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シリーズ化した短編

メリッサの運命の恋

「こんにちは」

 アカデミー棟にあるアルサム=ベルガの研究室へやってくるのもこれで十七回目。

 ノックしても返事が来ないことは分かりきっているので、部屋の主の許しを待たずに中へと入る。電気はつけているが、カーテンを閉めきっているため少し暗い。


 埃っぽさも今に始まったことではないが、来る度に気にはなる。机の上に積み上がった道具の使い方は何度来ても分からぬまま。たまに動かした跡がある。そのくせ本棚の本はタイトル順にしっかりと並べられているのだ。


 几帳面なのかそうでないのか。分からない人だ。本来こうして出会うこともなかった人なので、深く理解する必要もないのだが。


 自分でもうさんくさいと思う外面を貼り付け、ズンズンと奥へ進む。彼がいるのは部屋の最奥、複数の本棚と物を避けた先にいる。今日も今日とて実験道具と向き合う彼に再び声をかける。


「アルサム先輩、無視しないでください」

「お前、また来たのか」

「お前じゃなくてメリッサです」

「知ってる」


 無視されるのも重いため息を吐かれることにももう慣れた。アルサムが人付き合いが苦手で、こうした態度を取ることで私を遠ざけようとしていることにもとっくに気付いている。


 今まではこの作戦で上手くいっていたのだろう。じっとりとした視線が『早く帰れ』と訴えている。だが彼の都合に構ってはいられない。こちらも態度で意思を伝えるべく、近くの椅子に腰掛ける。


 私が研究室に来た時は周りの机同様、この椅子にも物が積み上がっていた。背もたれにはずっしりと厚みのある埃が積もっており、とても座る気にはなれなかった。


 思わず笑顔の仮面が剥がれ落ち、全力でヒいてしまったこともセットでよく覚えている。その時の表情は淑女のものではなかったと自覚するほど。アルサムの記憶にもバッチリと焼き付いたのだろう。


 その証拠に、以降は椅子のみ綺麗な状態で保たれている。十回目を越えた辺りで勝手に持ち込んだクッションも退かさないでくれている。根は悪い人ではないのだ。


 だからこそ私もここまで熱心に研究室に通っている。

 いつもの私なら、私からお姉様の一番を奪ったあの男ーー義兄からの頼まれ事なんて適当に済ませるだけなのに。


「じゃあ名前で呼んでください」

「俺は好意的な相手の名前しか呼びたくない主義でね」

「自覚しているのであればやめた方がいいと思いますよ。無駄に敵を生むだけです」

「別に困ってない。俺は誰に何を思われようが研究さえ出来ればそれでいい」

「その研究の継続が難しくなっているからこその忠告なんですよ……いい加減受け入れてください」

「はぁ!? そんなの聞いてない」


 声を荒げるアルサム。本気で驚いているようだが、彼が知る機会は十七回以上あった。

 そう、義兄からの頼まれごとがこれだ。


 アルサムに研究継続が難しくなっていることを告げた上で、なんとか成果を残して卒業させろ、と。


 アルサムの研究好きは有名だ。

 同時に彼が学園入学の少し前に伯爵家に引き取られた養子であることも。


 伯爵家に帰りたくない彼はずっとアカデミーの研究室に篭もりっぱなしなのだ。研究室から追い出されるとなれば彼も本気を出すはず! 簡単な仕事だと笑顔で研究室にやってきた少し前の自分を殴りたい。雑な対応をしつつも手紙くらいは読んでくれているだろうと思っていたのだ。


