第十七話 本当に怖いもの
「ここに辿り着けたのならもう大丈夫だよ」
部長は立ち上がると宿直室の入り口で立ち尽くしていた湊を抱きしめ、そう声を掛けた。
湊は部長の腕の中で肩を震わせており、顔は見えていないが泣いているようにも見える。
その後少しして、湊は部長に肩を抱かれたまま畳の上に座った。
湊の視線は畳の一点を見つめたまま微動だにせず、はぁ、はぁと息を切らして、コートの両袖を破れそうなほどの力で握りしめている。
「大丈夫、空気にあてられただけだよ。 ほら、深呼吸して、三……二……一……」
湊が部長のカウントに合わせて深呼吸する。
一回、二回、三回。
三回目が終わった瞬間、湊ははっとしたように大きく目を開き、両袖を掴んでいた手を放す。
湊はまるで夢から覚めたかのようにすっきりした顔をしていた。
「あれ……私、部長と一緒にプールに居て、それから……」
「一種の催眠術かな、本人の意思や意識と関係なくこの部屋に歩いて来れるようにしたらしい」
部長は湊の頭、肩、背中を手で払い、払った手をそのまま湊の背中に当てると目を閉じた。
物に触れて目を閉じるのは魔素を込める時にする動作だ。
具体的に何をしているのかは分からないが、湊の目に徐々に光が戻っていく。
「催眠術って、なんでそんな事」
「君に教えた通り、怪異や超常のものと出会った時は頭を働かせないのが重要だ。 湊さんは経験が浅いから、強制的に思考能力を奪ったんだろう」
強い恐怖に晒されると頭は考えるのを放棄し、体は全く動かなくなり、視界や呼吸にすら悪影響が出る。
怪異と数回対面している俺ですらその影響を完全に防げないのだから、湊がどうなってしまうかは想像に容易い。
それにしても、小野寺さんは催眠術すら扱えてしまうのか。
「えっと……多分降霊術です。 私の体に部長の守護霊か何かをおろしたんだと思います」
すっかり普段通りに戻った湊が、部長から渡されたペットボトルのお茶を飲みながらそう言った。
降霊術。
例の依頼のせいで嫌な印象しかないが、こういう使い方も出来るのか。
「へぇ、あいつはそんな事も出来るのか。 それで、あいつは大丈夫なのかい?」
「気づいたらここに来ていて……多分大丈夫だとは思うんですが」
「まぁ、あいつなら心配は無用か。 ほら、プリンがあるから食べると良い」
部長は湊の背中から手を離すと、お茶に続いてプリンを手渡す。
それをありがとうございます、と受け取った湊はそのままプリンを平らげて、ふぅ、と息を吐いた。
「ここに来る途中、すごく怖い事があった気がするんですが、何も覚えてないんです」
「あいつなりの気遣いだろうね、トラウマにならないように」
「小野寺部長、私の事なんて何も考えてないと思ったのに」
「ああ見えて、周りの事は考えるタイプだと思うよ。 じゃなきゃあんなに温かい魔素を持っている筈がない」
感心した様子の湊だったが、部長の暑苦しいくらいだけどね、という言葉で雰囲気が台無しになってしまった。
小野寺さんの事をたてていたかと思えばこの言いよう。
やはり根本的な仲の悪さは覆せないらしい。
「あの、すみません……やっぱり、小野寺部長を手伝って貰えませんか?」
湊は意を決した様子で部長へそう声をかける。
大丈夫と答えてはいたものの、気にかかる部分があったのだろう。
表面上はいつも通りに戻ったように見える湊も、精神的にはどうなっているかわからない。
注意して見てみると、心なしか視線がぶれているようにも見える。
「やっぱり心配かい? 私は良いけど、かなり辛い時間を過ごす事になるよ?」
あっさりと引き受けたものの、部長は不安げな顔をしている。
いつものように妖しさを含んだ笑みを浮かべるものだと思ったが。
部長にとって大抵の出来事は心配に至らない程度の事であり、その部長が心配そうな顔をしているのだからよほどの事だ。
そしてその心配は恐らく、湊に対して向けられている。
「俺一人でも守りながら進むのは無理だった、という事は、湊と俺でここに残る事になるんですよね?」
「そうだね。 ここを出なければ直接的な被害は無いだろうけど、ここを魔素で覆えなくなるから、今まで防いでいた霊障は防ぎようがなくなるよ」
霊障を防いでいる、なんて話は初耳だ。
そんな話をされて直接的な被害は無いと言われても、辛くなるほどの間接的な被害とはどんなものだと言うのだろう。
湊は俺と同じように、不安で一杯といった表情で部長を見つめている。
「一度魔素を無くしてみて考えよう。 影響を受けすぎるようならあいつは置いといて、私は君たちを守るのに専念するよ」
どうする?と念押しする部長に頷いて答える。
湊も青ざめた顔をしているものの同じように頷いて答え、それを確認すると部長は小さく息を吐いた。
途端、宿直室の中を背中から体全体を伝うような冷気が覆い、底知れぬ不安のような感覚が襲いかかってくる。
近くに害をなす存在が隠れていて、今か今かと襲いかかるタイミングを見計らっているかのが分かるかのような明確な危機感。
