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長弓のエレ  作者: Han Lu
プロローグ
1/41

むかしむかし

 ガシガシガシ。

 アイナは今日も地面を掘り起こす。小さな手にスプーンを握り締めて。

 地面は固く、幼い彼女の力と小さな木のスプーンではまるで歯が立たない。

 それでもアイナは、めげずにその木の根元を掘り起こそうとしている。

 ガシガシガシ。

 丘の上に立つ大きな木。

 その木のことを人々は『竜の木』と呼んでいた。

 昔、この地を治めていた竜がいた。

 立派な竜だった。

 その竜が死ぬと、人々は死体を丘の上に埋葬した。やがて、その場所から木が芽吹き、いつしか大木に育った。そういい伝えられていた。

 だから、『竜の木』のことは誰もが知っていた。

 誰もがその木を大切にしていた。

 アイナは竜を見たことがない。昔はたくさんいた竜もその数はどんどん減っていき、今ではその姿を見たことのある者はほとんどいない。アイナも村に伝わる絵巻物に描かれた絵でしか見たことがない。それも、年に一度の収穫祭の時に祭壇に飾られるのを目にするだけだ。

 竜は人々の――彼女たちの守り神だった。

 だからアイナは思った。

 もしも竜の死体――たぶんもう骨になっているだろう――を見つけることができたら。そして、その骨を煎じて――薬師のマルヤラが作るニジヘビの骨を煎じた薬のように――姉たちに飲ませれば、彼女たちの命を救うことができるのではないか。

 タイナ・アイナ・クーシ――タイナの三十六番目の子供アイナ――はそう考えた。

 ガシガシガシ。

 アイナが両手で握りしめているスプーンは彼女のために一番上の姉、ユクがこのあたりで一番硬い木から削り出したものだった。アイナは食事のとき以外も肌身離さずこのスプーンを持ち歩いていた。でも、そのユクももういない。三十五人いる彼女の姉たちのなかで、生き残っているのはアイナを含めて十二人になってしまった。その十二人のうち、三人が病にふせっている。