「どうりで態度がおかしいと……。お手紙は何度も送りましたし、最近では読んでほしいって手渡ししていたのに……」

「てっきり恋文だとばかり」

「なぜそんな勘違いを……。私、先輩は好みじゃないです」

「普通、学園の生徒がアカデミーに来るのは研究発表会か学内見学の時だけだ。それにお前は運命の相手探しに色々動き回っていると有名だからな」

「確かに私は運命の相手を探しています。ですが誰でもいいわけじゃないです。互いに大事に思える人じゃないと。それから学園の生徒会の仕事の一つとして、アカデミーに推薦入学した人の素行調査があります。といっても生徒会が足を運んで確認するまでもなく、熱心に勉学に励んでいる方が多いので、この仕事はほとんど行わないのですが」

「それは嫌味か?」

「無駄に私の仕事を増やしたのですから嫌味の一つくらいいいでしょう」

「お前の態度にだって問題はある。あんな態度を取られれば、多くの男は気があるのだと勘違いするぞ」


 模範的な女子学生と令嬢を演じてきたつもりだ。なのに正面切って、男性を誑かしているとでも言いたげな言葉を吐かれるなんて心外だ。思わずムッとして詰めよってしまう。


「あんな態度とは? 具体的な説明を求めます」

「……それより、その手紙を寄越せ」


 アルサムはこれ以上嫌味の応戦を行うつもりはないようだ。バツ悪そうに視線を下げた。

 それ以上聞き出すのは諦め、今日の分の手紙を取り出す。今度はしっかりと受け取り、その場で開封してくれた。


「口頭でザックリとご説明させていただきますと『ろくな成果もない上に規定よりも長く在学し、他のゼミ生と問題ばかり起こす生徒はいらない。在籍したくば速やかに成果を報告せよ』とのことです」

「俺の専門は薬学だ。そう簡単に成果が挙げられるはずないだろ」

「医療系の分野が他の分野と比べて在学年数が長い最たる理由がそれですよね。その点は理解しています。けれど、先輩は今年で八年目。学園在学をスキップして入学したにしても長すぎます。それに経過報告を定期的に挙げることもできなかった、とはいいませんよね?」

「くっ」


 子どもみたいに駄々をこねるアルサムだが、彼の才能は自他共に認めている。間違いなく彼は薬学の天才だ。義兄からもらった資料に一通り目を通したが、六年前までの記録はそれはそれは輝かしいものだった。


 彼が変わってしまったのは五年前のこと。

 ベルガ伯爵家の長男がとある論文を発表してからのことだった。


 そちらも読んだが、すぐにアルサムが作ったものだと分かってしまった。伯爵家がアルサムの研究を横取りしたのだ。第一王子である義兄を含め、おかしいと抗議しようとした者はいたようだ。他にもその前後で怪しいものがあったからなおのこと。


 だがアルサム本人が問題にすることを拒んだ。

 彼がアカデミーに居着くようになったのも、今までの勢いを顰めてしまったのも同時期からだった。自分の成果を奪われたアルサムは本気を出すのを止めた。けれど薬学の研究まで止めることはしなかった。


 前々から彼の才能に目を付けた義兄は、アルサムが立ち直る日を待ち続けた。


 くすぶり続けた結果、アカデミーから出される危機を迎えるとは、義兄もアルサム本人も思ってもみなかったことだろう。


「手続きに関する書類は後でお持ちします。今度こそ目を通してくださいね?」

「………………分かった。ところで一つだけ、聞いていいか?」

「答えられることと答えられないことがありますが」

「生徒会の仕事とはいえ、何度もアカデミーまで足を運ぶのは大変だろう。ましてや相手は態度が悪く、手紙すらみない男だ。放置しようとは思わなかったのか」

「先輩が私について知っているのは『運命の相手を探している』ってところだけですか? もっと有名なことがあると思うのですが」

「王子の義妹になったことか?」

「なぜ私があの男のついでみたいに言われなきゃいけないんですか」


 私が愛しているのはお姉様だ。義兄になった人がたまたま第一王子だっただけ。

 あの人がお姉様の婚約者になるよりも、私という生命がお母様のお腹の中に宿る方が早かった。私が先だ。後からやってきたのは彼の方。


 それでもあの男はお姉様を心から愛しているから、お姉様を妻とすることを認めてあげたのだ。

 お姉様の夫となるに相応しくない相手だったら、王子だろうとなんだろうと問答無用で叩きのめすつもりだった。もちろん夫婦になったからと他の女にうつつを抜かすようでもダメだ。


