪は綺麗に整えられゆるやかなウェーブを描いている。
全体を統括する三宰相ゼムグラスと経済を中心に辣腕を振るう宰相ブロードレンティスに対し、レナードは主に文化や芸術、教育方面を担当する宰相であった。
そのレナードは今自分の執務机に着き、ある書類に目を通していた。
そして彼の机の前には紅い鎧に紅い髪の美貌の美少女将軍が立っている。
親子ほども歳の離れた宰相に対しても何だかオーラばりばりでやや偉そうで、どちらが部屋の主なんだかわからない。
「……この男の過去の罪を不問にすればいいのか」
「そうよ。うちの師団で引き取りたいの。やれるわよね?」
書類から顔を上げて自分を見るレナードに尊大にうなずくファルメイア。
書類にはメルギス・ハイアット……現在はソロン・モランと名乗る男の事が記されていた。
「その程度なんでもないがな。……だが、いいんだな? 俺があんたの言う事を聞くのは一度きりだ。本当にこれでいいんだな?」
「構わないわ。やって」
迷わずうなずく紅蓮将軍。
軽く息を吐いてレナードが再び書類に目を落とす。
「……わかった。午後にはこいつは綺麗な身になってる。その後は好きにしな」
法曹界はこの男のフィールドである。
この手の仕事を頼む相手としてこれ以上の適任はいない。
視線を交し合う宰相と将軍。
その時両者は同じ過去のあるシーンを思い出していた。
────────────────────────
……それはシンガンの事件から半月程が過ぎた頃の事である。
「……おい、おい! 将軍……!!」
数名の騎士を伴って帝城の廊下を歩いていたファルメイア。
その彼女に何やら切羽詰った様子で小声で呼びかけてくる者がいた。
「……何よ。いつからかくれんぼが趣味になったの? レナード宰相」
見れば大柱の影に隠れるようにしてレナードが手招きしている。
宰相は一人である。
ファルメイアが近寄ると彼は周囲をはばかるように見回し他に人気がない事を確認した。
「少し話がしたい。将軍だけで来てくれないか? ……他に誰かいたらできない話だ」
「………………」
少しの間思案するファルメイア。
レナード宰相は帝位継承の派閥の一つ、ギエンドゥアン将軍の派閥に所属している。
三派閥との関係が悪化しているファルメイアにとっては政敵と言える相手である。
……そして、彼はシンガンに彼女を向かわせる事を議決した一人。
あの事件の首謀者の可能性もあった。
「わかったわ。貴方たちは先に戻っていて」
とはいえ……城内で白昼堂々、それも自分が呼び出したとわかっている状況で罠でもないだろう。
そう判断し彼女は宰相に応じる事に決めた。
騎士たちを帰して自分は宰相に付いていく。
「………………………………」
そして、近くのこの時間は使用されていない小会議室に入って数分。
レナードは何も言わず腕を組んだり解いたり唸ったり爪先で床を何度も叩いたりと落ち着かない。
何か必死に悩んでいるようであるが……。
「何なのよ。見せたかったものは百面相? 何も言わないなら私はもう行くけど」
「……ああ、待て。待ってくれ」
慌てて制止する宰相。
そして彼はフゥフゥと気持を落ち着けるように深呼吸する。
「……そのさ、悪かったな」
「?」
突然の宰相の謝罪に訝しむように眉を顰めたファルメイア。
レナードは気まずそうに視線を泳がせている。
「シンガンの事だよ。……まさか、あんな事になるとは思わなくてよ」
「………………………」
その街の名前を聞いた時、紅蓮将軍の端整な顔が一瞬硬化する。
あの事件を彼女は今も悪夢に見る。
「あんたが焼いたって言うがよ。本当は違うんだろ? 俺にだってそのくらいはわかる」
「……さあ、どうかしらね?」
はぐらかすファルメイア。
さてこの宰相の発言の真意は何処か……?
額面通りに受け取ってよいものか、現時点ではまだ判断できない。
「話はお終い?」
「いや待て。本題はここからだ」
再度制止した宰相。
何かを決意したような、そんな顔付きになっている。
「このままじゃ俺の気が済まん。詫びとして何でもあんたの言う事を一つだけ聞いてやる。……一度きりだ。だがどんな事でもいい」
「ふぅん……?」
その提案に興味を引かれたようにファルメイアの片眉が上がった。
「面白い話ね。でもいいの? 貴方の奥様をとんでもなく怒らせることになるかも……?」
ファルメイアがやや茶化したように言うと宰相の顔色が露骨に変わった。
宰相レナード……彼は皇帝ザリオンの長女ヴァーメリアの夫である。
ヴァーメリアはガイアード、ゼムグラスに次ぐ皇帝の三番目の子だ。
そして他の兄弟同様に十分な教育を与えられつつも一切の地位を与えられなかった彼女は自ら精力的に立ち回り政界財界に人脈を築き大きな影響力を持つ女傑に成長していた。
その妻の強力な後押しにより宰相になったのがレナードなのである。
……そしてこの男は大の恐妻家。
妻には逆らう事ができない男だ。
彼が将軍ギエンドゥアンの派閥に属しているのもその妻の意向。
ヴァーメリアがギエンドゥアン将軍を支持しているというのではない。
彼女は兄ガイアードと宰相ブロードレンティスを蛇蝎の如く忌み嫌っており、彼らの帝位継承を阻止するために第三派閥であるギエンドゥアン派に属さざるをえないのである。
「……い、いいぞ。構わん。嫁さんが怖いからやっぱりできませんじゃ詫びにならんからな。一度だけなら嫁さんをぶち切れさす事になったとしても絶対に言う事を聞いてやる」
冷や汗をかいているレナードの様子が面白いのかプッと吹き出すファルメイア。
「それなら折角だしお受けしようかしら。何をお願いするのか楽しみにしていてね」
それから彼女の笑みは少しだけ苦笑の混じったものになる。
「本当に政治家向いてないわね、貴方」
「言うなよ。わかってる自分だってな」
渋い顔をするレナード。
そして彼は腕の中に実際に楽器があるかのようにそれをかき鳴らすような仕草をした。
「知ってるだろ? 俺は元々舞台でリュートを弾いてたんだ。人気者だったんだぜ? モテモテでよ」
昔を懐かしむように虚空を見上げる宰相。
「……モテすぎて皇帝の娘を釣り上げちまったよ。……そっから先はご存知の通りだ」
苦笑する宰相を見て微笑むファルメイア。
彼女のその笑みは嘲笑ではなかった。
────────────────────────
……そして現在。
「それじゃあこれであんたと俺の間にはもう何もない。以前の関係に戻るって事でいいな」
「ええ。ありがとう宰相」
丸めた書類を卓上の皿型の蝋燭置きの上に置いて火を着ける宰相。
瞬く間に書類は燃え上がり黒い灰になって崩れていく。
以前の関係……つまり政敵である。
互いに憎しみはなくとも謀略を仕掛け仕掛けられの関係になるという事だ。
立ち去る紅蓮将軍の横顔をチラリと宰相が見る。
……以前はあどけなさの残る子供の顔だと思ったものだが。
「何か……余裕ができたな。それに随分綺麗になった」
「あら、そう? ありがとう」
扉のノブに手を掛けたファルメイアが振り返る。
「……好きな人ができたからね」
そして彼女はフフッと笑って、そして宰相の部屋から出て行った。
後に一人残されたレナードは天井を見上げてヒューっと口笛を一つ吹いたのだった。