「アイナ!」

 振り返ると、二十番目の姉リーンが立っていた。

「またそんなことして。だめじゃない、スプーンをそんなふうに使っちゃ」

 アイナはじっと地面を見下ろした。

「だって……」

「『竜の木』はただのいい伝えなんだよ」

「いい伝えって、嘘のことなの?」

「そりゃまあ、嘘というわけじゃないけど。でも、まるっきりの本当というわけでもないんだからね」

「だって、キエロお姉ちゃんがいってたんだもん」

 リーンはため息をついた。

「それに、例えいい伝えが本当だとしても、あんたの力じゃ掘り起こすなんて無理だよ」

 そんなことやってみないとわからない――アイナはそう思ったけど、口にしなかった。うつむくアイナにリーンは微笑んだ。

「さあ、帰ろう。みんな待ってるよ」

 アイナは立ち上がると、リーンの手を握った。


「アイナ、ちゃんと手を洗いなさい」

 土造りの家の入口をアイナがくぐったとたん、奥の部屋から母親の大きな声が聞こえた。

 アイナはいつも不思議だった。お母さんはどうして自分が帰ってきたことが奥の部屋にいてもわかるのだろう。

 母親のいいつけを守ってアイナが洗面所の水瓶の水で手を洗っていると、病室の天井から吊るされた白い布をそっとかき分けて薬師のマルヤラが姿を現した。

「あら。お帰り、アイナ。ほら、ちゃんと手を拭いて」

 マルヤラが差し出した布で手を拭きながら、アイナは病室のほうを見て、そっとささやいた。

「キエロお姉ちゃんは」

「今は大丈夫。落ち着いてるから」

 病室との境界を作っている白い布は何重にも重ねられ、天井から吊り下げられている。

 その布越しに、ベッドに横たわっている人影がうっすらと見えた。

「アイナ?」

 布の向こうから声が聞こえた。

 アイナはそっと白い布に近づく。

「うん」

「ちゃんとお母さんのいうことを聞いてる?」

「うん。あのね、今日も竜、だめだった」

「そう」

「竜、ちゃんといるよね」

「ありがとう、アイナ。でも、アイナの力じゃ、まだ無理よ」

 アイナはぎゅっと白い布を握り締めた。

「ねえ、アイナ。世界のどこかには、生きてる竜もいるのよ」

「生きてる? 竜が?」

「世界に四頭いる『楔の竜』は決して死なないといわれているの。『楔の竜』は今でもどこかで生きているのよ」

「くさびの……竜」

「すべての竜の頂点に立つ偉大な竜よ」

「どこにいるの」

「それは誰にもわらないの」

「キエロお姉ちゃんにも?」

「そうよ」

「お母さんにも?」

「お母さんにも」

「マルヤラにも?」

「マルヤラにも」

「もし、『楔の竜』に会えたら、お姉ちゃんたちの病気を治してくれるかな」

「そうね。『楔の竜』なら、もしかしたら私たちの病気を治してくれるかもしれないわね」

 はっ、とアイナは顔を上げた。

「ほんと?」

「もし、会えたらね」

「会う。あたし、会いに行く」

「アイナがもっと大きくなったらね」

「うん。あたし、大きくなったら、『楔の竜』を探しに行く」

「でも、『楔の竜』にお願いするには『開く者』の力を借りなければならないかも……」

 口を開こうとしたアイナの肩に、背後からそっと手が置かれた。アイナが振り向くと、マルヤラが立っていた。

「アイナ、そろそろお姉ちゃんを休ませてあげて」

 アイナはうなずいた。

「またね、アイナ」

 白い布の向こう側からキエロの声が聞こえた。

「うん。またね。お姉ちゃん」

 マルヤラに手を引かれて、アイナは食堂へ入っていった。

「ごめんね、いつもごちそうになっちゃって」

 食事の準備をしているアイナの母親に、マルヤラが声をかけた。

「いいのよ、これくらい。アイナ、ちゃんと手を洗った?」

「うん」

 子供用の椅子に座ると、アイナは向かいに座ったマルヤラに尋ねた。

「ねえ、マルヤラ。『開く者』って誰のこと?」

「アイナも見たことがあるでしょう。『楔の竜』の絵」

「うん」

「あの『楔の竜』のお話に出てくる人よ。竜と言葉を交わせる人。この世界の理を変えてしまえる人。『開く者』が『楔の竜』の力を使って、この世界を救うといわれているの」

「その人はどこにいるの?」

「この世界にはいない」

「いないの」

「この世界にはね。『開く者』は別の世界からやってくるといわれている」

「いつ? いつ来てくれる?」

 マルヤラは笑って首を振った。

「私にはわからないわ。ううん、誰にもわからない。ただ……」

 アイナがマルヤラの顔を見上げると、彼女は窓の外から遠くを見つめていた。

「あの丘の上の木。竜の木」

「うん」

「あの木に、花が咲いたら」

「咲いたら?」

「竜の木に花が咲くとき、『開く者』が現れる。いい伝えでは、ね。でも、これまで誰もあの木に花が咲いたのを見たことはないし、いつ咲くのか誰にもわからないのよ」

 アイナの母親がテーブルにスープの入った器を置いた。

「アイナ、あんまりマルヤラを困らせちゃだめよ。それでなくても、みんなの世話で大変なんだから」

「いいのよ、アイナ。これからも、なんでも聞いてちょうだい」

「わかった……」

 お気に入りのスプーンを握り締めて、アイナはうなずいた。


 優しかった姉のキエロが息を引き取ったのはそれから三日後だった。

 アイナは一人家を出た。

 とぼとぼと、あてもなく歩いた。

 気が付くと、竜の木まで来ていた。

 いつもと何かが違っていた。

 匂いだ。

 木の周りにはいつもと違った匂いが立ち込めていた。

 見上げると、アイナの視界に赤い色が飛び込んできた。

 花が咲いていた。

 竜の木に赤い花が。

 アイナは駆け出した。

「マルヤラ! マルヤラ! 花が咲いた! 竜の木に花が――」

 今はもう白い布が開け放たれているキエロの病室に飛び込んできたアイナは、立ちすくんだ。

 ベッドの周りに集まっているアイナの母親と姉たち。そして、ベッドの上には死んだはずのキエロが座っている。

 生きている。キエロが。

 アイナはベッドに走り寄ろうとして、立ち止まった。

 何かが変だった。

 キエロが怯えた表情でこちらを見ている。

 シーツを体に巻き付けて、まるで何かから必死で身を守っているみたいに見えた。ベッドの上で、じりじりと体を後退させながら、キエロが何かをいった。

「****?」

 アイナにはキエロの言葉が聞き取れなかった。まるでどこか別の国の言葉のようだった。たまにやってくる異国の人間の言葉に似ていたけど、それを判断する能力をアイナは持っていない。