 いつ『義兄』の座が空位になっても構わない。

 結婚式の前日にそう伝えたらあの人は笑っていたけれど、目は本気だった。初めて会った時も、アルサムを説得して欲しいと言い出した時も。あの人はいつだって私を私として見つめるから、私も自分を偽ることはしない。


 不敬と言われそうな言葉を平然と口にする。


「この国の第一王子が我が公爵家の長女を嫁に迎える栄誉を賜った、が正しいです」

「……そういえばお前が来るようになった少し後に王子妃の、お前の姉の妊娠が発表されたな。……なるほど、姉のためか」

「宮廷医師も宮廷薬師も信頼していますが、小児を専門としている薬師がいた方が安心出来ますでしょう? それに姉は常に妹の指標となるべき存在でなければいけないのです。お姉様は生涯私にズルいと言われるくらい幸せであり続けてくれないと」

「家族から愛されて育ったのだな」

「ええ。先輩もそうですよね?」

「伯爵家とのことを知らないのか」

「知っていますよ? でも家族って血の繋がりがあってもなくても、自分がそうだと思える人全てを指す言葉でしょう。実際、妻と夫に血の繋がりはありません」

「それは……」


 アルサムは伯爵家に引き取られるまでの間、母の生まれ故郷である田舎の農村で育った。生活は大変苦しいものであったと聞いている。実際、楽ではなかったのだろう。それでも他の村人と寄り添って生きていた。


 その証拠が彼の研究である。

 彼が子どもと妊婦向けの薬の研究を行っているのが不思議で、その村に使用人を派遣した。


 村人はなかなか口を割ってくれなかったが、最近ようやくアルサムが伯爵家に引き取られる前、とある妊婦が病で倒れたことを知った。幸い子どもは無事に生まれたようだが、妊婦は出産後、長らく苦しむこととなった。


 その妊婦というのは村長の娘で、アルサム達によくしてくれた人の一人だったらしい。

 その話を皮切りに、使用人からは沢山の情報が送られてくるようになった。きっとアルサムの状況と私の目的を話したのだろう。村人からの手紙も送られてくるようになった。


 伯爵家に行った後しばらくして手紙が送られてこなくなったことも気にしているようだった。

 それでも恨み言一つなく、どの手紙にも『元気だと知ることが出来て良かった』と書かれていた。愛していないのは伯爵家だけなのに、その人達だけを『家族』と呼び続けるのはあまりいい気がしない。


「全人類に必ず『家族』と思える相手がいて、愛されて育ったはずだーーなんて暴論はいいません。私は自分が恵まれた人間であることを自覚しています。その上で、アルサム=ベルガは愛されて育ったのだと告げています」


