2063年 幸せな○
地球温暖化の進行によりうだるような暑さが続く2063年の春、いと美しバーチャル桜が拝める縁側で、照子はセミの鳴き声に包まれながら遠くの舗装路を眺めていた。
照子には大きな夢があった。それは、あの道で気持ち良さそうにペダルを漕いでいる少年のように、旧式の自転車に乗って悠々と道中を走り抜けることだ。
「いいなあ」
縁側に腰掛けたまま脚をパタパタ揺らしながら、照子は僅かばかりの嫉妬を覚える。最近は地面から浮かんで走るプラスチックのようなバイクが主流になっているものの、彼女がそれに惹かれることはなかった。
どこかレトロな丸いフレーム、不思議とそれ程不快にならないブレーキのキキィという音、か弱そうなのに案外丈夫な車体。少し錆びれたその塊の中に、照子にとっての魅力がたくさん詰まっている。旧式自転車こそ今や貧困層の乗り物であったが、どうしても乗ってみたい…………照子はその気持ちを抑えられず、浴衣の袖を振りながら長廊下を走った。家長である父に直談判しようと考えたのだ。
「駄目だ。そんな危ないものに乗ってお前が怪我をしたらどうする」
照子は生まれて初めて、このだだっ広い屋敷の子に生まれたことを恨んだ。貧乏人に生まれていたら、私だって自転車に乗れていたかもしれないのに。
データ化した照子の祖母が額縁の中から照子をなだめようとしていた。呑気に笑いながら。
「照子ぉ。何をムスっとしているんだい?」
本当のおばあちゃんじゃないくせに。ニセおばあちゃんのくせに。貴方はただの電子! 照子は内心毒づいたが、口に出しては父親を悲しませるだけなので自重した。
しかし祖母ばかりでなく、近くを掃除していたオカッパのメイドロボットまでやかましい。幹のような白い胴体をキュインキュインいわせながら今日も稼働している。しかし声だけは一丁前に女性のそれなのだ。
「照子お嬢様。照子お嬢様の会話から、自転車を購入希望である意志を検出しました。……以下、おすすめモデルのご紹介です。長時間安定浮遊重視であれば、アンピロ社のーー」
うるさいと一蹴する勇気はなかったものの、照子はロボットに対して無言の抵抗を貫いた。
「…………分かりました、お父様」
結局、照子は何も言い返せずにリビングを後にした。
この家に囚われている限り、好きなことも言えなければ好きなことだってできやしない。…………確かに言い返せす勇気はない臆病者だけれど、だからといって私に意志がないわけじゃない!
照子が悶々としながら縁側に戻ると、先ほど見た少年が再び同じ道を走っていた。
「そうだ! …………本当なら、あまりこういう手段は使いたくはないけれど」
照子は咄嗟にある事を思いつき、引き出しを開けて物を握りしめてから遠くの少年を呼び止めた。
「え! ぼくの自転車渡したらその宝石くれるの⁉ 本当ォ⁉」
金持ちをひけらかすようで気が引けたものの、目の前の錆びた黒い車体を目にした途端、照子は宝石入りの右手を差し出していた。
「ねーちゃんありがとう!」
「いいえ、こちらこそありがとう」
久しぶりに照子はギュッとはにかんだ。風がそよぎ、長い黒髪と浴衣の袖が心地よくたなびく。かくしてその自転車は彼女のものになったのだった。
【幸せな 照子の時間】
照子は自転車への憧れはあったものの、一度もそれに跨ったことはなかった。だから見よう見まねでやってみるしかなかったのだ。
「ええっ……と、こうかな?」
炎天下を避けるように周りの大人や子どもが引きこもりに従事する中、照子だけは太陽の下で一人自転車に夢中になっていた。一度練習を始めれば、暑いはずの春だってちっとも暑くはないのだった。なんとかグラグラと漕ぎ出して感覚を掴むも、浴衣姿ではペダルを漕ぐのが難しい。はしたないと怒られることも照子は想定していたが、自転車乗りに熱心になるうちにだんだんとどうでもよくなってきた。
「あぁあ!」
走行と共に照子の顔面は強い風に晒され、長い黒髪が彼女の視界の邪魔をする。
「髪、切っちゃおうかな。…………そんなことしたらお父様に怒られてしまうかしら」
結局、一つ縛りすることに決めた。
そこら辺を飛んでいる電子蝶や電子スズメたちと共に風をきって、好きなだけこの自転車で走っていきたい。そんな夢を抱きながら、時には怖さを感じながら、照子は少しずつ距離を伸ばしていく。