「落ち着いて。大丈夫だから」

 マルヤラがなだめるようにキエロに呼びかけながら、手を差し伸べた。

 キエロはマルヤラの手から逃れるようにますます体を後退させて、後ろの壁にぶつかると何かを叫んだ。

「*****!」

 またしても、姉の言葉を聞き取ることがアイナにはできなかった。

 再びキエロとアイナの視線が合った。

 キエロの瞳を見て、アイナは確信した。

 これはキエロお姉ちゃんじゃない。

 外見はキエロお姉ちゃんだけど、違う。知らない誰かだ。

 では、彼女はいったい何者なのか。

 なぜ彼女の言葉が理解できないのか。

 彼女は何をそんなに怯えているのか。

 その答えをアイナが知るのはー―本当に理解するのは、まだ先ことだった。


「『開く者』? キエロが?」

 食堂に集まった母親と姉たち、そしてマルヤラの会話をアイナは床に座ってじっと聞いていた。

「ただのいい伝えなんじゃ……」

「彼女がそういったの?」

「本当にキエロじゃなくなっちゃったの?」

 姉たちの質問にマルヤラが答えた。

「彼女はキエロじゃない。それは確かよ」

「話せたんだね」

 母親が尋ねた。

「ええ。『言替えの薬』を飲ませてみたの。どうやらちゃんと効いたみたい」

「それで……」

「彼女はこの世界の人間じゃない。死んだキエロの肉体に別の世界から来た人間の魂が宿っている」

 みんな押し黙った。

「それにあの花。竜の木に花が咲いた。間違いない。彼女は『開く者』よ」

「だとしたら……」

 誰かのつぶやきにマルヤラが答えた。

「そう。まだ望みはある」


 むせかえるような甘い香りの下、アイナは竜の木の根元に座っていた。

 一週間たってもまだ花は一向に散る気配がない。

 もう地面を掘り返さなくなったけれど、いつもの習慣でアイナの足はいつの間にか丘の上に向かってしまう。

 アイナのそばに誰かが立った。

 見上げると、キエロが――正確にいうとキエロの姿をした誰かが立っていた。

「座ってもいいかな」

 アイナはうなずいた。

「ありがとう」

 彼女がそばに座るなり、アイナは口を開いた。

「あなたは本当に『開く者』なの?」

「私にはよくわからないけど……どうやらそうみたいね」

 目の前にいる人物――キエロの姿をした何者か――がいった。

「私は――今の私は、あなたのお姉さんの姿をしているのね」

「うん。キエロ。キエロお姉ちゃん」

「キエロ……。そう……。ごめんねキエロ」

 その横顔を見てアイナは改めて思った。やっぱり。この人はキエロお姉ちゃんじゃないんだ。本当に『開く者』なんだ。

「ねえ。聞いていいかな」

 今度は『開く者』がアイナに尋ねた。

 アイナはうなずいた。

「誰に聞いても、誰もちゃんと答えてくれないの。あなたたちは……」

 いったん口を閉ざしてから、『開く者』はいいにくそうに問いかけた。

「あなたたちは、どうしてみんな同じ顔をしているの」

 一瞬、アイナはきょとんとした顔で首をかしげたが、すぐに答えた。

「だって、家族だから」

「家族……。あなたのお母さんとお姉さんたちね」

 アイナはうなずく。

「この村の別の家族にも会った。どの家もお母さんとたくさんの姉妹がいた。どの家も家族はみんな同じ顔。そして、どの家も病気で寝ている子たちがいた。どの家の子供たちもたくさん亡くなっていた。そうよね」