 彼は間違いなく愛されている。

 そう、胸を張って宣言する。


「……………………母は、母は最期まで俺の幸せを願ってくれた」

「いいお母様じゃないですか。まぁ私の家族も同じくらい愛してくれていますけど」

「ここで張り合うのはお前くらいだと思うぞ」

「でも先輩は今後お母さんから愛されていたことを忘れない。村の人達のことも忘れちゃダメですよ」

「お前は一体どこまで……」


 目を潤ませる彼に、今度は心からの笑顔を向ける。

 愛されていることを簡単に忘れてしまえる人間は嫌いだが、ちゃんと思い出せる人は嫌いではない。これからも幸せであればいいと思う。


 使用人はまだ村に待機させている。落ち着いたらアルサム本人に手紙を書かせよう。私が十七回もアカデミー棟に足を運んだのだ。そのくらいはしてもらわないと割に合わない。


「それから、王子から伝言を預かっております。『王城の研究室はいつでも見学を受け入れている。朝でも昼でも夜でも深夜でも都合がいい時に来てくれ』とのことです」

「書類、今取りに行く。だがその前に、王子への手紙を書くから持って行ってくれ」


 アルサムは高く積まれた山に手を突っ込み、比較的無事な封筒を探す。適当に置かれているように見えて、何がどこにあるのかは分かっているらしい。


 アカデミーからの手紙が入っていたと思われる封筒なところはなんとも言えないが、それでも封筒に入れようとするところは彼の性格の表れなのだろう。便せんなんてものは当然ない。少し部屋を見渡した後で、手元にあったレポート用紙を使うことに決めた。


 用紙同様、使い慣れたペンをさらさらと走らせていく。


「私は伝書鳩ではないのですが」


 文句を言いつつ、アルサムを見守る。論文を読んだので知ってはいたが、目の前で彼の手から綺麗な文字が生み出されているところを見ると改めて驚いてしまう。部屋も自分の見た目にも全く頓着しないのに、他の誰かに向けたものは丁寧に整えるのだ。私が座っている椅子と同じ。


 多分、義兄はアルサムのこういうところもしっかり見ていた。才能と実績だけではなく、中身も見る人なのだ。

 私はお姉様をズルいと思うと同時に尊敬しているけれど、義兄のことも一応尊敬はしているのだ。


「王子妃の出産に間に合う必要があるだろう?」

「生まれてくるのは第二子です。第一子は現在すくすくと育っているので、可能な限り急いでください」

「それは忙しくなりそうだな」

「年単位で手を抜いていたツケと諦めてください」


 出産まで半年もないが、彼はそこまでに卒業する気らしい。だが無理な話ではない。卒業単位は足りているのだ。残るは卒業研究だけ。その研究すらも本気を出せばすぐなのだろう。


 私は薬学分野に関しては全くの素人だが、研究室に来る度に熱心に作業をしているアルサムの姿を見てきた。レポート用紙の消費が激しいことも知っている。発表するのを止めただけで、物の山の中にはお宝が眠っているのだろう。


 チラッと見て、けれどすぐに彼に視線を戻した。発掘するのは彼本人でなくてはならない。自分で前を向いてもらわなければ。

 それに手紙を書くと決めてからすぐに封筒を掘り当てたアルサムなら、どこに埋めたかも正確に覚えているはずだ。


「まともに卒業していても城仕えになるとは限らないんだが」

「私が義兄と認めた人が、お姉様の役に立つと確信している人間を逃がすはずないではありませんか。それに城仕えほど研究設備が安定していて、ちゃんとした研究なら資金もがっぽがっぽと出る場所はありません。寮も完備しているので屋敷に帰らずに済みますよ。あと城の食堂の日替わりランチがオススメです」

「食べたのか?!」

「お姉様付きの護衛が美味しいと言っていたので。『王子の頼まれ事を引き受けているのだから私にも使う権利がある!』と主張したところ、あっさり通りました。なので城に行く時は何かしら食べてますね。ガッツリとした料理から軽く摘まめるおやつまで出しているので、研究室見学の際には是非」


 なんでも言ってみるものである。初めて足を運んだ時は驚いていた使用人達も、私が何度も通うと気にしなくなった。食堂の職員は私の好物を覚えているし、プリンの上には必ず生クリームとイチゴが載せられている。イチゴは花の形だったり動物の形だったり。注文の度に形を変えて出てくるので、毎回楽しみにしている。


「……噂はあてにならないな」

「? 前から料理は美味しいし、メニューの幅は広いですよ?」


 誰かが食堂の悪い噂でも流したのだろうか。私は聞いたことないが、一回でも食堂のご飯を食べたことがある人なら口が裂けても言えないセリフだ。食べられなかった者による負け惜しみに違いない。


 いや、受験者を減らそうという姑息な手段かな。お給料も大事だが、食堂の質もまた就職先を決める上で重要だと聞いたことがある。このタイミングで撤回出来て良かったと胸をなで下ろす。