【幸せな 練習風景】
自転車と共に過ごす時間は、照子に安定した心地良さをもたらしてくれた。閉塞感などまるでない。家に入れば父親や2次元になった祖母などがしょっちゅう口を挟んでくるものだが、このペダルを漕ぐのを止めない限り、照子は自由の中に身を置くことができる。乗っている間は何も難しいことなど考えずにただ前を向いていられる。いつでも自分が行きたい方へ行ける。白くか細い手首を晒して、グリップを握りながら照子は確信した。ここには自分の意志があるーー。
「そんな浴衣で自転車を漕いでいたら、色々な意味で危ないよ!」
至って平凡な青年の声が、運転直前の照子を引き止めた。
「色々な?」
愛車に跨ったまま照子は首をかしげる。
「浴衣じゃあ漕ぐために充分脚を開けない、上手く漕げない、つまり車体のバランスを崩しやすい。危険じゃないか。それに…………」
「それに?」
青年は間が悪そうに頭を掻いた。
「万が一その姿で大きく転んでしまったら、その……浴衣が…………」
照子は青年の言いたいことを何となく察した。毅然たる態度で注意してきた男が途中からそんな理由でモジモジし始めたのかと思うと、照子はなんだか笑えてきたのだった。
「ああ、あまり気にしていなかったわ」
「気にしたほうがいいって。質の良さそうな浴衣を見るに、キミいいとこのお嬢さんだろう? 素敵な浴衣が汚れたら勿体無いし、動きやすい服に着替えた方がいいよ」
「ここで?」
照子はきょとんとして咄嗟に尋ねる。
「そんな訳ない! からかっているのか⁉」
「困ったなぁ、自転車を漕ぐ用の服を持っていないの」
しばらく2人の間に、どうしようもない間が流れた。一方は困惑混じりにキョトンとしながら、もう一方はいかにも罰が悪そうに落ち着きない素振りを見せながら。
勇気を出して沈黙を破ったのは落ち着きない青年の方だった。
「ぼく……僕のでよければ、フィットスーツを貸そうか。いま家から持ってくるから」
そして何か思い出したように慌てて付け加えた。
「あっもちろん洗濯済みだぞ!? 着たままのを貸すだなんてそんなこと……」
洗濯済みを強調してくる理由が照子にはよく分からなかったが、不自然にモジモジするその姿を見ていると少し笑えてきて、彼女の心を弾ませてくれた。
「いいの? 助かるわ、和服しか持っていないから」
「あ」
青年が静止した。
「そうだ、僕のではなく姉さんのお下がりもあるよ。もし同じ女の子のモノの方がいいならーー」
「貴方のがいいです」
「えっ………………」
「え」
小さく動揺する青年を見て照子は我に帰った。迷いも躊躇いもなしに思わず口から出ていた言葉だった。なぜそんなことを言ったのか、彼女自身も分かっていない。
「わかった」
いまいち飲みこめていない様な声で青年は応えた。
「それにしても、随分と斬新な漕ぎ方をするんだね」
「こっちは見様見真似でやっているんだもの。独学よ」
「ちょいと僕に貸してみてよ」
青年が自転車に跨がると、彼は照子を差し置いて魚のようにスイスイと進んでいき、すっかり遠くまで流れていってしまう。着慣れないフィットスーツで照子は慌てて後を追った。
「待って、待ってったら……! 貴方だけそんなに上手く漕げるだなんて、ずるい!」
「はははっ。ずるいってアンタ……」
爽やかな風をすっかり満喫した青年が笑いながら引き返してきた。
「アンタじゃなくて照子です……」
「ああ失敬。いやぁ照子さんって面白い人だね。そうだ、独学では辛いものがあるだろう。僕でよければ……」
「教えて!」
皆まで言うなと言わんばかりに、照子は青年の顔めがけて詰め寄った。そして青年の顔の前に、再びどぎまぎした空気が流れ始めたのだった。
「近いよ照子さん……」
「教えてください! いいんですか⁉ 駄目なんですか⁉」
お返事が貰えない照子は更にもう一段階距離を詰めるのだった。
「勿論いいに決まっているじゃないか! だからッ……だからとりあえず離れて!」
「ああ、ごめんなさい。急に大きな声を出してしまって。怖がらせてしまったかしら」
あんなにも大きな声を出したのは何年ぶりだろうと照子は思った。家の中で父の言う通りにし続けてきた彼女にとって、大層珍しいことであった。