 再びアイナはうなずく。

「どの家もお母さんと姉妹たちしかいない。つまり、この世界には******がいない」

「何ていったの?」

「******」

 アイナにはその言葉を聞き取ることができなかった。その言葉だけがアイナの知らない異国の言葉に聞こえた。

「私のいっていることがわからないのね」

「……?」

 アイナは『開く者』の言葉を真似ようとしたが、うまく発音できなかった。 

「あの薬――『言替えの薬』でも翻訳できていない。つまり……」 

 突然『開く者』が笑い出した。

「そうか。もともとそういう概念がないから、それに相当する言葉がないのか」

 この人、何かに怯えてる。何かを怖がってる。アイナは感じた。

「なんてことなの……。なんて世界なの……」

 それから『開く者』は一人でぶつぶつと何かをつぶやいていたけれど、はっと、顔を上げてアイナを残して立ち去った。

 しばらくしてアイナの家に帰ってきた『開く者』は泥だらけだった。戻ってくるなり、『開く者』は家にいたマルヤラに詰め寄った。

「教えて、マルヤラ。この世界の生き物はどうやって子孫を残しているの」

「どうやってって……」マルヤラは戸惑った。「子供を産む方法を知りたいということ?」

「いえ……ええ、まあそうね。どうやって子供を産むの?」

「その前に、あなた泥だらけじゃない。まず体を洗って」

 マルヤラに促されて浴室に向かう二人をアイナは見ていた。彼女たちは真剣な口調で話し合っている。でも、アイナにはよく聞き取れなかった。それに二人の話ぶりから、アイナは盗み聞きしてはいけないような雰囲気を感じ取っていた。

 その日から、『開く者』はじっと何かを考え込んでいる時間が増えた。ふさぎこんでいるように見えても、アイナが顔を覗き込むと決まって、『開く者』は微笑んでくれた。アイナはもう『開く者』のことをキエロとは別人だと思うようになっていた。でも、彼女の笑顔を見ると、たまに昔のキエロのことを思い出して少し寂しくなった。

 人々は徐々に『開く者』を受け入れていった。最初は戸惑っていた『開く者』もこの世界の暮らしに慣れていった。同じ顔をした姉妹たちの見わけもつくようになった。外見はほとんど同じでも性格や雰囲気はそれぞれ異なっていた。そして、彼女たちの中ではアイナが一番『開く者』になついていた。

 やがて彼女はキエロにちなんで、キエロの最初の娘、キエロ・キユル・エン――キユルと呼ばれるようになった。


「本当に行っちゃうの?」

 キユルはアイナの前にひざをついた。

 アイナはずいぶん背が伸びたが、それでもまだキユルの胸のあたりまでしかない。

「必ず戻ってくるから。それまで待ってて」

 アイナがうなずくとキユルは立ち上がった。

「キユル。気を付けて」

 マルヤラがキユルの手を握り締めた。

「うん。みんなを頼みます」

 タイナとその娘たちが見送りに家の前に集まっていた。全く同じ顔の母親とその娘たち。キユルがこの世界に来たとき十二人いたタイナの娘たちは今、十人に減っている。

「タイナ、今までありがとう」

「無理しないで。つらくなったらいつでも帰っておいで」

 キユルは無言でうなずくと荷物を肩に背負った。

「それじゃあみんな。行ってきます」


 キユルが旅立ってから、タイナの娘たちは病でその数がどんどん減っていった。タイナの娘たちだけでなく、ほかの家の娘たちも。さらに、その村だけでなくその地域全体で、病で命を落としていく娘たちが後を絶たなかった。

 もし、大きな流行り病が来たら、この一帯の命はひとたまりもないだろう。みんながそんなことを囁いていた矢先、隣の村で大きな流行り病が発生したことがアイナたちの村に伝わった。アイナが身ごもったのはそんなときだった。

 その日も、アイナは木の根元に座っていた。

 大きくなったお腹を大事そうに抱えながら、その木を見上げていた。

 丘の上に立つ古い大きな木。

 この木の根元に座るといつも、アイナの脳裏には昔の出来事が次々と浮かんでは消えていく。

 竜の死体を掘り起こそうとしていた子供の頃のこと。その木のことを『竜の木』と呼ぶ者はめっきり少なくなってしまったけど、今でもアイナはその木の下に竜の死体が埋まっていると信じていた。本当に竜の死体が埋まっていたとしても、今のアイナにはそれを掘り起こす体力はもうほとんど残されていない。ただ毎日『竜の木』の根元に座って、昔の思い出を呼び起こすことくらいしかできない。

 たくさんいた姉妹たちのこと。

 優しかった姉のキエロのこと。

 そして、別の世界から来たキユルのこと。

 キユルが出発してから長い年月が経った。元気でいるだろうか。

 マルヤラは『開く者』には私たちにはない力が備わっているから大丈夫だといっていた。

 もし元気だったとしても、もう私たちのことは忘れてしまっているのではないだろうか。別の土地で、私たちのことなんて忘れて、幸せに暮らしているんじゃないか。もしそうだとしても、キユルを恨む気にはなれなかった。ただとても悲しいだけだ。