「気にするな。それより書けたから書類を取りに行こう」

「はい、確かにお預かりしました」


 手紙を受け取り、一緒に生徒会室へと向かう。

 他の生徒会メンバーはすでに帰った後だった。アルサムは書類をその場で確認し、小さくコクコクと頷いた。


「何かメモに出来るものあるか?」

「ありますよ、何に使うんですか?」

「研究室の見学日の希望を書いておこうと思ってな」


 フッと笑うアルサムにペンとメモを渡す。


「これもさっきの封筒に入れておいてくれ」


 メモには、『見学希望日』の文字の下に日にちと時間だけが書かれている。シンプルすぎるが、封筒を渡す時に先ほどの言葉を伝えればいいだろう。メモを先ほどの封筒に入れる。アルサムはそれを見届けると書類を小脇に挟み、生徒会室を後にした。



 アルサムが去ってからすぐに生徒会室の戸締まりをし、馬車に乗り込んだ。そのまま王城に、第一王子の執務室に向かった。アルサムの研究室とは正反対の、埃一つない部屋だ。資料も綺麗にファイリングされている。書類が山になるなんてこともない。


「ーーというわけで、アルサム=ベルガからの手紙を預かってきたわ」


 義兄に事情を説明して封筒を渡す。彼はすぐに中身を確認し、スッと視線を上げた。


「三ヶ月と経たずに立ち直らせるとは……。やはりメリッサに頼んで正解だったな」

「別に私じゃなくても良かったと思うけど。それにベルガ伯爵家の問題は何も解決していない」

「アルサムはすでにベルガ伯爵家の人間ではない。長年本人との連絡が取れなかったことを理由に、数ヶ月ほど前から籍を抜かれている。アカデミーの警備は王城の次に強固で、家族であろうと認可証を持たない限り入れない。そしてベルガ伯爵家は何度も認可証申請を拒まれていた」

「え?」


 衝撃的な事実に思わず目を丸くしてしまう。私が認可証なしで出入り出来たのは、義兄が手回しをしていたからだったのか。認可証システムを知っているアルサムからすれば、私が短期間で何度も認可証申請を行っているように見えたに違いない。


 変な勘違いにもちゃんと理由があったのだ。バッサリと切り捨ててしまったことを少しだけ反省する。全て目の前の男が悪いのだが。じどっとした目を向けるが、彼はどこ吹く風だ。


「アカデミーから出される本当の理由は、アルサムの学費を払う人間がいなくなったからだ。何かしらの成果があれば奨学金を得ることも出来るが、彼はすでに通常の在学期間よりも長くいるからな。実力は認めているアカデミー側も抱えきれなくなったというわけだ」


 義兄は今さらながらに事情を打ち明けながら、その手元ではアルサムへの返事が生成されていく。器用なものだ。字だって私よりずっと上手い。けれど活版文字とは違う、どこか人間味のある文字だ。その手紙も私に運ばせるつもりなのだろう。いつものことなので深くは突っ込まず、会話に集中する。


「それを本人に伝えればもっと早く取り込めたんじゃないの?」

「伯爵家との縁がなくなったから出てくる、よりももっとよい理由があるのなら、アルサムの今後のためにもそれを採用するべきだろう」

「そのために私は三ヶ月近く時間を費やしたことに対して何かないの」


 三ヶ月の間、ひたすら論文を読み込み、アルサムについて調査をし、何度も足を運んだ。

 下準備だけでもそこそこの時間と労力を費やしている。お姉様のためとはいえ、楽に手に入れる方法があるのであればそちらを使ってほしかった。時間が空けば、昼寝するお姉様の代わりに子守りくらいできた。余裕ができればお茶だって……。


