第十六、十七話裏 怪異
一旦校舎から出て、稲垣君が影を見たと言っていた正門付近へと向かう。
勘が正しければ、そこにだけ何かしらの痕跡が残っていると思うのだが。
「部長、どこ行くんですか!」
「正門前。 稲垣君が見たという影を確認しにね」
「カメラだって、取りに戻らないともう無いんですよ」
「大丈夫大丈夫、何もないって」
えー、という不満げな声を聞き流して正門前へと向かう。
日も傾いて来ており、多少急がないと何の対策も無しに目標と向き合うことになるだろう。
正門から校舎側を向き、脳のチャンネルの合う方向を探る。
プール側、校舎正面、部室群。
プールのあたりを視界へ入れた時、キーンという耳鳴りがひときわ大きくなる。
どうやらプールのあたりにチャンネルの合う何かがあるようだ。
「はぁ……せめて何をしてるかくらい教えてくれたって……」
「元凶探し。 ほら、プールの方が怪しいからさっさと行くよ」
「また移動ですか!? いい加減機材持ってくださいよぉ」
「危ないかもしれないからさ、ほら早く早く」
やはり勘は正しかったようで、正門からプールに近づくにつれて耳鳴りが強くなり、周囲から音が消えていく。
プールまではまだ数百メートルあるが、脳の割合で行くと30%くらいはあちら側に割かれている。
まだ防御に回すほどではないが、咄嗟に対応できるよう準備はしておいた方が良いかもしれない。
「あの、なんか嫌な気配がするんですけど」
「お、冴えてるね。 結構大物みたいだよ」
「防御は任せても良いんですよね?」
「まぁね、そっちは抜かりなく。 でもここらで一旦戻ろうか」
「ほら、やっぱりカメラ要るんじゃないですか!」
「ごめんごめん、ここまで勘が当たるとは思わなかったんだって」
もー、と文句を言いながら湊さんは足早に教室へと戻っていく。
こちらも追いかける形で教室へと戻るが、やはり正門からプールへと続く一定の範囲を超えると何の気配も感じられなくなってしまう。
勘とこれまでにわかった事から推測すると、今回の七不思議は稲垣君の見た影が全ての元凶であり、その影が七不思議を利用して悪さをしているのだろう。
七不思議の現場や心霊スポットと呼ばれる場所には多少なり人の恐怖の念や興味の念が集まり、霊的にも魔素的にも何かしらの痕跡が残るものだ。
それが微塵も感じられないという事は、ここで唯一痕跡を残したその影が、集まった人の念や、生気などを吸収していると考えるのが自然だ。
「この二台で最後です。 他の場所から回収してきますか?」
「とりあえずそれだけあればOKかな。 夜にプールに近づくのは僕としても避けたいから少し急いで……と、メールだ」
教室に戻り、準備をしていた所でメールが届く。
差出人はあの女。
宿直室に拠点を移して夜を待とうとの事だ。
それに加えて、湊さんに私のコートを着せるように、と書いてある。
コートに関してはかなり上等な霊的防御が施されているようで、それを湊さんに着せて身を守ろうという意図はわかる。
ただ、宿直室という狭い場所であの女と一緒に居るなんてまっぴらごめんだ。
どうせプールにカメラを置く用もあるし、設置後は単独行動とさせて貰おう。
「拠点を宿直室に移動、防御としてコートを着るように、との事だ」
「宿直室はわかりましたけどコートって、瑠璃さんの大事なコートを着ちゃっても良いんですか?」
「良いってさ。 それだけ心配してるんだろあの女なりに」
湊さんは何とも嬉しそうな顔でコートを羽織り、くるくるとその場で回っている。
一体何が嬉しいのやら。
さっきまで不満そうだったのが嘘のようにうきうきで機材の入った鞄を抱え、僕を置いてプールへと向かって行ってしまった。
まぁ、こちらとしても好都合だ。
この調子なら夜までに機材をセットできるだろう。
プールに着いて機材のセッティングを始める。
まず、プールサイドの角からプールの中心に向けてカメラを設置し、トイレの時と同じくその映像をスマホへとリアルタイムで送れるよう準備を進めていく。
とはいえ僕に出来ることは無く、こうして周囲を警戒するくらいしかやることは無い。
耳鳴りは最高潮。
周囲の雑音は全て消え去り、脳のチャンネルが完全にあちらの世界へと合っている。
こんな環境の中でも湊さんがうきうきで作業を行えているのは、流石はあの女のコートと言った所か。
「もう少しかかるんですけど、電磁波測定器とサーモグラフィーはどうします?」
「ちょっと間に合わないかなぁ。 本当は今すぐにでも離れたいんだけど」
「そんなすごい所でも平気だなんて、流石は瑠璃さんのコート!」
「はいはい、急がないと霊障があっても知らないよー」
少しずつ両手に力を溜め、脳のスイッチを幽霊用に切り替える。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、体の機能を現世のものからあの世のものへと切り替えて、来るべき決戦の時へと備えていく。
エネルギーの貯蔵は十分。
念のために持ってきた数珠と水晶のかけらもフル充電だ。
「はい、セット終わりました、って……あれ……?」
「どうしたんだいそんな青い顔をして」