 そんなことを考えていると、アイナの目に涙が浮かんできた。涙でぼんやりとかすむ『竜の木』の上には太陽が輝いている。

 アイナがぼんやりと眺めていると、太陽の中から黒い影がにじみ出てきた。影はどんどん大きくなっていく。

 最初は鳥かと思った。それにしては形が変だ。首が長くて大きな翼、大きな尻尾が付いている。

 その影は大きく旋回しながら、アイナの座っている木の根元に舞い降りてきた。

 立派な竜だった。

 その竜の背に人が乗っている。

 見慣れない異国の服を着ているが、アイナにはひと目でわかった。キユルだ。

 キユルはふわりと竜から降り立った。

「ただいま、アイナ。帰ってきたよ」 


 キユルを連れてアイナは自分の家に戻った。

 最近はめっきりと体力が落ちて、家に着く頃には足元がおぼつかなくなっていた。

 家に着くと、マルヤラが二人を出迎えた。

「キユル!」

「戻ってきたわ」

 マルヤラとキユルは固く抱き合って、再会を喜んだ。

「よく無事で……」

「なんとか間に合ったみたいね」

 抱擁を解いて、キユルはマルヤラの頬に手を添えた。

「あなたは大丈夫なの、マルヤラ」

「私が倒れるわけにはいかないから」

 キユルはアイナの姉妹たちの状態を見て回った。もともと三十八人いたアイナの姉妹はキユルがこの世界に来たとき既に十二人にまで減り、それが今ではアイナを入れてわずか三人になっていた。アイナの二人の姉たちはどちらも長い間床にふせっている。

 近隣の家も同様だった。家族全員が死に絶えてしまった家も少なくなかった。流行り病は着実に彼女たちの命を奪っていった。

「おとなしく寝てないから……」

 ベッドに横たわったアイナの額に手を乗せてマルヤラがいった。

「ごめんなさい。でも一番最初にキユルに会えた」 

 キユルは、熱による発汗で額に張り付いたアイナの髪の毛を、そっとかき分けた。

「話は明日ゆっくりしよう。今日はもうお休み、アイナ」

「わかった。キユル、私もうすぐお母さんになるんだよ」

「うん。おめでとう、アイナ」

 マルヤラとキユルが部屋を出ていくと、アイナはまぶたを閉じた。


 その夜、アイナは夢を見た。

 知らない土地だった。

 何かの焼ける匂い、煙の匂い、そして血の匂いがあたりに充満している。

 遠くから何かが飛んでくる音がする。その直後、大きな音と土煙とともに地面がはじけ飛んだ。大地が揺れている。

 すぐそばを鉄でできた大きな獣のようなものがゆっくりと進んでいく。鉄の獣は耳をつんざくような咆哮とともに、火を噴きだしている。

 再び地面が揺れて、大量の土と一緒に、人が目の前に落ちてきた。

 丸い帽子のようなものを目深にかぶっていて顔がよく見えない。

 気を失っているみたいだ。

 左足の膝から下がなくなっている。血がたくさん流れている。

 誰かが走ってきて、その人のそばにひざまずいた。

 倒れている人の左足を何かで縛っている。たぶんこれ以上血が出ないようにしてるんだ。

 白地に赤い十字のしるしの付いた布を腕に巻いている。

 その人の横顔が見えた。

 キユルだ。

 今のキユルとは全然違う顔をしているけど、アイナにはわかった。

 これは私たちのいる世界に来る前の、あっちの世界のキユルだ。

 キユルは必死に怪我をした人を助けようとしていた。

 何かしなきゃ。手伝わなきゃ。

 でも、アイナの体は動かなかった。

 キユルのすぐそばで、また地面が弾けた。

 手当をしている人をかばうように倒れ込んだキユルの背中に土砂が降りかかる。

 キユル!

 アイナは叫んだ。


 目が覚めると、部屋の中は窓から差し込む朝の陽ざしに輝いていた。

 頬が濡れているのにアイナは気付いた。どうやら眠っている間に泣いたらしい。そういえば、とても恐ろしい夢を見ていたような気がした。でも、どんな夢だったのか、目覚めたアイナには思い出せなかった。