 過ぎた三ヶ月を振り返り、不満が沸き上がる。だが目の前の男は楽しそうに笑うだけ。


「そうだな……後日、いちごのケーキを用意しよう。君、好きだろう?」

「お姉様が一緒に食べられないのに? 私、来年まで待つのは嫌よ」

「ならジェラートにしよう。暑くなって来た頃に招待する」


 生まれてくる子は無理でも、一人目の子なら食べられる頃合い。

 初ジェラートを一緒に迎えられると思うと悪くない提案だ。


「最高級のものを期待しているわ」

「私は君のそういうところ、結構好きだよ」

「急になによ。気持ち悪い。そんなこと言われても追加の頼み事は受けないから」

「今はアルサムの様子を見に行ってくれるだけでいい」

「今は、って頼むつもり満々じゃない……」

「文句を言いつつ、引き受けてくれるだろう?」


 ニッと爽やかな笑みを浮かべる。だが爽やかなだけでは第一王子なんて務まらない。策士なのだ。どんな言葉を使えばより効率的に人を動かせるかを熟知している。策にハマるのは癪だが、この男が利用するだけで終わらないこともよく知っている。


「お姉様のことだけよ。……お姉様はズルいわ。私が一人で歩けなかった頃からずっと恩を売りつけているんですもの」

「シンディは返されるなんて思ってもいなかっただろうがね」

「何かをもらったら返す。常識でしょ?」

「そうだな」


 ズルい人なのだ。お姉様も目の前の男も。私が貴族のなんたるかを考えるよりもずっと前から、何度も手を差し伸べてくれる。その度に思い描く未来はより大きなものへと変わっていった。


 運命の恋なんて。私をバカにする声はもう何年も前から耳に届いている。けれどすぐ近くに理想がいるのだ。身体と心が成長しても、広大な夢はむしろ広がっていく一方だ。現実を見ろなんて言葉、私には通じない。これが私にとっての現実だから。追いつかないなら努力を続けるまでだ。


「ところで、アルサムはどうだった?」

「あの様子なら卒業後、城で働くと思うけど」

「そうではなくて。君は彼をどう思った? 対象外だったのは彼が愛情を忘れて引きこもっていたからだろう?」

「ああ、そういうこと。……余計なおせっかいよ」

「つれないことを言うな。私の運命は父と義父が連れてきてくれたのだから。ああ、もちろん君の後押しも忘れない」

「後押しなんてしたつもりはないけれど?」


 運命の恋というものは、一目惚れとは少し違う。人柄を知っていくうちに徐々に惹かれ……ということも多い、らしい。らしいというのは、私がまだ運命に出会っていないから。あくまでいろんな人に聞いた知識しかない。


 運命の恋をした人の多くは私に好意的で、話を聞かせてほしいと頼むと喜んで聞かせてくれる。アルサムが運命の相手かどうか、私にはまだ分からない。一生分からないかもしれない。それでも目の前の男に世話を焼かれるようなものでもない。


「だがそうか……。アルサムは君好みで、相性も悪くないと思ったんだがな」

「さっきも言ったけど、彼が私の話を聞くようになったのは勘違いを正せたから。私にとって彼は恋愛対象外だったからこそ、今があるの。アルサム先輩は女性に辟易としている様子だったわ」

「アカデミーへの転学が決まった頃から、学園内外問わず多くの女性が押し寄せていたという話だったからな。確か婚約者も決まりかけていたが、アカデミーに引きこもり始めたせいで話が流れたはずだ。もっとも本人はそのことを聞かされていなかっただろうがな」

「私、相手の成果にまとわりつく虫みたいに思われていたのね。学園を卒業したら運命の相手探しに本腰を入れるつもりだったけど、アカデミーへの入学も検討しようかしら」


 運命の相手を探しているが、決して依存先を見つけようとしているのではない。一人の人間として、尊敬しあえる人がいい。完璧でなくとも構わない。苦手なところは私が支えればいいと思っているし、逆に頼ることもあるだろう。それでも共にありたいと思える相手こそが運命なのではないか。私はそう考えている。