普段の生活では意識する筈の無い死の予感が体に染み込んでくるようだ。
「どうだい? 私がここを離れる場合、この感覚の中で過ごさないといけないよ」
これは、確かに辛い。
直接的な害が無いとは分かっていても、こんな非現実的な空間に何時間も居たら自分がどうなってしまうのか想像もつかない。
ふと湊へと目をやると、湊はこの部屋へ来たばかりの時のように両袖を掴んで肩を震わせており、その顔は今まで見たことがないくらいに怯えていた。
目を全力で見開き、瞬きひとつせず歯をがちがちと鳴らすその様子は、どう見ても普通ではない。
極限まで怯えきった人を見るのは初めてで、その尋常ではない様子に俺の方まで恐怖が伝染してくる。
湊には、何が感じられているのだろう。
「咲さん」
妙に通った部長の声が、不穏な空気をかき消した。
部長の声が耳に入ると同時に今までの事が嘘だったかのように元の宿直室へと戻り、それと同じように、湊の様子も通常時のものに戻っていく。
覆っていた魔素を復活させたのだろう。
「何が聞こえてた?」
湊の様子はすっかりいつも通りに戻ったように見えたのだが、視線があちこちへと動き回り、毛先を触る仕草も触るというよりは、そのまま引き千切ってしまうのではないかと思えるほど荒々しい。
必死に、平静を取り戻そうとしているのだろうか。
「声、声です……声が、色々な方向からずっと聞こえてて……」
しばらく部長に肩を抱かれた後、湊は掠れてしまった弱々しい声で語り始めた。
「何を言っているのかは分からないんです…… たぶん日本語だけど、外国語みたいに聞こえてて…… でも絶対に私の事を呼んでいて……」
目には生気が無く、こちらを見つめてはいるが、明らかにどこか遠い所を見ている。
「でも全然怖い声じゃないんです…… 一緒に遊びに行こうよ、みたいな、友達を遊びに誘うみたいな楽しそうな声で……」
「咲さんをこの部屋から出そうとしたんだ、でも体の方が罠に気付いて防御反応を見せた。 そのおかげで強い恐怖を感じたんだろう」
大丈夫だよ、と声を掛け、部長は湊の肩から背中へと手を動かす。
そうしてもう一度魔素を込める動作をすると、湊の様子は徐々に回復していった。
「この様子だと無理そうだね」
「そうですね、これは流石に無理だと思います」
微かな物音にすら体を硬直させるようになってしまった湊を布団に寝かせ、俺と部長はその様子を見ながら隣に座っている。
湊の精神的ダメージは相当深いようで、部長の魔素をもってしてもすぐに元には戻らないらしい。
小野寺さんには申し訳ないのだが、こうなってしまってはとても助けにいける状態ではない。
「咲さんの霊感は思ったより強いようだ。 今回はそれが悪い方向に働いてしまったね」
「俺が大丈夫なのは鈍いからですか?」
「そうだね、魔素に対する感受性と霊に対する感受性には似た所があるから、君は純粋な霊体に近づいてもそれほど影響を受けずに済むんだろう」
そう言われると、自分の体質も悪い所ばかりじゃないんだと思えてくる。
ただ今は、小野寺さんを手助けする為にも部長の邪魔にならないで済むような能力が欲しい。
部長は、そんな君だからこそ傍にいて欲しい、なんて言っているが、今回のように他の人間も巻き込んで迷惑をかけるようなら初めからついてこない方が良かったのではないか。
「はぁ……また君に心配をかけてしまったね。 君がそんな顔をするのも私の力不足が原因だ」
畳についていた俺の手を部長の手が包み込み、部長は俯いた俺の顔を覗き込んでくる。
まるで子供に言い聞かせるような優しい口調と、こちらの不安を和らげるために浮かべられた慈愛に満ちた笑み。
だが、その手は氷のように冷たくなっている。
「いやそんな、せめて自分を守れるくらいのなにかがあれば……」
俺がそう言った瞬間、部長は目をかっと見開いて、こちらを真っすぐに見つめてくる。
綺麗だったグレーの瞳には漆黒が交じり、その目で見つめられていると、まるで全身の熱を奪われていくようだ。
部長の瞳が黒に近づくにつれ、怪異と直面した時のような本能的な恐怖が体を満たしていく。
「ごめん、約束を破る。 この部屋は安全だし、外の奴らも黙らせる。 終わらせてすぐに戻るから、私に弁解する機会をくれないか?」
いつもの涼しげな声とは違う、果てしない怨みが込められたかのような低い声。
この目で見つめられ、この声で話しかけられると、嫌でもあの時の事を思い出してしまう。
この状態になった部長の魔素は、冷たさを通り越して熱くなるのだ。
まるで周囲から一切の熱が奪われてしまったようで、唯一熱を持つ自分の体が熱いと感じられてしまうような異常な寒さ。
鈍い俺ですらそんな状態なのだから、一般人ならどうなってしまうのか。
そんな怪異に近い部長を前にしているというのに俺の脳は過去の回想やどうでもいい思案に耽っている。
恐らく人間は、本当に怖いと思うものを前にするとまともに考える事が出来なくなるんだろう。
あるいは、その現実が受け入れられないのだ。