 窓の外にキユルと竜の姿が見えた。

 竜はその大きな体を横たえ目を閉じている。キユルは竜の額に手を当てて、何やら話しかけている。竜と会話ができる。それは『開く者』の能力のひとつだった。

 竜はうっすら目を開けて、大きな口をかすかに動かした。キユルがうなずいている。その光景を見ながらアイナは思った。本当にいい伝えどおりだ。

 ふと、アイナの視線にキユルが気付いて、窓辺に歩いてきた。

 開かれた窓から少し身を乗り出して、キユルはアイナに微笑みかけた。

「おはよう、アイナ」

「おはよう。本当に竜と話ができるのね」

「そうよ。名前はパピヨン」

「パピヨン。変わった名前」

「ああ、それは私が付けたから」

「そうなの?」

「うん。好きな名前を付けろって」

「じゃあそれまで名前がなかったの」

「そうよ。それまでは、ただの『楔の竜』だったの」そこでキユルはパピヨンを振り返った「ねぇ、パピヨン!」

 竜は首を少しもたげて、うっすらと目を開けた。

「この名前、気に入ってる?」

 ふーっ、とため息のような音が竜の口から洩れた。

「悪くないってさ」とキユルがいった。

「本当?」

「本当よ」

「本当かなぁ」

「何? 疑ってるの? 私は『開く者』なのよ」

 アイナは笑った。

「キユル、変わったね」

「そうかしら」

「だって、昔は『開く者』のこと、すごく嫌そうだった」

「嫌っていうか……よくわからなかったのよ。この世界のことも、どうして私がもとの世界からこの世界にやって来なければならなかったのかも」

「今は?」

「今も、本当のことはよくわからないわ。でも、自分なりに、私がここにいる理由を見つけた気がする。私ね、もとの世界では病気の人を看病したり怪我を治したりする仕事をしていたの」

「マルヤラみたいな?」

「そう。マルヤラみたいな。私の国で戦争があって……あ、戦争ってわからないか」

「?」

「人間同士が殺しあうこと」

 アイナはなぜかさっき見た夢のことを思った。でも夢の内容はすでに記憶の深い底に沈んでしまっていて、思い出すことはできなかった。

「殺しあう? 人間同士で?」

「そうよ」

「どうしてそんなことをするの? そんなことをしなくても、私たちはどんどん病気で死んでしまうのに」

「向こうの世界では、病で簡単に人は死なないの。でも、その代り、人間同士で殺し合いをするのよ」

 理解できない、というふうにアイナは首を振った。

「どうしてそんな……」

「うん。私もそんなのおかしいと思ってる。でも、それが私たちの世界だったの。それが私たちの世界にとっての普通だったの」

 アイナはキユルの腕をぎゅっとつかんだ。

「キユル、そんな世界に戻らなくてもいいよ。扉なんて開けなくてもいい。ずっとこの世界にいてほしい」

 少し寂しそうに、キユルは答えた。

「アイナ、私もそうできれば本当にいいと思う」


 アイナは目を覚ました。

 マルヤラが微笑んでいる。

「マルヤラ。赤ちゃんは……」

「大丈夫。無事よ。元気。立派な赤ちゃんよ」

「よかった」

 アイナは大きくため息をついた。出産は問題なく終わったんだ。全身の緊張が少しずつほどけていく。

「キユルは? キユルはどこ?」

 マルヤラは目を伏せた。

「キユルは『開く者』の役割を果たしたわ。あなたが頑張っているあいだ、キユルも頑張った。キユルは見事に扉を開いた。そして、この世界の理を変えて、もとの世界に帰っていった」

「そう。じゃあもう会えないんだね」

 マルヤラはそれには答えず、アイナの手を握った。

「ちょっと待ってて。今赤ちゃんに会わせてあげる」

 すぐにマルヤラはアイナの赤ん坊を抱いて戻ってきた。そして、真剣な表情で、アイナに告げた。

「アイナ。落ち着いて聞いて。ひとつだけ。この子はひとつだけみんなと違っているところがある。でも、これからは同じような子供がたくさん生まれることになる。だから何も心配しなくていい。わかった?」

 アイナにはマルヤラのいっていることがよくわからなかったけど、こくりとうなずいて、上半身を起こした。

 そして、マルヤラは赤ん坊をアイナにそっと手渡した。

 赤ん坊をくるんでいた清潔な布を、マルヤラはそっとほどいた。

 確かにその赤ん坊は、みんなと違っていた。

 その違いが何を意味するのか、彼女たちのなかで理解できる者はその時点では誰一人としていなかった。彼女たちの誰もが、その違いの意味を理解できていなかった。

 しかし、もう変化は始まってしまった。

 その日、アイナは子供を産んだ。

 その日、世界に大きな変化をもたらす最初の子供が生まれた。

 その日、世界に初めて男の子が産み落とされた。

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