「義兄としては留学もいいと思う」

「あら、私をお姉様から引き離すつもり?」

「まさか。そんなことをすれば最愛の妻と息子、公爵一家に恨まれる」

「ならいいけど。留学するなら在学中じゃないかしら」

「君は既存の型にハマるような女性ではないだろ?」

「ピタリとハマっているつもりだけど?」

「私の知っている普通の淑女は王子相手にケーキをねだらない」

「私の知っている普通の義兄は妹に厄介事を押しつけたりしないわ」


 わざとらしく呆れた目を向ければ、彼はフッと笑った。楽しそうに朗らかに。お姉様に向けるような笑み。彼が私を心配している気持ちも、期待している気持ちも本物で。お節介を焼こうとしているのもまた義兄心というものであることは理解している。少し回りくどいだけだ。


 彼のそういうところ、私は案外嫌いではない。

 正直に伝えたらきっと調子に乗るから、永遠に伝える気はないが。


「一応引き続き、アルサム先輩の様子は見ておくわ。手紙は週明けでいいかしら」

「ああ、頼んだ」


 といっても書類の不備があった際の伝書鳩役がメイン。とりあえず近日中に一度顔を見に行くつもりだが、残りは片手の指で数えられるほどだろう。


 他に問題がありそうなアカデミー生もいないので、この一件さえ終わればしばらくはアカデミー棟に足を運ぶこともなくなる。そう思うと少しだけ寂しい。


 お気に入りのドレスが着られなくなった時と似た寂しさだ。悲しくて寂しくて。泣いていたら、お姉様がお人形の服にリメイクしてくれた。魔法みたいな手際に憧れて、今では私だって服のリメイクができるまでになった。


 多分、この寂しさを埋める術も持っているはずなのだ。




「……アルサム先輩、変わりましたね」


 週明けの研究室は、相変わらず埃まみれで荷物に溢れている。けれど部屋の主だけが別人のように変わっていた。綺麗になっている。たった数日で人はこうも変わるものか。心なしか、茶渋の付いたマグカップで紅茶を飲む姿も様になっている。


「久々に学長室に行ったら、身だしなみを整えるようにと言われてな。風呂に突っ込まれた上、髪まで切られてしまった」

「さっぱりとしていいと思いますよ」

「そうか。なるべく維持するようにしよう」

「王子からの手紙を預かってきているので、ご確認ください」

「ああ、悪いな」


 アルサムは手紙に軽く目を通すと、すぐにポケットにしまった。

 返事の返事なので大したことは書かれていなかったのだろう。


「それで、書類の方は」

「無事受理された。卒業証明が発行されるまでの間にこの部屋を綺麗にしなければいけないこと以外、問題ない」

「それはよかった。卒業証明が発行されるのはいつですか?」

「明後日だ」


 平然と言い切るが、すでに空は赤く染まっている。私は授業を全て受けてから生徒会の仕事をあらかた終えた上で、この部屋を訪れたのだ。半刻後には空の色だって変わっている。タイムリミットは一日半を切っていた。けれど焦る様子もなければ、本などを動かした形跡もない。相変わらず至る所に埃は溜まっている。


「……悠長にしている場合ではないのでは?」

「メリッサに思いを伝えてから進めようと思ってたんでな、全く手をつけていない」

「手伝わせようと思っていたの間違いでしょ……。仕方ない。手伝いますよ。とりあえず本はこの箱に詰めればいいんですよね?」


 メリッサ呼びに少しだけ反応してしまった。恥ずかしさを紛らわすため、手を動かす。


「そうだが、先に話を聞いてくれ」

「話ならもう聞きましたよ。ご卒業おめでとうございます」

「好きだ」

「え?」

「メリッサが好きだ」


 突然の告白に頭がついていかない。

 手に取った本を一旦箱に詰め、そこからしばらく考え込む。私の記憶では「俺は好意的な相手の名前しか呼びたくない」と言われたのはほんの数日前のはずだ。何年も離れているのであれば記憶違いも考えられるが、数日前のことを間違えたりしない。


