第四話裏 因果応報
渉を安全な家の外へとやり、私は一人で家の中へと戻った。
渉を連れて戻らなかったのは、怪異と接触し接点を持ってしまった事、そして、怪異の性質が呪いに近い事が理由だ。
渉のように優しく、同情しがちな人間と呪いとは恐ろしく相性が悪い。
降霊術によって降ろされ行き場を求めるなにかにとって、同情という形で関心を持ってくれる対象はとても都合がよく、格好のターゲットとされてしまう。
人として優しいのは当然利点だが、相手が怪異となれば話は別だ。
玄関から繋がる左右の廊下、階段、正面に見える部屋。
その全てに怪異の持つ気色の悪い魔素がはっきりと残っており、この家その物が怪異化しつつある事を如実に物語っている。
私は自身を覆う魔素の層を厚くし、襲撃に備えるとともに依頼主である裕人さんの痕跡を追う事とした。
怪異が通ったのであろう廊下の床と壁は赤黒い泥のような魔素が蠢き、自身を覆った魔素をすり抜けて血の匂いが鼻を突く。
泥状の魔素はかなり濃度が高く、耐性を持たない人間であれば触れただけで心身ともに影響を受けただろう。
足元の泥と宙に浮く細かな魔素を払いながらまずは書斎を目指す。
家から脱出する際、トランクを置いて来てしまった。
書斎の中はほとんど影響を受けておらず、机に置かれた本もそのままの状態だ。
これだけの魔素であれば本も何かしらの影響を受けていると思ったが。
部屋を覆っていた私の魔素も防御としては一役買っていただろうが、この規模で影響を受けないのはさすがに不可思議だ。
となると、この部屋そのものに霊的な防御か魔素的な防御が施されていた可能性が高い。
果たして内から外に出さないためか外から内に入れないためか。
まぁどちらにせよ手間が省けた事に変わりはない。
トランクを回収しつつ、魔素を家全体規模で散布する。
防御に割いていた分を探査に回せたおかげか、一階の玄関正面に人のもの、そして二階、階段を上がってすぐの所に怪異のものと思われる魔素を感知した。
両者とも動いてはおらず微弱なもので、人のものはともかく、怪異のものは先ほど渉を襲ったものとは思えないほど弱くなっている。
裕人さんの状態も気になるが、せっかく弱くなってくれているのなら怪異への対処が先だろう。
トランクの中から手製の除霊紙を取り出し、まずは二階へと向かう事にした。
廊下、玄関と来た道を戻る。
行きに払った泥は周囲の泥が増殖を繰り返す事で元に戻り、未だに私の足を取ろうと蠢いている。
書斎に居たのは僅かな時間だが家の怪異化は明らかに進んでおり、天井には、中に入った人間を襲おうと泥玉が罠のように待ち構えている始末だ。
怪異化の中でも悪意の強いものにこういった変化は見られ、中に入った人間を襲う事で更なる呪いを生み出す、といった目的がある他、単純に人への強い恨みが攻撃性を持たせている場合もある。
もっとも、私には効果が無いのだが。
足元の泥も周囲の悪意に満ちた魔素も泥玉も、全て私の魔素に防がれて弾かれていく。
怪異には悪いが今の私は機嫌が悪い。
浄化や吸収など甘っちょろい方法ではなく、会うなり存在を消滅させるつもりだ。
そのまま大した障害もなく、問題の階段へとたどり着く。
階段は押し寄せる泥で軽い濁流のようになっており、壁や天井には血のような染みが浮かんでいる。
その染みからは泥を生む腫瘍のようなものが形成されており、それらが蠢くさまはさながら臓器のようだ。
もし匂いを遮断していなかったなら濃い血の匂いがした事だろう。
そのまま階段を上り、いよいよ怪異の目前へと迫る。
そこには、赤黒いなにかが立っていた。
体は細い人間のそれだが頭部は犬のものになっており、首には粗い縫い目。
まるで頭から上を犬と挿げ替えられたかのようなそいつは、こちらを見るなり低いうなり声をあげはじめる。
うなり声からして中身は犬なんだろう。
人間の体に適合できていないのか、辛うじて二本足で立ってはいるものの大きく仰け反っており、一歩進んだ事で倒れそうになった体を、肩を前に出すことで無理やり支えながらこちらへ向かって歩いてくる。
体を大きく揺らしながら歩く姿はまるでゾンビ映画のようだ。
犬なら犬らしく這いつくばって来ればいいものを。
距離にして一メートルもないが待ってやる義理もない。
除霊紙に蓄えられた魔素をそいつに向かって放出し、更に自身の魔素に殺意を込めてそれと混ぜる。
そして一言。
「消えろ」
これで除霊は完了だ。
そいつは周囲を囲んだ私の魔素に圧縮され、砂ほどの粒になって消滅する。
魔素を使った魔法に呪文や詠唱といったものは本来必要ないのだが、今回は私の憂さ晴らしも兼ねた威力の補強のため、あえて目的を口に出してみた。
魔素の操作は意志の作用であるため意志が強いほど効果が大きくなりやすく、その意志を補強するために目的を口に出すというのは有効だ。
こうしてあっけなく消滅した怪異と共に家の怪異化も進行を止め、影響を受けた箇所は速やかに元の姿へと戻っていく。
レベルの高い怪異であれば影響が残る期間も長くなるのだが、やはり今回の怪異は大したことなかった、ということだろう。
あの怪異に関して、犬神、という言葉が頭をよぎった。
飢えた犬の首を材料とし、特定の手順を踏んで呪物とすることで呪いをかける、といったものだったか。
ただ、それにしては下半身が人間、という点が理解できない。
犬神は犬やネズミに似た姿と言われており、動物霊である以上人間とは関係ないはずだ。