「いや、そういうわけじゃないんだけれども…………とりあえず、始めようか?」
青年が困ったように笑いながらその場を仕切り直した。ふと、自分だけ名前を明かした事実を照子は思い出して、今度はこの青年の名前を知りたいなと彼女は思った。
「あの、お名前は?」
「騎士」
「ナイト先生ね」
「先生だなんて大袈裟な。じゃあ、まずは正しい乗り方から……」
『どうやら庶民の間では、2000〜2010年代頃に世間を騒がせたキラキラネームが再流行しているらしい。嘆かわしい……』電子新聞を読みながらの父親の呟きを、照子は思い出した。だが彼女にとって、目の前にいる彼の名前などどうでもよかった。たとえ目の前の彼がナイトでも隆でも虎吉でも、良い人であることには変わりないのだから……。
青年が先ほど露呈させていた奇妙などぎまぎは伝染るものなのであろうか、何故か照子まで段々と同じ様になって、まともに目を合わせられなくなってきた。
「顔、赤いね?」
敢えてハッキリ聞いてくるのは、わざとか否か。
「なんでも、ない」
【幸せな 淡い恋】
二人で、幾度となく同じ風の中を漕いだ。清く爽やかな風。自由に満ちた風。
ただ眼の前の風を切ってペダルをギイギイいわせ続けているこの瞬間、照子は空っぽの自由に浸ることができる。家のしきたりとか、決められた将来のことだとか、そういったつまらないものを何もかも忘れされてくれる。
青年はずっと「照子と一緒に自転車を漕いでいる」と思っていた。もちろん、照子も最初はそのように思っていた。
しかし、いつからか2人の思いは平行し、互いの視線は合わなくなった。照子は、次第に前ばかり見るようになっていった。ふとした瞬間に横から感じられる青年からの淡い目配せなど、気にもとめなくなっていったのだ。自転車を漕ぎ続けたいという原動力が、そこから湧き上がる無限の好奇心が、淡い恋を上回っていたのだ。
今までと同じ場所を走っていたはずなのに、照子と青年の間には不穏な空気が漂い、諍いが増えた。青年からの良心に基づいた忠告も、照子にとっては「余計なお世話」と感じてしまう。あそこの道は危険だ、とか、あの坂は自転車で走らないほうがいい、だとか。口うるさく同じ忠告を繰り返す彼の姿に、嫌いな父親の影が重なる。
せっかく手に入れた自由が侵略されていくような感覚。照子にはそれがおぞましく、うんざりしていた。
「それでもいくのかい」
「うん」
「僕が『やめろ』と言ったら?」
「お父さまみたいに……あれこれ指図する人は嫌いなの。だから、私は行く。ごめんなさい」
「きみなら、絶対にそう言うと思っていた」
「……うん」
最後に別れの抱擁を交わし、二度と振り向くことはなかった。なぜかこの日だけは、後腐れなど全くなかった。
【幸せな 破局】
坂がある。長い長い一直線の下り坂。一見何の変哲もないその坂に、照子は惹きつけられる。
こんなに長い下り坂は始めてお目にかかる。ああ、お気に入りの自転車でここを突っ切ったら、どんなにか気持ちのいいことだろう。仮に、自転車に乗り始めたばかりの私が見たら、たじろいでしまっただろうが……。もはや、あのときの私はいない。そして、自由を邪魔する者たちも。
ーー飛びたい。
勢いをつけて地面を蹴り、ペダルに足を添える。自転車は素直に坂を勢いよく突っ切っていく。早い早い、顔を叩きつける風の強ささえ心地よい。
ああ、今、私は自由。誰が作ったレールの上にも乗っていない。心臓の鼓動までが加速していくのを感じる。ああ、このままもっと勢いに乗って、そのまま燃え尽きてしまってもいいのかもしれない。
勢いを増した視界が目に追えなくなっていく。いつしか感覚が分からなくなっていく。自分がまだ自転車に乗っているのか、いないのか、はたまた自分だけが宙に放たれたのか、放たれていないのか。もはや何も分からない。
何かの衝撃があった気がするものの、照子はブレーキを踏まなかった。いや、そこにブレーキがあったのかも分からない。
「ああ幸せ」
この幸せがずっと続けばいいのに、よかったのに。
衝撃で硬くなりゆく身体と自由をしみじみ感じながら、照子はそっと笑い続けた。
【幸せな 死】