「いえ、このカメラの映像、人影のような物が大量に……」
少し遅かった。
スマホで確認した映像には無数の人影が映し出され、そいつらはプールの中央から這い出すようにプールサイドへと向かっている。
「ちょっと間に合わなかったか。 はい、湊さん」
「え?」
怯えた顔で固まっている湊さんの背中をぽんと叩き、自分に憑いている守護霊のうち何体かを憑依させる。
これで霊障を抑えられ、逃げ遅れる事も無いだろう。
「宿直室へ行くように。 着けばあの女がどうにかしてくれる」
「はい」
虚ろな目をしながらもはっきりと答え、湊さんは最短距離で校舎へと戻っていく。
彼女の微量な霊感もゼロじゃないだけ助かった。
これで影のターゲットにされたのは稲垣君と湊さん、そして僕。
二人が手出しできないあの女の領域に入ったのならターゲットは僕一人。
結局由来を調べる事は出来なかったが、この程度の霊であれば容易に祓えるはずだ。
スマホを取り出し、あの女へと急いでメールを送る。
まず真相がわかった事と夜の間は危険だから外に出ない事。
そして、湊さんをそちらへ向かわせた事。
メールを打つ間にも続々とプールから這い出している影たちは、人の形をしているものの細かな顔のパーツや手足の一部が欠けており、真っ黒い姿からもわかるように強い恨みに満ちている。
辛うじて人型を保っているだけで輪郭のぼけたその影たちは、もうすぐ人の形を忘れて異形のものとなるだろう。
ここまで悪霊として育ってしまっては、人としての思考や感情などとっくに忘れてしまっている。
制服のポケットから数珠一号を取り出し、右手首に巻く。
数珠一号は微かに熱を発しており、近くに脅威となるものが居る事を伝えていた。
そのまま影の一団へと右掌を向け、左手で手首を支えながら力を放つ。
ほんの1%程度の力だが、無事目の前の一団は消滅してくれた。
なんにせよ、数が多すぎる。
そして、この手ごたえの無さ。
これは恐らく七不思議を再現されただけであり、それを操る元凶はここには居ないのだろう。
ある程度の数を祓った所でプールから正門側へと移動し、元凶の痕跡を探る。
いくら七不思議を操るとはいえ校舎全体に影響を与えるほどではないだろう。
プールで七不思議を起こした以上、ある程度近くに居るはずだ。
ホワイトノイズのような耳鳴りが響き続ける中正門へと戻り、もう一度元凶の位置に探りを入れる。
今回は感知の範囲を狭め、より細かな位置を特定していく。
反応が強いのは二階の角と校舎正面、昇降口。
二階の角は宿直室のある場所だから、恐らく再現された七不思議。
という事は、本命は今昇降口に居る。
昇降口への道を走り、夜の校庭を駆けていく。
やけに静かな空気の中、生暖かい風がどこからともなく吹いてくる。
霊的なものが居る場所というのはいつもこれだ。
結局、道中湊さんに追いつく事は無く昇降口へと着いてしまう。
間に合えば宿直室までは護衛しようと思っていたのだが。
となると、湊さんは元凶の居る昇降口を素通りして宿直室へと向かったのだろうか。
昇降口は獣の息のような生臭さと生暖かさで満ちており、ここに立っているだけで本能的な嫌悪感が襲ってくる。
濃い悪霊の気配。
しかし、こちらへ襲い掛かる気配は全くしない。
用心深いのかこちらに興味が無いのか、どちらにせよ姿を見せない事には祓えない。
あまりこの状態が続くようならこちらから挑発も、と考え始めた時、突然背筋が凍るような冷気が周囲を漂い始めた。
周囲に満ちていた生暖かい空気は冷気にかき消され、先程までとは比べ物にならない死の気配が降りてくる。
霊的な気配をかき消す強烈な魔素の気配に、思わず身を竦めてしまった。
魔素の冷気は徐々に密度を高め、もう霊感が使い物にならないほど周囲を作り替えていく。
現世のものともあの世のものとも違う異質な空気。
それが辺りを覆いつくし、指先の感覚が無くなってきた頃、廊下の先から黒く染まったあの女が姿を現した。
肌と制服の白以外は完全に闇に紛れ、周囲を一切意に介さないように静かにこちらへと歩いて来る。
まるでランウェイを歩くような堂々たる態度だが、その姿は霊感や魔素の感知能力以前に、生物の本能としての恐怖を与えてくる。
「咲さんは無事だ。 元凶はどこだい?」
言葉の端々にノイズの入った、その姿からは想像もつかない程低い声。
それを聞いた途端、強烈な頭痛が襲ってくる。
あの世と繋げるために割いていた脳の部分が強い警鐘を鳴らす。
「さっきまでは昇降口に居たんだけどねぇ。 事の始まりは稲垣君が正門近くで見た影だ」
「わかった。 宿直室へと行くと良い。 ここに居ては巻き込まれるよ」
「……そうさせて貰うよ」
やせ我慢でなんとか立っていたが、本当は今すぐ膝をついて床に転がってしまいたい。
本能的な恐怖が体を支配し、ただ足を前に進める事すら出来そうにない。
そんな僕の姿を見てかはわからないが、それ以上言葉を交わす事なく横を通り抜けて行く。
足を踏み出せるようになった頃には周囲から霊的なものも魔素的なものも消えており、何の気配も感じられない無の空気が広がっていた。