また、あると踏んでいた術者や触媒に関しても気配が感じられない。
依頼主の口ぶりからしても、術者であったか触媒にされたかした娘が二階に居るものだと思ったが。
それに、今回魔素が検知できたのは人のものが一つと怪異のものが一つ。
居ると思っていた妻も娘も居ないとは。
当初考えていた、降霊術によって呼び出された霊が暴走し、妻や娘に憑依した、というケースはどうやら違ったようだ。
となると、今回のケースは更に面白い事になっているのではないだろうか。
人の不幸を面白がるのは良くないことだとわかっているが、それでも内から湧き上がる黒い衝動を抑えきれない。
未知のものへの好奇心ももちろんあるが、こうして怪異と触れるたびに強まるこの衝動はなんなのだろう。
魔素は人の思考や感情に作用し、私は霊的なものの浄化や除霊に魔素を用いている。
つまり、私は、怪異から少なからず影響を受けているのかもしれない。
自分自身に関して考えるのは後にしよう。
すっかり元に戻った家の中を進み、一階玄関前、曇りガラスの部屋で裕人さんを見つけた。
この部屋は裕人さんの寝室兼自室だろうか。
簡素な机が部屋の中央にある以外は何もなく、押し入れがある以外には目立った収納スペースもない。
裕人さんはその机に倒れこむようにして気を失っていた。
裕人さんの体を起こし、声を掛けようとした刹那、体の下にある一冊の本が目に入る。
それは楽しそうな家族の写真が納められたアルバムのようで、そこに写った男性は間違いなく裕人さんだ。
となると、一緒に写った女性と若い女性は妻と娘なのだろう。
「裕人さん、大丈夫ですか」
「……ん、ああ、申し訳ない。 終わりましたか」
「はい、あれは消滅させました。 もともとそれが目的だったんですね?」
「騙すような真似をして申し訳ありませんでした。 やはり失敗してしまったようです」
「詳しい話は書斎でしましょう。 ここに留まっていては危険です」
「……はい」
裕人さんが目覚めた瞬間、周辺に漂う魔素と裕人さんの魔素から不気味な気配が漂った。
今回のきっかけとなった降霊術は、妻と娘を降ろすためのものだったのだろう。
それが失敗に終わったからか、今の裕人さんは抜け殻のようになっている。
詳しい時期はわからないが写真に残された魔素の濃さから、恐らく二人が居なくなったのはつい最近の事。
それに加え、この部屋と裕人さんからは微かに写真に残った魔素と同じ気配がする。
私たちが書斎で本の処理を行っている間、裕人さんはこの部屋で降霊術を試みたのであろう。
なぜこのタイミングで降霊術を行ったのかと、なぜ書斎ではなくこの場所で降霊術を行ったのかだが、どちらも私たちが居た事が原因だろう。
裕人さんは、降霊術が失敗し何か悪影響が出た場合それに対処できると考え、私たちの居るタイミングを選び、また、私たちにその影響が及ばないように書斎ではなく、この部屋を選んだのだ。
力なく歩く裕人さんの後に続き、私たちは書斎へと入る。
裕人さんと向かい合うように座り、私は今までの推理を裕人さんへぶつけてみる事にした。
「裕人さん、降霊術の目的は亡くなったご家族を降ろす事ですか?」
「……はい、ただ降ろすだけではなく、復活させるつもりでした」
「いわゆる黄泉がえり、ですか……」
降ろすだけならまだしも復活を目的としていたとは。
「私たちはもともと犬神筋でして、そういった類とはなじみが深かったですし、降霊術に関しても詳しい知人が何人か居ました。 そこで、亡くなった家内と娘をどうにか蘇らせようと考えたのです」
「犬神は呪法だと認識しているのですが、それで人を蘇らせようと?」
「残念ながら私にはそれしか才能が無く、犬神をいくらか生贄にして人の魂を降ろして来れないかと思ったのです」
今まで人の魂の黄泉がえりに成功した例はなく、またそれが呪法によって成功するとは考えにくい。
呪法に携わっていた人間ならそれに気づかない筈がないが、それほど追い詰められていたのだろう。
「まずは動物霊を使った実験で魂を降ろすのに成功し、一時的ですが死体を動かす事もできました。 本当は更に実験を重ねてから本番に臨むはずだったのですが、どうやらもう残された時間は少ないようで」
実験を行った結果が書斎にある怪異化した本の群れであり、死体を動かす実験や、犬神を生贄にした結果が今の裕人さんの状態に繋がったのだろう。
裕人さんの周囲には、呪う対象もなく放たれた事で裕人さん自身へと帰ってきた犬神が渦のようになっていた。
「大体の事情はわかりましたが、もう一つ聞いても良いですか?」
「どうぞ」
「なぜこの書斎ではなくあの部屋で降霊術……いや、蘇生術を試みたんですか?」
「貴方たちを巻き込むほど自分勝手にはなれなかったんです。 家内と娘を蘇らせるとして、その媒体はどうしたと思います?」
くたびれた様子でそう話す裕人さんの目に、狂気の色が一瞬宿った。
要するに、私たちを触媒にするつもりだったが気が変わったと言うことか。
呪法で人の蘇生を行おうと思い至った時点か、私達を触媒にしようと考えた時点か、タイミングがいつだったにせよ、どこかの時点で裕人さんの意識は裕人さんだけの物ではなくなっていたのだろう。
「……今から助手を呼んで追加の説明を行います」
携帯電話を取り出し、涉に電話をかける。
彼がここに着き次第、最後の説明を行おう。
「……一瞬でも、娘は居たんだ。 少なくとも娘の魂だけはそこに……」
床の一点を見つめるようにして、裕人さんはそう、ぼそぼそとつぶやいていた。