「……ついこの前までお前呼びで、好意的な相手の名前しか呼びたくないって言ってましたよね?」


 それでも念のため、確認を取る。


「ああ、確かに言った。だから今、名前で呼んでいる」

「別に今さらご機嫌なんて取らなくてもいいです。こっちも仕事だから来ているだけで」

「好みじゃないんだろ。知ってる。だが諦めたくない。生涯を共に歩くならメリッサのような女がいい」

「それは遠回しに私と似た女性なら誰でもいいと言ってます?」

「……俺の言い方が悪かった。メリッサでなければ嫌なんだ。自分の家族を大切に思う姿に強く惹かれた。幸い、俺はすでに伯爵家との縁も切られているらしい。自分で好きな女性に求婚できるほどには身軽な身だ」

「身軽さは求めていないのですが」

「だが身分も求めていない、だろ?」


 私が相手に求めるのは気持ちである。生涯枯れることのない愛がほしい。

 私はワガママだから、欲しいものを手に入れるため、貪欲に知識や技能を蓄え続けた。ダンスも経営学も経済学も。自分の糧になり得るものは全て頭と身体にたたき込んだ。


 生まれた時点で確定してしまう身分なんて余計なフィルターでしかない。その他にも障害になり得る言語だっていくつもマスターした。近隣諸国の五カ国語は読み書きともにバッチリだ。私を溺愛してくれている家族は、私の意見を尊重してくれる。


「それは……まぁ」


 アルサムは「ちゃんと周りに話を聞いて確認を取った」と少しだけ得意気だ。フッと笑う顔だけで、彼がモテた理由を察してしまえる。令嬢達が見ていたのは彼の立場だけではなかった。顔立ちが整っているところはもちろん、なんだかんだで気遣いができるところまで見抜いていたのだろう。貴族、いや女性という者は抜け目がないのである。


「君に言われるまで自覚はなかったのだが、俺は家族というものに執着する質らしい。利用されても交流を絶っても、頭の隅で彼らの顔が過っていたほどには。だからこの箱庭から出るに出られなかった。だが母こそが本物の家族なのだと教えてくれた。メリッサが外に出る勇気をくれたんだ」


 それはただ、人生の切り替えのタイミングで私がいただけ。新たに執着するものを探している時に、偶然近くにいた私が目に入っただけではないか。


 冷静な頭はそう訴えているのに、アルサムの燃えるような視線が私の心を貫こうとしているのだ。


「俺はこれからメリッサにとって利用価値のある人間になる。爵位がなくとも、手に入れておきたいと思えるほど有能な人間に。だからそれまで、俺が運命の相手になりえるのかを考えてほしい」

「……そう言いながら、返事までさほど猶予を与えてくれないんですよね」

「さぁどうだろうな」


 アルサムが意地悪な笑みを浮かべると、胸がキュッと締まった。


 初めての感覚なのに覚えがある。いろんな人から聞いた話の中に何度も出てきた言葉だから。


 返答なんて待ってもらうまでもない。私はもう彼に恋しているのだ。

 長い長い廊下を何度と歩く度、深みにハマっていったのだろう。でなければ、お姉様のためとはいえこんなに頻繁に足を運んだりしない。手紙を確実に読ませるだけなら、他に最良の方法があったはず。


 選ばなかったのは多分、私から彼に伝えたかったから。

 会いたいという思いが根底にあったからだ。


 気付くとなんだか気恥ずかしい。

 頭の中で「君はひたむきに努力を続ける人が好きだから」と義兄が笑っている。

 きっと報告すれば想像通りの反応をするのだろう。彼の策略にハマるのは癪なので、私はこの言葉を使おうと思う。


 この恋は運命であるーーと。

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